チェコ好きの日記

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憧れのあの人に近づくために何をするか

ブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』は、映画史上で唯一、五大大陸のすべてでヒットした作品なのだそうだ。イスラム教圏の人も、キリスト教圏の人も、仏教圏の人も、みんなブルース・リーが大好き。理由はもちろん、映画の中で「アチョー!」という意味不明の叫び声をあげながら手足を振り回していたリーが、ものすごくカッコよかったからである。

とはいえ、『燃えよドラゴン』を冷静に観てしまうと、「その掛け声、いる?」と私などはところどころでツッコミを入れたくなる。

これは自分が野暮なのかと思っていたら、リアルタイムでこの映画を鑑賞していた少年たちもまた、「さすがに『アチョー!』はバカなのでは……?」という思いを少なからず抱えていたらしい。いや〜そうだよねえ。

しかし、「バカなのでは……?」という思いを抱えつつも、映画館を出ると、「アチョー!」と叫びながら友達に膝蹴りをくらわせてしまう。友達もまた、「アチョー!」と叫びながらやり返してくる。

ブルース・リーの身体の動きはそういう、思わず真似したくなってしまうある種の感染性を持っているらしい。イスラム教圏の人も、キリスト教圏の人も、仏教圏の人も、みんなブルース・リーの動きを真似る。「ブルース・リーがかっこいい」は、もう少し具体的に言い換えると、「動きを真似したくなる」ということらしいのだ。

燃えよドラゴン ディレクターズカット (字幕版)

何か運動を始めたいな〜と思ったとき、ジム通いでも水泳でもなく格闘技を選んでよかったと感じることは、「真似することの難しさ」を身を持って体感できたことである。

毎回の練習で、「次はこの技を覚えますよ〜」という感じで先生がお手本を実演して見せてくれるのだが、最初、それはいかにも簡単そうに見える。二、三回やったらすぐにできそうな気がする。

だけど、簡単そうに見えるというのは実はすごいことで、それは余計なところに余計な力が入っていないということなのだ。だから、簡単そうに見えた技ほど覚えるのに苦戦する。複雑そうに見えた技はそれはそれで難しいのでつまり全部難しいんじゃねえかよという話になってしまうのだが、そう、全部難しいのである……。

私がもともと運痴で物覚えが悪いというのはあるにしろ、練習場の鏡で自分の動きを見ていると、「なんつー『頭の悪い身体』だ!」と愕然とするのは初回からあまり変わっていない。頭の悪い身体というのは日本語としておかしいけれど、自分の感覚としてはぴったり。

憧れのあの人に近づくために何をするか

私はこれまでの人生で、「好きな人」や「尊敬する人」にはそれなりに出会ってきたけれど、「この人みたいになりたい!」「この人の一部を自分のものにしたい!」と思う人には、幸か不幸か(不幸だな)、出会って来なかった気がする。

だけど、もしも今後そういう人に巡りあったら、たぶん、その人の読んでいる本を読むより、その人が勧めていた映画を観るより、その人の動きを観察して、喋り方から言葉遣いから息遣いまで、身体的なものをそっくりそのまま真似してしまうのがいいのだと思う。その人の思想の根本や本質は、きっと、そういうところに出ているのだと思う。そしてそのほうが、その人の読んでいる本を読むより、その人が勧めていた映画を観るより、何十倍も労力が必要で、難しい。

話題の占い師しいたけさんが、テレビ番組で見た精神科医名越康文さんを見て「この人は何だ!?」と衝撃を受け、番組を録画して名越さんの喋り方や息遣いを研究し真似したという話は、私にとってなかなか面白い。

それから、ある人や集団と一緒にいることによって「喋り方が移る」という体験を誰もがしたことがあると思うけど、あれもなかなか面白い現象だ。思い返すと、いくら一緒にいる時間が長くても、嫌いな人や集団の喋り方は絶対に移らない。少なからず好意のある人間の喋り方しか、一緒にいても移らないのだ。


「身体の動きを真似したくなる」ということは、もしかしたら「好き」の最終形態なのではないかと思う。

参考

白人の支配する香港のスラム街で育った元不良少年のブルース・リーが目指していたのは、あくまでハリウッド、白人社会での成功だった。武術と哲学で己を鍛え上げた人だったが、本当は最後の最後まで心に平安は訪れず、孤独なまま亡くなった人だったのだと思う。

ブルース・リーが唯一教えを乞うたカンフーの師匠、葉問(イップマン)が主人公の映画。最後のほうでブルース・リーと思われる少年がちらっと出てくる。監督はウォン・カーウァイ