チェコ好きの日記

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『鬱屈精神科医、占いにすがる』を読む

生きることが苦しいと感じたとき、人は何に救いを求めるだろうか。ある人は宗教かもしれないし、ある人は哲学や文学かもしれない。ある人は心療内科に行くかもしれないし、またある人は占い師にすがるかもしれない……。

『鬱屈精神科医、占いにすがる』という本の著者である春日武彦さんは、タイトルにある通り精神科医で、普段は人に救いを与える側である。だけど還暦を迎え、生きることにどうしようもない倦怠を感じるようになり、自分のほうが救われたいと思うようになってしまう。そこから春日さんの、占い師ハシゴ生活が幕を開けるのだ。

春日さんは、「人の悩みを聞く」という点において、占い師は自分(精神科医)と同業者であると語る。実際、訪ねて行った占い師にも、自分の職業について打ち明けると、「あら、そういったお仕事の方が、わざわざご相談ですか」と少々珍奇な目で見られてしまう。同業者の世話になる、同業者の接客をする。確かに、どちらにせよやりづらいものではありそうだ。『鬱屈精神科医、占いにすがる』は、そんな珍奇な体験が綴られた、シニカルで、ユーモア溢れる、しかしどうにもこうにも人間臭いエッセイである。

鬱屈精神科医、占いにすがる

鬱屈精神科医、占いにすがる

私事だが、著者の春日さんは自分にちょっと似ている。どういうところが似ているのかというと、何につけても皮肉っぽいというか、厭世的な態度をとるところである。だけど、見苦しい弁解をしておくと、私の場合このシニカルな態度は転じてポジティブの源になっている。シニカルな態度は自分に対しても向けられているので、何かで落ち込んでしまったとき、自分で自分をおちょくることによってあまり深刻にならないのである。

春日さんも、常に悩みの多い人生だったというわけではなく、おそらく若いときは世の中にも自分にもシニカルな態度で接し、それなりに精力的に生きてこられたのではないかと思う。シニカルな生き方というのは、向き不向きがあるので万人におすすめできるものではないが、効く人にとってはものすごく効く生き方だ。前向きだし、明るい。が、どんな態度も万能ではないので、ふとしたキッカケで突如がくっと来ることは誰だってあるのだろう。

本に書かれた春日さんの苦悩を読んでも、タイトルにある通り「鬱屈としている」としか言いようのない、複雑に入り組んだ出口のないものがあるだけだ。苦しみの本質に何があるのかは、よくわからない。おそらく、容易く言語化できるようなものではないのだろう。

「今年になってからですね、二冊ばかり本を出しました。一冊は小説で、もう一冊は〈キモい〉という感覚をテーマにした評論とエッセイと哲学の混ざったような本です。内容は自分でもそれなりに自負するものがあって、表面的には軽い感触だけど実はかなりヘビーなものを包み込んだ作品です。雑誌やネットの占いを参照しますと、天秤座の今年はラッキーで、今までの不遇がやっと去って花開くみたいなことが書いてある。おおむねそういった調子で一致しています。おお、そうか。やっと世間に受け入れてもらえそうだぞと意気込んで世に問うてみたら、ほぼ反響なしの大コケでした。なぜ受け入れられなかったのか、その理由すらわからないので反省のしようがない。それこそ自分自身が世間から否定されたという気分しか生じない。おまけに〈キモさ〉を論じた本を執筆した際には、信じ難いような無礼かつ不誠実な仕打ちを編集者から受けたりして何が何だか分からないといった始末で、それこそどこかから強烈な悪意が作用しているとでも思うしかないんですよ。誰もが私のことを微妙に軽んじたり小馬鹿にしているような気がどんどん強まってくるし、とにかく明らかに変なんだけど、何がどう変なのか、それすら分からないまま自分が朽ち果てていくような気がして、もう不安でたまりません。誰もが私を見限り、みるみる孤立していく感触がリアルに知覚されるんです」

鬱屈精神科医、占いにすがる』p40-41

エッセイ前半の春日さんは、このようにただただ「鬱屈としている」。しかし、占い師をハシゴし、突如感情が高まって占い師の前で嗚咽混じりの涙を流したりしていく過程で、徐々にその苦悩の本質(に極めて近い部分)に、自分の母親がいるらしいことが朧げに見えてくる。繰り返しになってしまうけど、春日さんはもう還暦だ。母はすでにこの世を去っている。だけど考えれば考えるほど、自分の人生は「母に認められたい」というその一心だけをモチベーションに進んできたものではなかったかと、春日さんは懐古する。このあたりは、「もらい鬱」というか、読んでいるこちらのメンタルも参ってしまうような描写がある。20代後半とか30代くらいで、「本当はあのとき、とても辛かった」と幼少期の記憶を乗り越えようとする話はけっこう聞くし、実際みんな、相当辛い思いをしつつもそれをどうにか乗り越えるのだろう。だけど、乗り越えたと思ったそれは、気が付くとまたふとしたときに頭をもたげる。乗りこなし方が上手くなるだけで(それは十分立派なことなんだけど)、きっと消えるわけじゃないのだ。

私自身の話をすると、自分は母に対しても父に対してもあまり思い入れはなくて(気付いてないだけという可能性もなくはないが)、何かを選択するときに親が基準になってくることはほとんどない。だけど、いろんな本を読んだり人の話を聞いたりしているうちに、やっぱり自分にもそういう、出生ゆえの呪いみたいなのがあったりするのかなと、最近は考えるようになっている。それが何なのかは今はまだ上手く言語化できないけれど、私も還暦が近付いたら判明したりするのかもしれない。

医師として、春日さんはいつも「こちら側」から、精神を病んだ人に救いの手を差し伸べていた。だけどやっぱり、「精神的な病を抱えている人」と「精神的な病を抱えていない人」を、はっきりと区別することなんてできないのだろう。人間ならば誰しもが、皆それぞれの病を抱えている。ただ、それによって日常生活が困難になってしまっている人と、日常生活ではあたかも病など抱えていないかのように振る舞える人がいるだけなのだ。そして、その分水嶺というのは日々、湖の水面のようにゆらゆらしていて、けっこう簡単にバランスを崩す。明日の自分がどんな気分で生きていられるかなんて誰にもわからない。

本書の春日さんの物言いは一貫して、鬱屈としていて重い。だけど、『鬱屈精神科医、占いにすがる』というコミカルにも聞こえるタイトルには、まさしくそんな自分を自分でおちょくる、皮肉っぽいユーモアがあふれている。語り口は重いけど、なぜか笑ってしまう。若いときから一貫してスピリチュアルなものに馴染んできた人ならともかく、そういうものをずっとバカにしてきていそうな精神科医が、還暦になって占い師にすがるようになるなんて決してかっこいい姿ではない。というか、もっとはっきりいうとみっともない。だけどそこにこそ、人間のおかしみというか、愛おしさというか、悲しさが表れている気がして、まあ、人間なんてそんなもんでしょ、いいじゃん、と私は思う。

それにしても、本一冊分の容量を割いて精神科医が分析しているっていうのに、60歳を過ぎてもなお人間は自分のことがよくわからないらしい。もちろんそれは、春日さんが自分の人生に向き合ってこなかったからだとか、そんな軽薄な理由からではない(向き合うくらいで自分のことがわかるなら苦労しない)。そうではなくて、人も、物事も、世界のありとあらゆるものすべて、「わかった」なんてことはありえないのだろう。一つ「わかった」ことが増えたら、それは物事を簡潔にではなく、複雑にする。むしろ、何かについて「わかった」とその全容を理解したかのように思ってしまうことは、大いなる誤解と欺瞞の始まりになるだろう。

「一つ一つのことが明るみに出るたびにそれは、光ではなく、影を投げかけた。」というマーガレット・ミラーの言葉でこのエッセイは締めくくられている。この言葉はとても素敵だ。私も、自分の手帳にでも書き込んでおこうと思う。



※「もとくらの深夜枠」で、占い師さんへ取材に行く企画をやっているよ!
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