真剣に考えちゃったんですけど、幽霊現象はおそらく見られる幽霊側に主体があるのではなく、見る我々側に主体がある。つまり、下半身を露出してる幽霊が現れないのは、「そんな幽霊いるはずない」という我々の認識の問題。一例でも下半身露出の幽霊が現れたら、その後続々と変態幽霊が出てくると思う。 https://t.co/UsMZmVPt6B
— チェコ好き (@aniram_czech) 2017年7月21日
……と、いう上のツイートはちょっとした冗談なんだけど、私は、やっぱり幽霊なんかいないんじゃないかって思ってる。いないっていうか、いるんだけど、それは私たちの外側ではなく内側に存在している。「何か嫌な予感」とか、「天候が変わる前触れ」みたいなのを感じ取れる人は確かにいて、ただそれは別に人の形をしてはいない。霊感がある人(の脳)っていうのは、「何か嫌な予感」という言語化・視覚化できないものを具現化するために、仕方なく、人の形をした何かを見ているのではないかと思うのだ。
森や丘や谷を前にすると 動物や他のものだった 私の前世が現れる
ところで、タイに行ってみたい、と思ったことが私はこれまでほとんどない。というか、今もそんなに強くタイに惹かれているわけではなくて、バンコクにもチェンマイにも離島リゾートにもほとんど興味がない。
ただ一箇所、あの人の故郷を見てみたい、と思っている場所がタイにはある。
あの人とは、映画監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンだ。彼の故郷はタイの東北、イサーンと呼ばれる地域である。タイでもっとも貧しく、メコン河の向こうはもうラオス。もしもタイに行くなら、ラオスから陸路で入国して、アピチャッポンの故郷であるイサーンを見てみたい、と思う。
アピチャッポンの代表作である『ブンミおじさんの森』は、初めて観たときから私の中でまったく色褪せておらず、むしろ深みを増しているから、この映画の公開が2010年だったことを知って今びびった。そうか、もうそんな前か……。しかし、あと50年は余裕で観られる強度のある作品である。エンタメ色はかなり薄いので、人にはあまり薦めないけど、私は初めて観たときからこの映画がずっと大好きだ。
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『ブンミおじさんの森』は、アピチャッポンがとある僧侶からもらった、『前世を覚えている男』という本がもとになっているらしい。
前世を覚えている男・ブンミさんは、今生きている人間としての自分だけでなく、その前の複数の生を思い出すことができるという。象狩りだったときのこと、水牛だったときのこと、さまよう亡霊だったときのこと。ただし、どの生を生きているときも、ブンミさんはいつもタイ東北、イサーンにいた。
この話をこれだけ聞くと、このブンミさんって人は、頭がおかしい人なんじゃないかと思うだろう。まあ実際、冷めたことをいうと本当にただ頭がおかしいだけの人である可能性めちゃめちゃあると思うんだけど、アピチャッポンの『ブンミおじさんの森』を観ると、ブンミさんの言ってること案外マジかもしれない、と思えてくるから不思議だ。
私はまだタイに行ったことがない。映画の舞台であるイサーンのことなんか、欠片も知らない。だけど、この映画に出てくるすべての映像になぜか私は見覚えがあって、知らないはずの場所が涙が出るくらい懐かしい。
(※アピチャッポン映画の音楽を集めたサントラ、めちゃめちゃよい)
これは、私も前世でイサーンに住んでいたのかもしれない……というオカルトな話ではなくて、単純に、優れた芸術というのはそういうもんなのだ、という解釈をするのが正しいと思う。アピチャッポンの『ブンミおじさんの森』以外にも、私はアンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』を観たときに同じ感覚に陥った。「どうしてこの人は私のことを知ってるの?」という気にさせるものが、アートでも、映画でも、文章でも、いちばん強い。
アピチャッポンはインタビューで、ブンミさんのことが羨ましかった、と語っている。その気持ちは私もすごくわかる。ブンミさんは前世を覚えているから、映画がいらない。映画がなくても、まだ見ぬ景色を懐かしいと思えるから、覚えているから、映画がいらない。今生きている生しか知らない私たちのような人間は、映画や文学を通してしか、他の生を生きることができない。
『ブンミおじさんの森』でいちばん好きなシーンは、行方不明だった息子が猿の霊になったといって毛むくじゃらになって訪ねてくるところもユーモアがあっていいけれど、やっぱり、王女さまが夜の川でナマズとセックスしてたら自分もナマズになっちゃうところである。このシーンのロケ地がイサーンのどこなのかわからないけど、そのものズバリの場所じゃなくても、似たような場所があるならいつか、イサーンを旅してみたいと思う。
このシーンで王女さまが言う「水面」とは、さながら映画のスクリーンのことであり、また文字が書かれた原稿用紙のことかもしれないと、私は思うのだ。
水面に映る影は幻とわかっているけれど 本当にあれは幻?