チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

どうしても「待てない」人たちへ

本の受け売りなのだけど、人間を精神的に追い詰める状況は、以下の2パターンのどちらかに分別できるらしい。

①トラブルがいくつも重なる。まさに「弱り目に祟り目」といった事態。
②どうにも動きようがなく、じっと待つしかない状況。そのもどかしさと不安。


春日武彦待つ力 (扶桑社新書)


私自身のことを振り返ると、これは幸運といっていいと思うんだけど、今までの人生で①の状況に陥ったことはほぼなかった。大きな病気はしたことがなく、あり余っているわけでは決してないが、明日の食事に困るほど金銭的に困窮したこともない。仕事だったらトラブルが重なったことはあったけど、1つ1つが大したことなかったせいか、そんなに精神的に追い詰められなかった。もちろんこれから先どうなるかはわからないけど、私はあまりトラブルに巻き込まれるタイプの人間ではないみたいだ。


しかし、②の状況に陥って精神的に堪えたことは何度もあるし、「今精神的にヤバイ人〜!」という号令で体育館に人を集めたら、割合的にも②の人のほうが多いんじゃないかと思う。「こちらから何度も送っているうちに、ついに好きな人からLINEが返ってこなくなってしまいました。私はどうしたらいいんでしょうか?」みたいなのは(追い詰められる、というにはちょっと軽いけど)典型的な②の状況だ。そしてこのような状況に対する回答は、言い方には人ぞれぞれ個性が出るけれど、基本的には「何もするな。もうちょっと待ってみなさい」という内容で統一されるのではないかと思う。問題は、もどかしさや不安を抱えながらどのようにして「待つ」のか、というところにある。

いささか大げさに申せば、待つことは自分の運の強さを試す営みに近い。運命の悪意や気まぐれに、こちらは強制的に付き合わさられる。
(中略)
待つという行為は、それが切実なほど、待ち時間が長いほど、こちらの心が弱っているときほど、妄想的な色彩を帯びがちとなります。考えが現実離れしていったり、被害妄想的になっていきかねない。


春日武彦待つ力 (扶桑社新書)

アゴナールの城壁


話は変わって、イタリアの作家で、ディーノ・ブッツァーティという人がいる。雰囲気的にはカフカに似ていて、皮肉っぽくて意地悪な話が多いのだけど、私はそういうのが大好きなので漏れなくブッツァーティも大好き。そのブッツァーティの短編に、『アゴナールの城壁』という作品がある。


中東かどこかの砂漠地帯で、主人公は城壁に囲まれたアゴナールという町をガイドに案内される。アゴナールは周囲との交流を一切絶っていて、しかしユートピアに似た素晴らしいところらしい。主人公とガイドがたどりつくと、なるほど町は20〜30メートルの高い城壁に囲まれており、中の様子を窺い知ることはできない。そして、その城壁のまわりには、大小のテントがたくさん張られている。彼らはユートピアに憧れて、アゴナールの城壁の門が開くのを、今か今かと待っているのだ。


待っていたのは 短編集

待っていたのは 短編集

(※こちらの短編集に収録されている)

「で、門はいつ開くわけ?」と主人公はガイドにたずねる。だけどガイドは、「わからない」と言う。今日かもしれないし、明日かもしれないし、3ヶ月後かもしれないし、5年後かもしれない。それを聞いて、主人公は呆れる。そんな曖昧なもの、テント張って待ってるなんてバカなんじゃないか、と。


しかし、紆余曲折あって、主人公は実に24年もの間、野営をしながらアゴナールの城壁の門が開くのを待つことになってしまった。でも24年の間、結局、門は一度たりとも開くことはなかった。主人公はとうとう諦めて、自分の国へ帰る決心をする。そして、そんな主人公を見て野営仲間たちは言う。「あんたはせっかちだなあ。もう少し待ったら門が開くかもしれないのに。あんたは人生に多くのものを求めすぎだ」と。


主人公が去ったあと、アゴナールの城壁の門がどうなったのかは書かれていない。だけど、もし自分が去った一時間後に門が開いたとしたら、主人公はどう思うだろう。そしてその可能性はゼロではまったくない。「待つ」ことはだから、ギャンブルに似ている。自分の、運の強さを試すものだ。そして、だからこそ多くの人は、「待つ」ことに耐えられない。そんな不確かなものに自分の身を委ねるわけにはいかない。


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「続かない」のはなぜか


ダイエットが続かない、筋トレが続かない、ブログが続かない。よくある話だし、私自身にも腐るほど身に覚えがある。ではこれらが「続かない」のはなぜかというと、待てないからだ。今日食事を抜いて、明日すぐに目に見えて痩せるなら、ダイエットが続かない人なんていない。筋トレを始めて、明日すぐに心身の変化があって人に体を褒められたら、筋トレが続かない人なんていない。ブログを始めて、1週間後にすぐに10万円稼げたら、ブログが続かない人なんていない。


みんな、待てないのだ。効果が表れるのはいつなのか、自分の身に変化が訪れるのはいつなのか。続けても、このまま何も起きないんじゃないか。「継続は力なり」というが、どちらかというと「継続はギャンブル」だ。時期を教えてくれるだけでもいいのに、と思う。「1年間毎日続けたら確実に変化が起きます」。もしも神様のような絶対的な存在がそう教えてくれたら、まあうっかり1日2日忘れることはあるかもしれないけど、たぶん多くの人は、続く。アゴナールの城壁の門も、待ち時間が問題なのではない。「いつ開くのかわからない」ことが問題なのだ。「30年かかるけど、30年待てば確実に開く」ということがわかっていたら、主人公だって途中で野営をやめたりしなかっただろう。


で、じゃあ結局、『アゴナールの城壁』の主人公は、どうすれば良かったのだろうか? 最初からそんな曖昧なもの、待つべきではなかったのか? それとも、「3年」とか「10年」とか、期限を決めて待てば良かったのか?



前者のように考えた人は、もしかしたら、「俺は別に今、特に何も"待って"ないけど?」って人なのかもしれない。しかし、私たちは少なくとも、自分にいつか死が訪れることをわかっていて、その上で生きている。これは、死を待っている、とも言える。なので、本質的には「待つ」ことをしていない人は誰もいない。いつ死が訪れるかはわからない。明日かもしれないし、60年後かもしれない。これはまるで、『アゴナールの城壁』と同じ構造ではないか。なので、「最初からそんなもん待つべきじゃない」と言う人は、それは「今すぐ死ね」と言っているのと同義だ(ってのは、ちょっと暴論だけど、でも、そうじゃないです?)。


期限を決めて待つ。こちらはもう少し穏やかである。3年待ってみてダメだったら、10年待ってみてダメだったら。損切りが重要になってくるシーンもあるだろうし、まあ妥当なんじゃないかなという気はする。でも、なんか、モヤモヤする! 好きな人からのLINEが返ってこない女の子に、「1ヶ月待ってみて、ダメだったら彼のことは諦めなさい」というアドバイスは確かに有効に見えるけど、1ヶ月経った時点でスパッと切り替えられるかというとそうはいかないのが人間だし、その1ヶ月が長くて苦しいから相談しているのである。


そこで提案したいんだけど、実は、もう1つ道がある。それは、「待っていることを忘れること」だ。実際、私たちは自分の死に対しては、こちらの方策を採用している。


私たちは死を待っている。死は、いつか必ず訪れるものではあるけれど、いつ訪れるかはまったくわからないというひどく厄介なものだ。だから、忘れる。私を含め、多くの人は自分が死ぬことについて、リアリティを持っていない。それを平和ボケとか言うこともあるけど、しかし考えてみればこれはなかなか賢い選択なのだ。


アゴナールの城壁』の主人公は、待っていることを忘れれば良かった。テントを張って、野営をして、形式的には「待っている」ことになれども、仲間たちとの交流を楽しんだり、アウトドアにめちゃくちゃ凝ってみたり、砂漠でラクダに乗って遊んでみたり。そしてときどき、一瞬だけ思い出せば良かった、いつかアゴナールの城壁の門が開くかもしれないことを。そうすれば、いつまでもいつまでも待っていることができた。


いつも頭にあるから不安になる。いつも考えているから待てない。損切りしてしまったほうがいいシーンは確かにある。でも、私たちには死がある以上、すべての「待つ」ことからフリーになることはできない。だとしたら、やっぱり「いったん忘れる」しかないのだ。


忘れる、でも待っている。自分の運の強さを信じて。「待った上で、結果が出て、やっぱりダメだったら?」そのときは、運命を受け入れる覚悟をして。


神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

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(※『待っていたのは』は高いので、ブッツァーティの作品に触れてみたい方にはこっちのほうがおすすめ。『七階』が人気みたいだけど、私が好きなのは『コロンブレ』)