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タラレバ娘、抗えない老い、後悔、そして『騎士団長殺し』

村上春樹の最新長編小説『騎士団長殺し』の感想を書く。物語の核心に触れないよう細心の注意を払うけど(つまり、まだ読んでない人が目にしても大丈夫なように書くけど)、とはいえ「何も知らない状態で『騎士団長殺し』を読みたいんだッ!」という人にはこの感想はスルーしてもらったほうがいいと思う。本を読み終わったらまたブログを読みに来てください。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

ある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても

まず読み終わって最初に思ってしまったのは、村上春樹ももう68歳、作家としては大ベテランだ。『騎士団長殺し』も過去の作品の焼き直し感が強く、特に目新しい手法が導入されていたようには思えなかった。もちろん小説として面白かったし、夢中で最後まで一気に読んでしまったけれど、村上春樹ファン以外に特別にこの作品をすすめたいか、と問われると答えはNOである。上巻で張り巡らされた伏線が下巻でカチカチとパズルがはまるように回収されていくのだけど、そのパズルが鮮やかすぎるというか、「上手くなりすぎちゃったなあ」と思ってしまったのが正直なところだ。私はもう少し、不格好でイビツで危なっかしいほうが個人的には好みである。まあ、それは読む前からある程度予測できていたことでもあるので、ここでは特に深入りしない。

それが全体的な印象ではあるのだけど、『騎士団長殺し』で個人的にグッときた部分をあげると、下巻で主人公が自らの結婚生活を振り返るシーンがある。この小説の主人公は36歳で、肖像画を描く仕事をしているのだけど、ある日突然妻から離婚を切り出されてしまうのだ。そしてそのことを、近隣に住む免色(メンシキ)という中年の男と、こんなふうに語る。

「結婚生活について悔やんでいることはなくはありません。しかしもしある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても、やはり同じような結果を迎えていたんじゃないかな」
「あなたの中に何か変更のきかない傾向のようなものがあって、それが結婚生活の障害となったということですか?」
「あるいはぼくの中に変更のきかない傾向みたいなものが欠如していて、それが結婚生活の障害になったのかもしれません」


p.140『騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編


「ある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても」、やはり同じ結果を迎える。私は人生において後悔というものをほとんどしたことがない人間なのだけど、それは「いついかなるときも目の前のことを全力で(しかし客観性は失わず)やってきたからですっ!」なんて理由からでは全然なくて、一種の諦念から来ているというか、ひとつくらいの選択を変えたところでどうせ人生はたいして変わらないだろう、という感覚を持っているからだ。「あのときああしてたらよかった」なんて思わない。「あのときああしていたとしてもきっと同じだった」と思う。だから「〜していたら」「〜していれば」なんて全然考えないのだけど、他の人は人生に対してどういう感覚を持っているのだろう。「タラ」「レバ」で自分の人生の可能性を広げて考えることができる、というのはけっこう幸福かもしれない。私の場合はまさに、自分の中に変更のきかない傾向のようなものがあって、それが人生の障害になっている。あるいは強みになっている。そういう感覚があるので、この主人公にはけっこう共感を覚えることができた。人生を点として考えるか(そしてそこから様々に枝分かれする)、線として考えるか(一時的に枝分かれしているように見えても最終的には同じ場所に着地する)。

そして、村上春樹の小説に通じているその一貫した「諦念」のようなものが、やはり私は好きなのだった。運命には抗えないというか、配られたカードで勝負するしかないというか。天から授けられたgiftに変更はきかないし、文句をいうこともできないのだ。

待ってください。あともう少しすれば──

『騎士団長殺し』の主題はなんだったのか? という話になると、それは「老い」と「子供」になるのかな、と思う。生きていると、人は老いる。世の中にはお金持ちも貧乏も、男も女も、モテる人もモテない人も、いろいろいる。だけど唯一、時間だけは平等で、「やがて老いて死ぬ」という点は残酷なことに、どんな人であっても皆同じだ。

この小説の主人公は前述したように36歳なのだけど、その主人公が追いかける存在として、90代の老齢画家・雨田具彦という人物が登場する。この老齢画家は意識が混濁していて、養護施設に入所しており、マトモな話ができる状態ではない。しかし、それは主人公そして我々が、遅かれ早かれ向かっていく避けられない姿でもある。

作者の村上春樹がなんといっても68歳なのでそういう描写にならざるを得ないのだろうけど、この小説における36歳という年齢は、まだまだ未熟な若者だ。死ぬまでの時間は、基本的にはたっぷりと残っている。が、たっぷりと残っているように見えても、それが刻一刻と減っていっていることに変わりはない。だからプロローグで、肖像画家である主人公は焦っている。ある人物に対して、あなたの顔はまだ自分には描けない、と。そして、「待ってください。あともう少しすれば──」と訴える。主人公はそうすることでとりあえずの猶予を得られるけど、しかしあと何回、チャンスがあるかはわからない。

どうしたらそのある人物の顔が、主人公は描けるようになるのか。時間を味方につけるしかない。「老い」は一般的にはネガティブな響きをともなうけど、誰にでも平等に訪れる避けられないものなのだとしたら、敵にまわすより味方につけたほうが賢明だ。だから老いることを、時間が過ぎていくことを、味方にするしかない。村上春樹自身も老齢に差し掛かっているので、この人は自分のために、そんなメッセージを込めた『騎士団長殺し』を書いたのかな、と思った。

村上春樹の小説はファンタジー要素が多いし、登場人物もすぐにパスタ茹でたりセックスしたりするのであまり現実味がないというか、個人的な香りがしないのだけど、唯一このプロローグには村上春樹自身の個人的な香りが、少しするような気が私にはした。あともう少し、時間をくださいと。まだ書きたいことがある、でも書けるようにならないんだ、と。だけどきっと、「完成」など迎えられるはずもなく、未完成のまま、中途半端に人は死ぬのだろう。

「子供」については、たぶん私以外にも感想で触れる人がたくさんいると思うので、ここでは特に言及しない。だけど繰り返すように、村上春樹自身がトシだから、「老い」とは何か、そして遺伝子的な子供を持つ人も持たない人も、何を残して自分は死ぬのか。そんなことを考える小説にしたかったのかなあと思った。

冒頭に書いたように、村上春樹ファン以外の人に特におすすめできるような要素がある小説ではない。だけど、「老い」について考えてみたい人が読むと、何がしかのヒントは得られるかもしれない。そして、「スタイルが完成されすぎちゃって上手くなりすぎちゃって面白くない」村上春樹が、そこからどう老年をあがくのかを私はメタ的に楽しみにしているので、今後も、村上春樹の小説は問答無用で発売日に買って読むと思う。まあ、こういうのは一種のお祭りだからこれでいいのだ。

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