年末年始に『死の棘』を読んでいたのだけど、どちらかというとこの私小説の登場人物である島尾ミホに焦点を当てた『狂うひと』のほうが読みたかった。『死の棘』は『狂うひと』を読むにあたっての、いってみれば前座である。(ただ前座といっても600ページ以上ある!)
- 作者: 島尾敏雄
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1981/01/27
- メディア: 文庫
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『死の棘』が出版された当時のことをもちろん私は知らないのだけど(1977年)、夫の浮気を知って気が狂った妻を極限まで描いたスキャンダラスな純愛「小説」として、つまり多くの創作を含む作品だとしてこれまで受け止められてきたらしい。しかし『狂うひと』の著者である梯久美子は、遺された膨大な資料をもとに、小説の中にあったやりとりが実際にあったこと、実際の日記の文面がそのまま小説に登場していること、また著者・敏雄が書いた文章を狂った当の本人である妻・ミホが清書していたことなどを明らかにしていく。さらに小説の中でミホに「あいつ」とだけ呼ばれ続けた、敏雄の愛人にあたる人物を特定している。
- 作者: 梯久美子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/10/31
- メディア: 単行本
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『狂うひと』の中では明らかにされる真実がいくつもあるのだけど、その一つに「敏雄の浮気はどうやって発覚したのか?」がある。夫側の『死の棘』では「見ることのないはずだった敏雄の日記を、ふとしたきっかけでミホが見てしまった」という体で話が進んでいく。しかしこの評伝では、夫婦に日記を共有する習慣があったことなどから、「敏雄があえてミホに日記を見せた」がより真実に近いことが明らかになる。敏雄は、ミホと出会った奄美の加計呂麻島で、特攻隊員として戦争で死ぬはずだった。生き残ってしまったのは誤算だった。そこで、妻であるミホを狂わせることによって、文学者としてあえて自分の身を極限の状態に追いやったのではないか。本当に狂っていたのは、ミホではなく敏雄だったのではないか──暴かれていく「本当の話」に、ちょっと背筋が凍る。
しかし遺された資料をもとに書かれた評伝であるとはいえ、この評伝がどこまで真実に近いのかも、またわからない。真実は誰が知っているのか。故人である敏雄とミホなら知っているのか。でも、私はそれもまたわからないなーと思う。敏雄から見た真実と、ミホから見た真実は、おそらく違うのではないだろうか。本人が書いた日記を見ればわかるものなのか。だけど人は、誰に見せるわけでもない日記帳の中でも、簡単に嘘をつく。「書く」あるいは「語る」という行為そのものが、嘘を孕むものなのではないだろうか。
梯久美子氏は、『死の棘』で「書かれる者」だったミホが、自らの日記などをもとに「『死の棘』妻の側から」なる原稿を準備していたことも明らかにしている。その原稿は結局日の目を見ることなくミホは亡くなったが、彼女は「書かれる者」で終わることなく「書く者」になることで、きっと自分の側から見た真実を遺そうと思ったのだろう。
『死の棘』と『狂うひと』が抱える問題は、気難しい顔をした小説家や文学者だけが唸っていればいい話ではない。むしろ、誰もが「書く者」である権利を手にした現代でこそ、「どこまで、何を書くか」という問題は表面化する。真実を書こうとすれば、おそらく関係する誰かを傷つける。その攻撃性に気付かない書き手は愚かだと私は思う。別に誰を揶揄するわけでもないが、恋愛や結婚について赤裸々に書く者を持ち上げるムードがあることに、私は今後も反対し続けるだろう。
ただ、では「何も書かない」ことが正しいのかというと、私はそうも思っていない。「文学に対する考えはひとそれぞれでしょうが、ぼくだったら、それを書かないということは、文学が現実に負けたということであり、社会に負けたということであると理解します」という吉本隆明の言葉が、『狂うひと」では引用されている。私はこの吉本隆明の言葉に賛同するわけではないけれど、おそらくこの問題にわかりやすい「正解」はない。
加計呂麻島で出会った敏雄とミホの「隊長さま(島を守りにきた神)と無垢な少女(聖なる巫女)との出会い」という構図が崩れていくさまもまた、興味深い。敏雄は守りにというよりは自分も仲間も死ぬつもりで島にやってきたし、ミホはハイカラな当時としては進歩的な女性で、無垢な少女などでは決してなかった。情欲のまま行動してミホに梅毒を移した敏雄は、自分がこの戦争が終わったあとも生き残ることなど到底考えていなかったのだろう。物語を美しくすることも、また過剰に汚らわしくすることもできる。「書く」というのはそもそもがそういう行為だ。
ちなみにこの本について他の人の感想をネットで探していたら、故・雨宮まみさんの書評が見つかったのだけど、読んだらとても面白かった。『死の棘』『狂うひと』と合わせて、ぜひ一読をおすすめする。「書く」ことには必ず何らかのコントロールが加わっている。だとしたら「読む」者にも、ある程度の批判的な目線が必要なのかもしれない。
それはもちろん、こういう時代である、現代だからこそだ。
ものを書く人間は、みんな嘘つきです。一度も嘘を書いたことがないというもの書きがいたら、その人も嘘つきです。面白い方向に事実をねじ曲げる、会話のニュアンスを微妙に変えるといった明らかな嘘以前に、何を書いて、何を書かないかという取捨選択があります。その判断は、どんなにフェアにやったって、限りなく黒に近いグレーじゃないでしょうか。