チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「書いている」なんてレベルでは、まだまだ

私たちはだれでも、なんとなく、「ホンモノは、とても純粋だ」と思っている。お金が欲しいからとか、有名になりたいからとか、成功したいからとか、モテたいからとか、そういった感情のすべてを完全に否定するわけではない。でも、そういった感情はやっぱり不純物だと思っていて、有名になった人にかつてそういった感情があったことを知ると、ものすごく軽蔑したり幻滅したりする。


お金なんてなくてもいいし、有名になることなんて望んでいないし、成功もモテもいらないけれど、ひょんなことから人目について、話題になってしまった。全然、ねらってなんかいなかったんだけど。モデルや俳優の応募理由でよく「友達が勝手に応募しちゃって……」ってのがあるけれど、これもその典型だろう。なぜ私たちはお金や成功やモテにこんなにも否定的な感情を抱くのか、その理由を読み解くことは今回の主旨ではないので省略するけれど、いずれにせよそういった状況はある。ちなみに、私がブログを書いているのは、お金が欲しいわけでも、有名になりたいわけでも、成功したいわけでも、モテたいわけでもないよ。ホントだよ。


まあそれはいいとして、そんなふうに純粋な状況を究極的に求めるとなると、たどり着くのは「アウトサイダー・アート」になってしまうのではないかと思う。ピカソなんか、現世で金持ちになって女にモテまくってるから、レベルとしてはまだまだである。売れたかったけど現世では夢叶うことなく、死後にようやく評価されることとなったゴッホで「いいカンジ」だ。しかし、ホントのホンモノは、そもそも「金」「成功」「モテ」そういった邪心とは最初から完全に無関係なはずである。ただひたすらに、己の表現欲に突き動かされるまま描き、本人の死とともに危うくこの世から葬り去られそうになったそれを、知人が遺品の整理でたまたま発見して戦慄する。私たちはそんな、ヘンリー・ダーガーみたいなシチュエーションに、うっとりするような夢を見るのだ。


ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

だれから習うことも、だれから盗むこともなく、だれから強制されることもなく、だれから対価を支払われることもなく、ただ自分の内なる声の命ずるままに、なにかを生み出しつづける人々がいる。芸術という名の産業から遠く離れた地にあって、彼らはときに変人と呼ばれ、知的障害者と呼ばれ、霊能者と呼ばれながら、黙々と自分だけの閉じた宇宙を紡いできた。アウトサイダー・アーティスト。動くのではなく、動かされる者。作るのではなく、作らされる者。俗界のはるか彼岸と交感しつづける、孤高のアンテナ。


都築響一珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)』(p225)


Twitterやインスタグラムでフォロワーが何万人もいる人のことを「インフルエンサー」なんて言ったりするけれど、そういう人たちを前にして、私たちが頭を抱えることは少ない。「何のために毎日、ツイートや写真を発信してるんですか?」なんて疑問に思ったりしない。それが仕事だから、あるいは仕事に繋がる可能性があるから、である。フォロワーをお金で買ったり、Twitterでキラキラ女子を演じたり、インスタ映えだけを重視してかわいいスイーツを撮影後に捨ててしまったり、そういう人たちを軽蔑することはあっても、疑問を持ったりはしない。何のためにそんなことをするのか、動機は十分に理解できるし、むしろ自分の中にも少しだけそういう部分があるからこそ、あからさまな行動に出る人を糾弾するのではないだろうか。


だけど、いわゆる「アウトサイダー・アーティスト」を前にすると、私たちは悩む。上の引用で都築響一さんが言っているように、彼らは「俗界のはるか彼岸」と交感している。自分だけの閉じた宇宙を、生涯をかけて紡いでいる。フランスには「シュヴァルの理想宮」という建造物があるが、郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルがなぜこんな奇妙な宮殿を作り上げたのか、理解できる者は多くないだろう。「なんだそれ」と思った人はググって欲しいのだけど、彼は34年かけて、給料のほとんどをセメント購入にぶっこんで、周囲に変人扱いされながら理想の宮殿を作り上げた。これがホントの「好きなことして生きていく」だ、と私は思う。シュヴァルは自分の作りたいものを作るのに、だれからの評価も、対価も、名声もいらなかったのだから。


郵便配達夫シュヴァルの理想宮 (河出文庫)


19世紀後半、郵便配達夫のシュヴァルは43歳のとき、家路につく途中で小さな石に躓いた。その石を拾い上げて見てみると、なかなか面白い形をしている。石が気に入ったシュヴァルは、それを家に持ち帰る。以来、シュヴァルは石の収集がやめられなくなり、集めた石たちで自分の理想の宮殿を作ろうと思い立つ。郵便配達の仕事をしながら、勤務を終えたあとに、シュヴァルは暗闇の中でロウソクを灯しつつ、完成までの40年以上、宮殿作りをずっと続けたのである。もちろんインスタグラムなんてないので、「今日はここまで出来ました! #シュヴァルの理想宮 #めっちゃ疲れた #あと何年かかるの」なんて投稿できない。究極的に孤独な作業である。


だけど、きっとシュヴァルはこの作業が、毎日とても楽しかったにちがいない。楽しくなかったら40年以上も続かないだろう。「自分だけの閉じた宇宙」というと「無理!」と思う人も多くいそうだが、私は、それって理想的な世界だし羨ましいよな、とよく思う。動くのではなく、動かされる。作るのではなく、作らされる。自分のためでも、誰かのためでもなく。そういう流れの中で表現できているときが、たぶん人間はいちばん楽しい。


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(※都築響一さんの『珍世界紀行』の中で、私はラ・スペーコラとボマルツォの怪物庭園なら行ったことアリ)


シュヴァルが43歳デビューだったとはいえ、きっと私自身は、ヘンリー・ダーガーやシュヴァルのような作品を創造することは生涯できないだろう。だけど、市井に生きる一般人でも、ごくごくたまに、動くのではなく動かされる、作るのではなく作らされる、書いているのではなく書かされている、ような感覚に陥ることはある。そういうときは、名声を得たいという意志でもなく、他者から求められる需要でもなく、もっと別の何かが動いている。そして、完全なアウトサイダー・アーティストになることはできなくても、そういった瞬間が多く持てた人は、たぶん幸せだ。


自分の意志と他者からの需要の間で、私たちはたぶん今後も永遠に悩み続けることになるだろう。自分のやりたいと他者から求められるものの間で、妥協点を見出しつつ上手いやり方を模索するのは賢い生き方である。でもこの手の問いの本当の正解は、たぶん、自己でも他者でもない、もっと不思議な何かに動かされることだと思う。他者から「書かされる」のでも自分で「書いている」のでもなく、不思議な何かに「書かされている」。市井の人がごくたまにしか持てないその瞬間を常に保ち続けているように見えるから、アウトサイダー・アートは、やっぱり今日もすごく眩しい。