前編はこちら。アルゼンチン・チリのパタゴニア地方について書いている途中である。
「一人ぼっちで闇の中に放り出されたとき、大切なのは焦らずに、まず心に大きな白地図を描くこと。そこに知識をひとつずつ当てはめていく。そして自分の思った方角の闇へ、一気に漕ぎ出す。ありったけのエネルギーをつぎ込んで。絶対にその先に自分の場所がある、と信じてイメージするんだ。もしそのイメージが崩れたら、きっと遭難してしまうだろう。信じること。そこにあることをただまっすぐ、信じるんだ」
プエルト・エデンの先住民であるカワスカル族は、海洋に生きる民だった。今は血を引いている人がどれくらいいるのかわからないけど、「海」を正確に読む力を、彼らは幼い頃から叩き込まれているという。知識なしでは航海できないが、知識だけでも航海できない。もしも真っ暗闇の海へ一人、放り出されてしまうようなことがあったら、そこからいかにして遭難せずに生還するか。カワスカル族の血を引くリンチェという男は、上のように語ったらしい。
勇気が出る言葉でもあるが、これは理にかなってもいる。人間の脳は、パニック状態になって混乱に陥ったとき、もっともエネルギーを消費してしまうのだそうだ。もしも海で遭難してしまったとき、生還に必要なのは行く先をひとつ決めて、後は余計なことは考えないことである。信じて、ただ真っ直ぐに進む。もちろん闇雲に勘を信じるのではなく、持っている知識と知恵を総動員して。それが生還への最短距離だ。
これが人生への何がしかの比喩に感じられるのは、きっと私だけではないと思う。
話は変わって、プエルト・エデンよりももっと南、フエゴ島にかつて住んでいたセルクナム族について。彼らは「ハイン」と呼ばれる儀式を行なっていたそうなのだけど、そのハインの際に、珍妙なボディペイントを施していたことでよく知られている。赤と白の縞々だったり、ドットだったり。ウルトラマンに登場する怪獣のモデルに、なったとかなってないとかって話もある。
ハインはセルクナム族の神話をなぞらえていて、例の珍妙なボディペイントはその神話に登場する精霊を模している。いろいろな登場人物(精霊)がいるのだけど、私にとって特に印象的だったのが、サルペンという女の精霊である。
彼女は大食漢で、またものすごい男好き。お腹が空きすぎたとき、あるいは男がセックスに応じなかったときは男の肉を貪り食ってしまうため、不気味な精霊としてとても怖れられていた。だけど彼女の子供である赤ん坊の精霊クネルテンはすごく可愛らしくて、みんなに愛されている。この矛盾が、なんというか、神話っぽいなーと思う。そしてサルペンは、地下世界の住人でもある。怪物のような怖ろしい女が地下世界にいる……ってのは日本の神話とも通じる部分があるけれど、こういうのってやっぱり人類の普遍的な感覚なのだろうか。
ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死
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サルペンほど怖ろしくはないが、男好きの精霊は他にもいる。クランは一妻多夫制、たくさんの夫を持つ女の精霊だ。クランはそのへんの男をとっ捕まえて、天に連れていってセックスしてしまう。クランに捕まると為す術がないので、男も、またその妻もただ従うばかり。
……と、セルクナム族の祭典「ハイン」は、なんだか多分に性的なのである。私がヤラシイところを抽出して書いているわけではなく、祭典自体が生々しい。セックスする、食べる、食べられる、殴る、泣き叫ぶ、大笑いする。儀式とはいったけれど、市長さんのお話を聞いてウトウトしているような日本の成人式とはワケが違い、すべての動作がマジなのである。
※ウシュアイアにある「世界の果て博物館」
「それにしてもなんでみんな私のことをいつも悲しそうだ、と言うのかしら? 私が昔を懐かしんでいろんなことを思い出しているからでしょうね。良いことも悪いことも。悪いことの方が多かったけどね」
両親がセルクナム族だった最後の人々の一人であったビルヒニア・コニンキは、最期の言葉の一部で上のようなことを語っていたという。彼女はパタゴニア本土やブエノスアイレスで女中として働き、最期は先祖の地でその生涯を終えた。
他にも、人類学者が実際のハインに参加したことがあるセルクナム族に取材をすると、「あの頃は本当に楽しかった」と彼らは儀式を懐かしんだらしいのだ。セックスする、食べる、食べられる、殴る、泣き叫ぶ、大笑いすることを、それらを本気でやることを、彼らは楽しんでいたのだ。
だけど純血のセルクナム族はもうこの世にはおらず、このハインという儀式も今は行われていない。数点の写真と資料が残るのみで、この豊かな神話を持った民族は永久に失われてしまった。ウシュアイアまで行っても、もう彼らのことは博物館にある資料でしか知ることができない。
博物館で彼らの写真を眺めていて不思議だったのは、ユーラシア大陸からベーリング海峡をわたり南米大陸へと移住した彼らの祖先がモンゴロイドだったため、セルクナム族が私たちと同じアジア系の平べったい顔をしていることだ。アルゼンチンは、日本から見るとほぼ地球の裏側である。こんなに遠いところに、私と祖先を同じくする民族が住んでいたんだなあ……と考えると、自分がとても大きな歴史の渦の中にいる、という感覚に陥る。彼らの豊かな神話が失われてしまったように、いつか私自身も、私の記憶も思想も、私のことを知っている人たちも、永久にこの地上から去るときが来るのだろう。それはとても悲しいことだ。だけど同時に、私に深い安堵をもたらすものでもある。
旅行記としてブログに書くのはここでいったん区切りなのだけど、今後も思い出したらなんかいろいろ書くかもしれないです。
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