チェコ好きの日記

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村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』全作品レビュー

短編小説集『回転木馬のデッド・ヒート』は、私が(たぶん)人生で2冊目に手に取った村上春樹の本である。ちなみに最初に手に取ったのは『パン屋再襲撃』。時は(たぶん)2002年、私は高校1年生である。


内容はほとんど忘れていたんだけど、今回実に16年ぶりにこの短編集を再読したので、以下は収録作品すべての感想。

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

レーダーホーゼン

物事には何においても、前兆というものがある。雨が降る前は雲行きが怪しくなるし、浮気をする恋人はトイレに行くときもスマホを握りしめて離さないだろう。親しい人の死はどんな場合においても受け入れがたいが、それでもせめて、事故や災害で突然目の前から消えていなくなるよりは、永遠の別れをゆっくりと受け入れることができる病死を願うものではないだろうか。


レーダーホーゼン』はある夫婦の別れを描いた短編小説なのだけど、それ自体はどこにでもある話だ。ただこの物語において特異なのは、その別れの決心を、妻のほうが、何の前触れもなく「突然」することである。「レーダーホーゼン」とはドイツ人がよくはいている、上に吊り紐が付いている半ズボンのことだ。妻はドイツで一人旅をしている途中、帰りを待つ夫へのお土産として、そのレーダーホーゼンを一着、仕立て屋に作ってもらう。そして、仕立て屋が同僚と一緒にわいわい冗談を言いながら半ズボンの仕立てをしている間に、妻は唐突に、夫との離婚を決心するのである。


人の気持ちは変わってしまうものだが、それにはせめて論理的に説明できる理由や、「この人の気持ちは変わってしまうんだろう」という前兆がほしい。そしてその変化はできるだけ、ゆっくりと進行してほしい。お土産の半ズボンを仕立ててもらっている間に、突如夫への憎悪がわいてきたなんて、意味がわからないし理由にならないだろう。でも、理由はわからないけど、突然嫌になる。そういうことって確かにある。


思い返してみれば『象の消滅』なんかもそうだけど、村上春樹の短編において「突然消える・突然変わる」ってそこそこよくあるモチーフな気もする。「女心と秋の空」とあるように、村上春樹自身が移り気な女性に振り回された経験が(もしかしたら)生きているのかもしれないが、移り気なのは女心だけではもちろんない。人の心に、天変地異に、降りかかる理不尽に。人はいつだって、振り回されている。

タクシーに乗った男

この短編を再読して、めちゃめちゃめちゃめちゃ時の流れを感じてしまった。この短編の内容が古いというのではなく、単純に私がきっちり16年分、年をとってしまったのである。チェコ、ニューヨーク、ギリシャ。この短編に登場するどの国も、まだ高校1年生だった当時の私は訪れたことがなかった。一方、16年後の私は、この小説に登場するすべての国を訪れている。ああ、年をとったんだな〜!


物語の鍵となる「タクシーに乗った男」が描かれた絵画を、画商の女主人公はチェコ人の男から買い取る。この男は1965年、チェコから亡命し、女主人公の住むニューヨークにやってきたのだ。1960年代、チェコ、亡命──16年前の私は何も知らないのだ、それらの言葉がのちのち自分の人生に重くのしかかってくることを。6年後の自分が大学院で「1960年代・チェコ・亡命」の研究をする羽目になることを、10年後の自分がそのせいで変なハンドルネームを名乗ってインターネットで文章を書く羽目になることを。


この短編は、もしかすると高校生だった私の深層意識に沈み込んで、私のその後の人生を影で操っていたのかもしれない。と、いうのはもちろん冗談で、まあただの偶然なんだけど、読み返したらなんだかその後の自分の人生を予言されていたような気持ちになって、「気持ち悪!」と思った。

プールサイド

この話は最初の数行を読んで、「ああ、私は昔、この話がいちばん好きだったな」と思い出した。他のことはすっかり忘れているのにプールで黙々と泳ぎ続ける男のイメージだけは鮮明に残っていて、私の中では「『回転木馬のデッド・ヒート』=プール」だったのである。ただ、読み進めていくうちに、だんだん私の顔は青ざめていった。


主人公は35歳になった男なんだけど、彼は人生においてまずまずの成功をおさめているといっていい。やりがいのある仕事と幸せな家庭、若い不倫相手、頑丈で健康な体、緑色のスポーツカー、クラシックレコードのコレクション。これ以上欲しいものなんて何もない。これ以上何を求めたらいいのかわからない。彼はふと、そのことに気付いて愕然とし、ソファーで泣く。全部持っているのに、満たされない。


私の人生は成功と呼ぶにはほど遠いが、でも、この男の気持ちが痛いほどよくわかる。生きている限り、人間は満たされないのだ。永遠に何かを求めて彷徨い続け、そして満たされないまま死ぬ。なんて惨めなんだろう。ある種の人間がそのことにようやく気付くのが、ちょうど30代前半くらいなのかもしれない。


それにしても、なぜ私は高校生のくせに、よりによってこんな暗い話がいちばん好きだったのか。アラサー以上の人間が感銘を受けるならわかるけど、高校生のチョイスにしてはちょっと渋すぎないか。


私はこの小説を、ずっと好きだったというわけではない。いちばん好きだったことを再読して「思い出した」のであって、内容はすっかり忘れていたのだ。それなのに、今の自分の虚無的な人生観とリンクしている。そのことに今、わりとビビっている。私、あれから16年も生きたのに、全然変わってないんだな……。

今は亡き王女のための

主人公が仲間たちと雑魚寝しながら、その中のカワイイ女の子とゴニョゴニョしちゃうシーンだけを、なぜかばっちり覚えていた。なんでこのシーンだけ鮮明に覚えてるんだろう。エロかったからか!?

昔も今もあまり感銘を受けなかったので割愛。

嘔吐1979

この話は再読するまですっかり忘れていたので、感覚的には初めて読んだも同然だった。すっかり忘れていたけど、そのわりにはけっこう好きな話。ある男が、原因不明の嘔吐といたずら電話に、40日間悩まされ続けるという話である。


嘔吐の原因はなんだったのか? いたずら電話の犯人は誰だったのか? 明らかにされないまま物語は終わる。嘔吐の原因にしてもいたずら電話の犯人にしても、「仮説でいいんなら、百だって二百だってひっぱり出せるさ」。問題は、起きた出来事の原因として、自分がどの仮説をとり、何を学ぶかということである。


「失敗から教訓を得なさい」とよく人はいう。たしかに、それは正しい考え方だ。だけど、失敗の原因ってどれもいってみれば「仮説」なんだよな。誰かを怒らせたり傷つけてしまった場合だって、相手の体調が悪かったのかもしれないし、たまたま機嫌が悪かったのかもしれない。すべては「仮説」に過ぎないという前提に立った上で、どの「仮説」をとるか、人生はそれの繰り返しな気がする。

雨やどり

これも、あまり記憶に残っていなかった話。記憶に残っていなかったということは、高校生のときは読んでも特に何も感じなかったのだろう。しかし今読むと、ちょっと女性蔑視が入っている気がして、なかなか「好き」とは言い難い。まあ、この短編集自体が古い時代のものだから、ある意味ではしょうがないのかもしれない。今は村上サンの意識も変化しているだろうことを祈る。昔付き合いのあった女性編集者が、大手出版社を退職して無職になり、その期間にお金持ちのおっさんに売春をしたという話である。


今後、こういう類の「当時はすっと受け入れられていたが今となってはポリコレ的にやばすぎる作品どうしようか問題」は各所で噴出するだろうと思う。アラーキーなどの一件もその一つといえば一つである。アラーキーの場合は実際に被害に遭われた女性がいるのでまた難しいが、少なくとも生身の関係者がいない小説などの場合、参考になるのは映画史におけるD・W・グリフィスの『国民の創生』的なポジションかなと(個人的に)思う。


国民の創生』にはKKKが英雄的に登場し、黒人は悪役として描かれる。だから今の倫理観に照らしわせるととんでもねー映画なのだが、それはそれとして、映画史を勉強するときにグリフィスの『国民の創生』は絶対に出てくるし、「当時の」という注釈付きで名作として扱う。倫理的には問題があるけど、それはそれとして映画の歴史を一歩進めた画期的な作品ではあるので、注釈付きで名作扱いする。なかったことにはしない、というやり方である。


「なかったことにはしない」という扱い、個人的にポイントなんじゃないかなと思っている。小説の感想じゃないけど。

野球場

これは、「ああ〜こういう話あった気もする〜〜」という、覚えていたとも覚えていなかったとも言い難い作品だった。ただ、この話から得られた教訓は私は特になし。

ハンティング・ナイフ

これも完全に忘れていた話。やっぱり、ところどころ女性蔑視的な香りが漂っている気がして不快(まあ村上春樹の作品においてそれを言い出すとキリがないのだけど)。教訓はよくわからないが、終わり方が好き。唐突なエンディングって好きなのだ。


いずれにしろ、これは私の価値観だけど、自分の好きな作品を、好きだからといって「問題はない」と擁護するのは悪手だろうと思う。「問題があることは認める。しかしそれでもなお私はこの作品のポジティブな面を評価しているし、好きだ」という態度を私はとっていきたい。

まとめ

回転木馬のデッド・ヒート』の16年ぶりの再読は、なんだかタイムカプセルを開けるような体験だった。当時の私にとって村上春樹とはまだ「大好きな作家」ではなく、『パン屋再襲撃』がけっこう面白かったからもう1冊なんか読んでみようかなくらいの存在だった。チェコのこともフィッツジェラルドのことも、まだ何も知らなかった。あと時代もそうだし、私自身も幼かったので、村上春樹が小説において女性をどう描いているかとか全然気にしなかった。


『タクシーに乗った男』や『プールサイド』のように、この短編集には、その後の私の人生の伏線になるような話がいくつか入っている。そのことが、少し怖いような、ちょっと嬉しいような、不思議な気持ちだ。『回転木馬のデッド・ヒート』は、まだ何も知らないスポンジみたいな脳みそをしていた高校生の私の深層意識の中に、するすると入り込んでしまったらしい。


よく、昔の恋人がつけていた香水のかおりがふと鼻をさすと、当時の記憶が蘇ってくるなんてことを誰かがいう。私はちょっとそういう体験はないのだけど(ロマンチックじゃなくてすいませんね)、何年も前の記憶が、当時の映像や小説や音楽によって、暴力的に引き出されてしまうことならたまにある。忘れていたと思っていた。「なんでこんなこと覚えてるんだろう?」と思う。


人間の脳みそには、開けないままでいる、でも確かに存在している引き出しが、いくつかあるんだろう。ふとした偶然から開けられる引き出しと、おそらく永遠に開けられることのない引き出しと、両方。

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