チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

シュヴァンクマイエルとフェミニズム『練金炉アタノール』『クンストカメラ』

2025年8月、ヤン・シュヴァンクマイエルの新作『蟲』と同時に、ドキュメンタリー作品である『練金炉アタノール』『クンストカメラ』も公開された。『蟲』の感想は前回書いたので、今回は『練金炉アタノール』『クンストカメラ』の感想をメモしておく。

ところで、『蟲』のときは劇場満員だったし、『練金炉アタノール』『クンストカメラ』もわりと客の入りはよかったような気がするんだけど、このシュヴァンクマイエルファンって日常ではどこに潜んでいるんだ。映画館は大盛況なのに、リアル知人の間やSNSでは盛り上がっている形跡がまったくない。イメージフォーラムにだけ時空の歪みが発生していて別世界なのだろうか……わからん。

『蟲』のフンコロガシ氏

『練金炉アタノール』

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まずはシュヴァンクマイエルの映画製作を追ったドキュメンタリー作品から。これは正直あまり期待していなかったのだけど、思いのほか面白かったし、もしも2008年の段階でこれを見ることができていたら、私の卒論は微妙にちがう内容のものになっていただろうなあと思った。

シュヴァンクマイエル、ビジネス社交じゃなかった!

シュヴァンクマイエルの作品を見ているとわかるが、彼の映画はとても内向的な感性によってできている。中でも私が好きなのは、シュヴァンクマイエル映画に出てくるごはんが、毎回めっちゃ不味そうなことだ。これは食べることに喜びを見出していない人間が撮った映像だ!ということがすぐわかるので、同じく食べることに興味がない私はいつも共感を覚える。よかったー、食べることに興味がないの世界中で私だけじゃなかったー、と毎回ほっと一息なのだ。


他にも、「ヤン氏、陰キャじゃろ…?」と思える表現はいくつもあり、全部あげるとキリがないのだが、同時に疑問が沸き起こる。映画は一人では作ることができない。しかも長編映画ともなると、片手や両手じゃ済まないほどたくさんの人間が関わる一大事業だ。内向的で一人で絵を描いたり謎オブジェを作ったりするのが好きそうなシュヴァンクマイエルおじいちゃん、どうやってこの事業を成し遂げているのだろう。もしかして、内向的な感性を内に秘めたまま大人としてやることはちゃんとやれる「ビジネス社交」タイプか…? と、学生時代の私は疑問に思っていた。


そして、その答えがこのドキュメンタリー映画の中にあった。シュヴァンクマイエルおじいちゃんはやっぱり、一人でしこしこ謎オブジェを作るのが好きな陰キャで、ビジネス社交タイプではなかった。では映画事業はどうやっているのかというと、ここで奥様・エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーの出番である。つまり、おじいちゃんのほうは監督として看板をぶら下げつつ、他の人と交渉したり現場の雰囲気作りをしたりしていたのはエヴァおばあちゃんのほうだったわけだ。エヴァが亡くなったときのヤンの落ち込みはそりゃもうすごいものだったとは聞いていたが、映画製作において欠かせない役割を担っていた人がいなくなってしまったのだから、公私ともに大ダメージ必至である。シュヴァンクマイエルの映画において、エヴァはとても重要な役割を果たしていた。看板に出ているのはあくまでヤンの名前だが、私はこれまでずっとエヴァの作品も見ていたのだな、と思うとすごく腑に落ちた。そしてヤンのほうは正真正銘の陰キャであった。「私は会話は苦手で…」などと言っていた。イメージを崩さないでくれてありがとう!

エヴァフェミニズム

『練金炉アタノール』では、しばしばシュヴァンクマイエルの過去作品が挿入される。『自然の歴史』、『庭園』、『エトセトラ』、『ファウスト』、『ジャバウォッキー』、『ルナシー』、『アリス』、『悦楽共犯者』。どれも懐かしいなあいいなあと思って見ていたが、しかしやっぱり、シュヴァンクマイエルは男! 学生時代も「ん?」と思った表現はあったが、それはこの年になってもやっぱり「ん?」だったし、昔だったからよかったものの今だったらめっちゃ怒られてたでしょこの表現、という感じのやつは正直すごくある。それに関しては擁護できないが、でも、ギリギリありかな…ダメだけどなしよりのアリかな…と思えるのは、実は製作現場にエヴァがいたからかな、と思ったのであった。


シュヴァンクマイエルいわく、エヴァは女性として生まれたことをとても不運だと思っていたという。「それでもエヴァはいわゆる〈フェミニスト〉ではなかった」と彼は話し、そのへんの感性はまあおじいちゃんだからな〜と思ったが、隣で見ていて、「自分にはない生きづらさをエヴァは感じているみたいだぞ」と気づいてはいたらしい。そこらへんをまるっと無視する系のおじいちゃんではなかった。シュヴァンクマイエルフェミニズムについてどのような意見を持つ系のおじいちゃんなのだろう? というのは私の長年の疑問だったので、それが少しわかってよかった。あと、シュヴァンクマイエルは男だが、マッチョ系の男じゃなく陰キャ系の男なので、権威主義的ではないところも「ダメだけどなしよりのアリ」表現に留まらせていたのかもしれない。

ファンと嫌そうな顔で写真撮影

『練金炉アタノール』では、シュヴァンクマイエルがファンと写真撮影をするシーンが2回ある。1回目は欧米のファンと、2回目は日本人のファンと撮影するのだが、どちらも、顔がめっちゃ嫌そう。カメラを向けられた途端、表情筋と目がすっと死ぬヤン。この顔がとてもとてもよかった。めっちゃいい顔見れて得した! ファンと写真撮るの本当に嫌なんだなと思った。でも自分の作品を好きだと言ってくれる人に冷たくはできないし、賞なんてイラネと正直思っているがみんなで作り上げたものだから無碍にはできないし、なんせ映画は作ったからにはヒットしなければみんな飢えて死ぬので、商業的なことをまるっと無視はできない。そういう、資本主義と周囲の人の善意と温かみに触れながら、それでも「めんどくせえな」と思ってしまうシュヴァンクマイエルおじいちゃん、人間味があってすごくよかった。「嫌そうな顔でファンと写真を撮るヤン」を見れることがこの映画の最大の価値である、といっても過言ではないくらいすごくいい表情をしていた。

徹底的にシラフ

シュヴァンクマイエルは『ルナシー(狂気)』というド直球タイトルの映画を作っているが、なんとなく、その狂気は薬物由来のものではないのである。「薬物による狂気(表現)」と「薬物ではないものによる狂気(表現)」があるとしたら、シュヴァンクマイエルの狂気は徹底して後者だ。前者と後者のちがいを言語化するのは難しいが、後者はとにかく陰気だし、楽しい気持ちにまったくならない。ハイな要素が一切ない。


そして、その理由もこの映画を見て納得。シュヴァンクマイエルは一度だけLSDをやったのみで、基本的には薬物に手を出さないし、普段は酒も飲まない、頭痛薬すら飲まないという(ただし糖尿病の薬は飲む)。「こんなのシラフじゃできないよ」という言い方があるけど、シュヴァンクマイエルの映画は確かに、「こんなのシラフじゃなきゃできないよ」という感じなのだ。その秘密がわかってよかった。

『クンストカメラ』

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同時公開のドキュメンタリー2本目、『クンストカメラ』。こちらは正直に申し上げると、シュヴァンクマイエルの超超超ファン以外は別に見なくてもいいと思う。というか、それ以外の人が見るとたぶん退屈すぎて死ぬ。私も何度か意識を失いかけ、耐えた。チェコの南西部ホルニー・スタニコフにあるアトリエの中の、シュヴァンクマイエルの自作謎オブジェや謎絵や世界中で集めた珍品を、約2時間ナレーションなしで延々と映しているだけの映画。ナレーションくらい入れてくれたっていいだろう! と思ったが、しょうがない、シュヴァンクマイエルだから…。


何度か意識を失いかけたのは事実なのだが、面白かったポイントに絞って話すと、アフリカの珍品コレクションがけっこうあって興味深かった。シュヴァンクマイエルチェコ人で、旅行が好きというわけでもなさそうなのだが、でも、アフリカ好きなんだ〜と思った。あとアジア系でいうと日本の春画があって、そうなんだ〜と思った。私自身は生涯にわたってこんなコレクションを持つことはできないだろうが、旅行に行かなくても、世界って変だなあと思わせてくれる場所があるのは素敵だ。でも、なんとなくわかるからいいけど、どこで見つけてどうやって入手したのかとか、インタビューくらい入れてくれてもよくない!? と五回くらい思った(そして意識を失った)。



ヤン・シュヴァンクマイエルというアーティストは日本語の情報も少なく、とにかく謎に包まれているので、卒論を書くのは大変だった。あのときこの情報があればなあ…! とドキュメンタリーを見ていて何度も思った。80歳超えのおじいちゃんなのでもう長編映画は撮らないよと言ってるし、あとは一人でしこしこ謎オブジェや謎絵の制作に励む余生なのかもしれないが、世界にこんな人がいてくれてよかったなー、と思える数少ない映画監督の一人であることに変わりはない。長生きしてね、シュヴァンクマイエルおじいちゃん!

令和に見る、ヤン・シュヴァンクマイエル 『蟲』

2025年8月に満を持して公開となったヤン・シュヴァンクマイエルの『蟲』。そういえば、私は2016年にこの映画を製作するためのクラウドファンディングに参加してたんだった……ということを鑑賞中に思い出した。いやだって、あれから9年ですよ! クラファンしたの忘れるわ。しかし、わずか数千円に過ぎないとはいえ、私が稼いだお金がヤン・シュヴァンクマイエルの最後の長編映画のために使われたというのはいい経験になった。よかったよかった。

クラファンのお礼画面

というわけで以下は『蟲』の感想を書いていくのだけど、シュヴァンクマイエルは私にとって、他の映画監督とはまったく異なる意味と重みを持つ。なぜならこの人の映画に惚れ込んで卒論と修論を書いて、しかも社会人になって始めたこのブログ「チェコ好きの日記」の語源(?)になったから。私はチェコの映画が好きなのでハンドルネームが「チェコ好き」なのですが、そのチェコの映画の中心にいるのは永遠にヤン・シュヴァンクマイエルなのです。

シアター・イメージフォーラム

自語りはほどほどにするとして、正直なところ、『蟲』を見るのに不安な気持ちがなかったわけではない。個人的には前の長編映画『サヴァイヴィング・ライフ ‐夢は第二の人生』がいまいちだったからだ。いつものシュヴァンクマイエルなのだけど、逆にいうといつものシュヴァンクマイエルでしかない。つまり何か新しいことに挑戦している要素がほとんどなく、撮影手法にしろ、テーマにしろ、これまでの焼き直しのような印象を受けたのだ。それが悪いかというと悪いとまではいわないんだけど、やっぱり、ちょっと残念感はある。まあ、シュヴァンクマイエルってもう80歳越えのおじいちゃんなので、別に過去の焼き直しだっていいだろ、長編映画1本撮れるだけですごいだろ! という話でもある。

「また焼き直しなんじゃないか?」ということ以外に、『蟲』には、令和に見る映画として大丈夫なのだろうか……という不安もあった。シュヴァンクマイエルの映画は、小児性愛カニバリズム、精神的な病など、タブーをガンガン扱う。私が学生だった頃は2008年とかで、まだ世の中がいろいろなことに(悪い意味で)寛容だった。小児性愛も、カニバリズムも、精神的な病も、私は「アートだからOK」という感じでかなり雑に見ていたし、それが特段咎められるような環境でもなかったと思う。当時はシュヴァンクマイエルの作品に女性蔑視的な部分があるとは特に思っていなかったけど、今見たら「およ?」と感じる部分があるのではないか──だって、80歳越えのおじいちゃんだし。ずっと好きだったものを嫌いになりたくないなあ……みたいな、そういう不安を抱えながら鑑賞した。

youtu.be

まずは『蟲』のあらすじを話しましょう。ある町(プラハ?)の小さなアマチュア劇団が、チャペック兄弟の戯曲『虫の生活』を上演するため、稽古をしている。しかしコオロギ役兼任の演出家以外、全員やる気がない! 遅刻したり、ずっと編み物していたり、稽古そっちのけで不倫のイチャイチャをしていたり……しかしそんな中でも稽古は進み、アマチュア劇団の現実と『虫の生活』の世界が交錯していく。ストーリー自体は「いつものシュヴァンクマイエル」感がある。

映画が始まってパッと目を引くのは、画面を覆い尽くす大量のGだ。私も当たり前にGは大嫌いなので本来は絵文字ですら見るのは嫌だけど、シュヴァンクマイエルだと「しょうがない、シュヴァンクマイエルだから」という感じで特に何も思わずに見られてしまう。でも普通にグロ画像なので、耐性がない人はしばらく目を瞑っていたらいいのではないかと思います。タイトルが『蟲』の時点でいろいろ覚悟して見なければならない。

そして大量のGのグロ画像以外に、もう一つ観客にとっての障壁になるのが、この映画があえて観客の集中力を削ぎに来るというおかしなことをやっていること。

例えば、ちょっとシリアスというかホラーなシーンに入る前に、そのシーンのメイキング映像を見せてしまう。ナイフで刺すシーンの直前にその撮影現場の全景や裏側などを映し、かわいいワンコが「ちょっと邪魔だよ〜」とかいわれながら追い払われているほのぼのメイキングが挿入されてしまう。ゲロを吐くシーンの直前に、そのゲロがどんなふうに作られているかを丁寧に──「オートミールを混ぜて作るとそれっぽくなるんだ。栄養満点だよ!」とかやってしまう。なので、ナイフで刺されてもゲロを吐いてもずっと面白いしずっとほのぼのしている。Gでさえも、シュヴァンクマイエル本人が手で触り「わ〜気持ち悪い、早くして早く〜」とかやっている。たぶん、気持ち悪いといいつつカブトムシ触ってるくらいの感覚なのかなと思いましたが……。というわけで、大量のGが画面を覆い尽くすというセンシティブ中のセンシティブ映像があるグロ映画であるにも関わらず、ずっとほのぼのしており、ラストはちょっとハッピーでさわやかな気分にさえなって映画館を出ることになるという、これは2025年に輝くトンデモ映画でした。

私が『蟲』を見るにあたって不安に思っていたことは前述したように2つあって、1つは「また過去の焼き直しなんじゃないか」ということ。これに関しては、もちろん本作は間違いなくシュヴァンクマイエルの映画でシュヴァンクマイエルらしさ満点なのだけど、焼き直しじゃ……なかった! 少なくとも私にとっては「お!」という「新しい何か」が感じられる作品だったので、80歳でもまだまだイケるんだ! と思いました(失礼な感想)。

そして不安に感じていたことのもう1つ、「令和に見ても倫理的にいろいろ大丈夫なのだろうか」という点は……結果的には、セーフというかラッキーというか、ここも回避できていたように思います。シュヴァンクマイエルおじいちゃんは「アップデート!」などという言葉とは無縁の昔ながらのおじいちゃん(だと思う)なので、ここが回避できていたのは単にラッキーってだけだと思うけど、まあ、結果的にシュヴァンクマイエルを嫌いにならずに済んだので個人的にほっとした。

学生だった2008年頃、まだ一般的ではなかったこともあり、私は「インティマシーコーディネーター」という言葉すら知らず、無知むき出しのまま映画を見ていた。

フンコロガシが出てきます

そして、そこから15年以上の時間をかけて、「いい映画を作るなあ」と思っていた映画監督が一人、また一人と問題を起こし、業界から消えていった。映画館自体も問題を起こし、あんなに素晴らしい映画を上映しているのになぜ足元が見えないのか、と暗い気持ちになった。私自身の認識も大きく変わり、自身の内面にあったさまざまなことを反省した。そんな中、再びシュヴァンクマイエルの映画に「再会」でき、それを学生時代と同じように楽しく見ることができたのは、ほとんど奇跡のような出来事に感じる。奇跡が大げさなら、単に「ラッキー♪」ってだけでもいいのだけど。


本作はエロ・グロでいうところのグロのほうに完全に振り切っている作品なので、シュヴァンクマイエルの映画にしては珍しく、いわゆる「インティマシーシーン」みたいなものはほとんどない。が、グロシーンやホラーシーンに挟まれるほのぼのメイキングが、観客の集中力を削ぐと同時に、「ちゃんと安全にやってますよ」という……つまり、「本作はヒロインが性暴力を受けるシーンがありますが、インティマシーコーディネーターに協力を依頼しています」といわれるのと同じような安心感を与えている。シュヴァンクマイエルおじいちゃんにはたぶんそんな意図はなく、メイキング映像の挿入はいつもの悪ふざけであり、いつもの芸術的実験であり、いつもの映画的倒錯なのでしょうが、結果として「本作はヒロインが性暴力を受けるシーンがありますが、インティマシーコーディネーターに協力を依頼しています」といわれるのと同じような効果を生み出しており、映画館を出るときの気分がとても晴れやかだった、というわけです。大量のGが画面を埋め尽くすグロ映画であるにもかかわらず……。

これ、2010年とかに見たら逆に私はどう思っていたのかな……と不思議である。シュヴァンクマイエルおじいちゃんのいつもの悪ふざけが結果的に功を奏して令和の倫理観に意図せずフィットしてしまった(?)という、私にはそんな映画に見えた。でも、同じような感想を抱く人はあまりいないと思う(笑)。15年以上のファンが抱いた一つの感想として受け止めてもらえれば幸いです。

たまに最後最後詐欺をやらかす監督もいるので実際どうなるかわかりませんが、もしも『蟲』が本当にシュヴァンクマイエルの最後の長編になるのだとしたら、けっこう幸せな鑑賞体験だったように思う。

www.zaziefilms.com

推し活で得られるものなんてない…いや、ある! 『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』

相変わらず二次創作を楽しくやっていてこちらのブログを放置している。それはいいとして、このオタク活動を続けた先にいったい何があるのか? と考え、虚しくなる瞬間が……残念ながら(?)、ない! 

なぜなら「この先に何もなくても今が楽しいからそれでいい、というか実利的なものが何も得られなくても『楽しかった』という記憶だけは死ぬまでずっと残るからいい、しいて言うならばそれこそが実利」みたいに考えているからである。

しかし、それでもあえて「すごく楽しい」以外にも実利っぽいものを求めるのなら、渡部宏樹著・『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』は、けっこう役に立つ本だったのではないかと思った。

というわけで、今回はこちらの本の感想です。

オタク活動の“実利”は「正しくない欲望」に触れられること

最近ブログをサボっているので前段階として自己紹介をしておくと、私はアラフォーで突然二次創作にハマった女オタクである(詳しい経緯はこちら)。

そのため、以下に書くことも主に漫画原作作品がある女性向け二次創作を想定したものになってしまうが、アイドルや俳優など3次元(2.5次元)の「推し活」に当てはまらないところがまったくないわけではない、と思う。『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』も、2次元から3次元(2.5次元)まで、あらゆる「推し活」をカバーした内容になっている。


本書で「はじめに」に続く第1部の第1章は、「あなたの欲望を大切にしよう」とある。

詳しい内容に触れると長くなるので「実際に本を読んでみてね!」としておくけれど、女性向け二次創作をやっていてよかったな〜と思うのは、市井の人の、偽りのない「正しくない欲望」に触れられる瞬間を多く持てると感じるからだ。もちろん、この「市井の人」には、自分自身も含まれている。

たとえば、「正しくない欲望」の代表としてあえて露悪的なものをあげるとするならば、「孕ませ」とかかな…と思う。「孕ませ」と聞くとおそらく多くの女性は嫌な顔をすると思うけど、私が観測している範囲では、女性であっても、エロとしての「孕ませ」が好きな人ってけっこういる。実際に、作家の三浦しをんは、『BL進化論[対話篇] ボーイズラブが生まれる場所』において、「『孕ませてやる』が自分の萌えワードである」と溝口彰子との対談で告白している(p409)。

ここで行うべきことは、「そうか、女も本心では『孕ませ=性的加害行為』を望んでいるんだ」という短絡的な解釈でも、「『孕ませ』に萌えるなんて正しくないのでそんな欲望は一切合切捨てるべき」という検閲的な態度でも、どちらでもない。

「なるほど、自分はこれに『萌え』るんだな」ということをいったん飲み込んで、話が通じる仲間とこっそり語り合ったり、“これ”に萌えるということはすなわちどういうことなんだろう? とメタ的に考えることである。

推し活をしていると、自分が普段表に出している思想とは全然違うものに「萌え」てしまい、戸惑うことがあるはずだ。ただ、それを短絡的に解釈するでも検閲して摘み取るでもなく、「いったん保留して持っとく」のが大切である、と本書は説く。そして、第1章で「あなたの欲望を大切にしよう」、第2章で「感じたことを誰かに話してみよう」、第3章で「欲望に形を与えよう」と続く。これを女性向け二次創作風に解釈するなら、第1章は「pixivで好きな二次創作にブクマをつけまくってみよう」、第2章は「Xで同好の者を探しリプで語り合ってみよう」、第3章は「自分でも漫画や小説を描いて(書いて)みよう」となるだろう。

創作をやっている者としてちょっと傲慢なことを言うと、二次創作にハマったのならぜひ「漫画や小説を(描く)書く」ところまでチャレンジしてみてほしいな…! と思う。始めから理想通りの創作をすることは難しいかもしれないけど、経験を重ねていくと「そうか、私は原作キャラにこうなってほしかったんだ」「こうであってほしかったんだ」という自分の内なる欲望に触れることができ、楽しい。

二次創作は絶対に金にならない(金にしてはいけない)ので、内なる欲望がないと前に進めない。ということは、完成したものはそういう資本主義的な価値を超越していることになる。このご時世、コスパもタイパも将来性もガン無視できる機会なんてそうそうない。1つ小説を完成させるたびに、なんて贅沢なことをしているんだろう、という気分に私はなる。しかも上手くいけば、もともとは廃棄物同然だった自分の気持ち悪い欲望が、誰かにとっての束の間の娯楽となり、癒しやエンパワメントにつながり、「この作品を生み出してくださってありがとうございます」と感謝までされるのだ。究極のSDGsである。

「正しくない欲望」に触れることの何が“実利”か

と、「あなたの廃棄物同然の欲望も作品として形になることで他の誰かの娯楽になります」も確かに実利でSDGsなのだけど、本書はこのような創作行動を、「資本主義社会への抵抗」と見なす。

資本主義社会では、商品を買うことが自己実現だと思わせる広告に囲まれて生きることになります。資本主義の「商品を買って欲望を満たせ」という命令から抜け出すためには、広告が宣伝するものとは異なる喜びを発見することが必要で、そのためには自分の欲望と向き合うことが大切です。自分自身の欲望を知るということは、与えられる刺激の中からどれが自分の好むものでどれが自分の好まないものかを認識するということであり、その意味ではひいては批評の能力にも関わるものです。(ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章 (河出新書) p79-80)

近年の推し活は過剰に資本主義的なものと結び付けられてしまい、推し活は資本主義への抵抗どころか、その中にどっぷり浸かって抜け出せなくなることとイコールになってしまった部分がある。ただ、消費行動だけが推し活ではない。「この作品、ブクマぜんぜんついてないけど私は好きだな」とpixivでハートを押すこと、これはやっぱり、すごく小さな資本主義社会への抵抗だと私は思う。なぜなら、それは本書が言う「広告が宣伝するものとは異なる喜びを発見する」ことだからだ。

ただ、「正しくない欲望」を表に出すことは、ときにかなり危うい橋を渡ることにもつながる。本書はその代表として「誰かのことを殺したいといった好ましくない欲望」を例にあげているが、「誰かのことを殺したい」よりもさらに好ましくないのが、やはりペドフィリア的な欲望だろう。本書も、「好ましくない欲望をいつでもどこでも無条件にオープンにしてOK」とはまったく言っていないし、私もそうは考えていない。そこはかなり繊細かつ微妙な問題なので、ここで安易に言及することは避けたい。

が、「これは正しくない欲望だからこっそりやろう」と同じくらい危ういのが、実は「私の欲望は絶対に健全で100%無害なのでフルオープンで大丈夫だ」と自信を持ちすぎることかな…と思う。

創作活動をしていると、「これはこっそりやったほうがいいやつだな」という後ろめたい欲望に、多くはどこかで突き当たる。というか、欲望は欲望である時点で多かれ少なかれ加害の要素を持ってしまうものなので、創作をやっていると「私ってキモイな」と自覚せざるを得ない。でも、この「私ってキモイな」こそがけっこう大切なんじゃないか、と思う瞬間がある。本書の第5章は、「『キモイ』自分を生きよう」となっている。もちろん、社会的に絶対に許してはいけない行為は存在するのだけど、「お前キモイよ」と誰かを断罪したくなったとき、「(ま、私もキモイけど)」という後ろめたさが、一歩手前でブレーキとして機能してくれ、分断を煽らないでいてくれることがある。

さらに本書は、自分の快楽や欲望と向き合う作業はケアの第一歩である、と説く。最近ホットなワード、「ケア」である。本当は、欲望に「正しい」も「正しくない」もない。ざっくり言えば、欲望は欲望である時点で、程度の差はあれだいたい全部正しくない。


問題となるのはそこから先で、自分のキモさや正しくなさ、暴力性や加害性をいかにコントロールし、他者との摩擦を減らすかだ。キモイこと自体が悪なのではなく、キモさをコントロールできないことが悪なのである。そして、自分のキモさのコントロールの仕方──どこまで出してどこから隠すかを、創作をやっていると、少し身につけられる気がする。つまり、廃棄物同然の欲望を、他者とのコミュニケーションの道具にし、資本主義社会への抵抗とする術を身につけられるのだ。これがオタク活動の“実利”だと私は思う。

…と、ここまで書いたことは、かなり(だいぶ)ポジショントークなので、話半分に聞いて(読んで)もらうので構わない。ただ、「本当か〜?」と思った方はぜひ『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』を読んでみてほしい。このブログはもちろん宣伝ではなく純粋な感想です。あと手前味噌だけど、昨年の文フリで出した『中年女の二次創作 〜独身女、三十半ばにして推しカプができるの巻〜』で、だいたい本書と同じこと書いたな〜と思い、一人で勝手に嬉しくなりました。

文フリ東京、新規参入のハードル高すぎない?

 まずは12月1日、東京ビッグサイトの「と-16」までお越しいただいた皆さま、本当にありがとうございました! AMの連載を読んでると言ってくださった方、昔のブログエントリについて触れてくれる方から、二次創作が好きだから寄ってみたという方、見本誌を見て来たという方まで、いろんな方に来ていただけて本当に嬉しかったです! 

 私は文フリに初めて出たのが2018年で、そこからコロナ禍の時期を除いてわりと継続的に本を作っており、またコミティアのほか赤ブーやYOUの二次創作イベントにも出まくっているので、いつの間にやらけっこう「同人誌即売会に詳しい人」になりつつあるんじゃないかと思っているんですけど……いやわかんないな、この世界は猛者が多いんで。

 あんまりイキると怒られそうなのでそれは置いとくとしても、今回の文フリは初の東京ビッグサイト開催だったということもあり、これまでの文フリとは明確に何かが違ったなと感じました。具体的に言うと、文フリがコミケのように「行ったことはなくても名前だけは多くの人が知ってるイベント」になりつつあるのを感じたというか。私はこの「チェコ好き」のアカウントと二次創作のアカウントを明確に分けていて、前者でつながっている人は後者を知らないし、後者でつながっている人は前者を知らない状態なんですが、今回は二次創作アカウントでつながっているほうの人もけっこう文フリに言及していたのを見かけたので、世間一般からの注目度の高さを感じました。


 と同時に、「このまま行くと、これはどうなっちゃうんだろうなあ」と文フリをナナメから見ているところも正直あります。有名作家や出版社が商業本だけを持ってきて並べるのはどうなの?とか、それはまあ他の方が言ってるんでこの場では割愛するとして、私が感じたのはとにかく、新規参入のハードルの高さ。もちろん、これは今回初めて感じたことではなく、数年前からずっと思っていたことがより顕在化した、というだけなんですけど……。

 まず、自分自身がもともとフォロワー数の多いインフルエンサーであるとか、もしくは拡散力のあるインフルエンサーに宣伝を手伝ってもらうアテがあるとかじゃない、本当の意味で「初めて参加する人」が本を売るのは相当難しい場所になっていると感じます。とにかく宣伝、宣伝、宣伝で、事前の宣伝が勝負になっている。そして、その傾向は年々強まっているように感じます。今回、「見本誌を見て来ました」と言ってくださった方がいたのが私は本当に嬉しかったのですが、なぜ嬉しかったのかというと、そんなこと初めて言われたからです。見本誌見て来てくれる人なんているんだ! と思った。


 これが他の即売会でもそうなら「ま、イベントって多かれ少なかれそういうもんだしね」と諦めがつくんですけど、そもそも性質が違うものだから比べようがないとはいえ、赤ブーやYOUなどの二次創作のイベントってもっと、新規の参入障壁が低い気がするんですよね。アカウント開設半年でフォロワー30人くらいの人でも「本を作ってみようかな」と思える環境があるし、実際に作ったら売れる。私が初めて二次創作のイベントに出たとき、確かフォロワー200人もいなかったんじゃないかなと思うんですが、それでもひっきりなしにお客さんが来てくれるくらいには活況でした。フォロワーがいないどころか、原稿がギリギリすぎて事前の宣伝もほとんどしなかったのに! 本自体も、二次創作界隈には「折れば本」という魔法の言葉がありまして、3000字くらいの小説をコンビニで30部くらいコピーして、真ん中を折って頒布するだけでみんなニコニコしながらスペースにもらいに来てくれます。

 事前の宣伝がそこまでモノを言うこともなく、また本自体にもそこまで凝ることなくなぜこんなことが可能なのかというと、二次創作のイベント参加者は、自ジャンル・自カプのサークルを毎回隈なくチェックしているからではないでしょうか。今もっとも旬で規模が大きいジャンル(呪術廻戦とか?)でも、たぶんカップリング別で見ると総サークル数300くらいなんじゃないかな。旬ジャンルでなければもっと規模が小さいので、たぶん総サークル数50とか。30~300くらいのサークル数だと、「事前にすべての参加サークルが出す本をチェックする」ことが十分に可能なんですよね。実際、私も毎回全サークルの新刊をチェックしているし。だから、事前の宣伝にそんなに力を入れなくても本が売れるし(といっても二次創作なので儲けは出せないのだが)、何より「ちゃんと見てもらえてるんだなあ」という承認欲求を満たせます。


 が、先日のイベントで思ったのは、それに比べると文フリは検索性が著しく低いというか……まず、規模が大きすぎて全体を見渡すことなんて不可能ですよね。「小説」「評論」「短歌」みたいな括りがあっても、あんまり機能していないように思います。あとね、とにかくカタログや検索システムが使いづらい! 結果、インフルエンサー的な有名作家のところに人が殺到してしまうのも仕方ないよなと思います。だって情報がないんだもん。二次創作のように全サークルを隈なくチェックできるのでなければ、カタログをもう少し使いやすくするなどして、検索性を高めるしかない気がします。

 そして、何より二次創作の作家は、「我々は皆平等にジリ貧である」という意識を高く持っています。今をときめく旬ジャンルでも、原作が終了すれば人は去り、ゆくゆくはお客さんがいなくなることをわかっている……! 二次創作界隈には「古参がデカい顔をしているジャンルは衰退しやがて滅びる」という言い伝えがありまして、そのためか、新規でハマったらしい人をSNS上で発見すると「こんにちはハロー!ようこそようこそいらっしゃい!」とどこかの因習村のように全員で狂喜乱舞になりつつ大歓迎し、ご新規さんが村から出ていかないよう足を鎖でつないで囲い込む慣習があります。私もかつてはそうして囲い込まれた一人でしたが、みんな優しくて嬉しかったし(沼に引きずり込むためだが)、今では囲い込む側として元気に鎖を振り回しています。因習村はヤバイが、この「すべてを見渡せる総サークル数」と「ご新規さん歓迎ムード」のおかげで、二次創作界隈の新規参入ハードルは文フリに比べてすごくすごく低くなっていると思います。


 なので、まあこのままでもいいんだけど、もし私がこの先の文フリに期待することがあるとしたら、まずはもうちょっと検索システムを使いやすくしてほしい。検索システムというか、それこそキーワードをいくつか入れたらAIがマッチングしてその人と相性のよさそうな本を50冊リストアップしてくれるとか、事前の宣伝にそこまで力を入れなくても上手く人が回遊する仕組みを作ってくれないかなー、とか思います。なぜなら、私がいつも原稿がギリギリすぎて全然宣伝できないからでーす!

 というのは冗談としても、私も今回、買うほうとしてはあんまり文フリを満喫できなかったなという反省があり。二次創作のイベントだと本当に全サークルの新刊と既刊をチェックして行くんですけど、文フリだとどこをどうチェックしたらいいのかわからなくて途方に暮れてしまうんですよね。実際、皆さんどうやってるんでしょうか…。「お前の探し方が悪い」とかありましたらぜひ教えてほしい素敵な新刊の探し方を。


 二次創作は、もちろん創作自体が面白くて楽しいのですが、「このコミュニティの仕組みって他に応用できないんだろうか?」などと考えていくと本当に底なしの沼だなと感じます。まあ、私の頭があまりよくない関係で、今のところまだ画期的な応用方法は見つかってないんですけど。なんというか、二次創作界隈ってコミュニティとしてすごくよくできているな〜と思うんですよね。


 そして先日の文フリで、私はまさにそんなことを書いた二次創作のエッセイを頒布しておりましたので、ビッグサイトに来られなかった方はBOOTHのほうに寄っていっていただけると幸いです。

 文フリ、とりあえず検索システム(カタログ)を改善してくれ〜!

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アラフォーでまさかの二次創作デビューした独身女のその後

 またまた長らく、ブログを放置していました。ブログを放置しまくっている理由は、二次創作がまだまだ面白くて、そっちで小説ばっかり書いているからです。さすがに恥ずかしいため、というか基本的に女性向け二次創作はそのカプが好きな人じゃないとまったく面白くないため、「これが私のpixivです! どーん!」とリンクを貼ることはできないのですが、相変わらず楽しくやっています。


 最初に「【ご報告】同人女になりました」のブログを書いた日からもう2年が経ち……あれから、いろいろありました。たとえば、とらのあなでVISAとMasterが使えなくなったりとか……。

 私自身のことで言えば、人見知りすぎて最初は全然同人のお友達ができず、オンリーイベントなどの即売会のあとも1人でサッと片付けてすたすた帰るということをしばらくやっていたのですが、3年間もリアルイベントにちまちま出続けていたらさすがに顔を覚えられ、みんな恐る恐る(?)遊んでくれるようになりました。よかったー。

 同人のお友達は独身だったり既婚だったり子供がいたりいなかったりシングルマザーだったり、20代だったり30代だったり40代だったりしますが、特にライフスタイルの話はせず、喫茶店でコーヒーをがぶ飲みしながら「◯巻の第△話の⚫︎⚫︎⚫︎(キャラ名)のモノローグをどう解釈するか」みたいなことを4〜5時間くらい語り合っています。若い頃は私も人並みに「そうなのかな」と思ってビビっていたけれど、女性はライフステージが変わると子持ちは子持ち同士、独身は独身同士でしか話が合わなくなるなんてのは、どうやら婚活業者が考えた大嘘だったようです。「◯巻の第△話の⚫︎⚫︎⚫︎(キャラ名)のモノローグをどう解釈するか」だったら誰とでもコーヒーをがぶ飲みしながら4〜5時間語り合えるということが中年になってわかりました。つまり、お友達はライフステージに関係なくいつでも、何歳でもできるということです。そう、人見知りじゃなければ……(この点、私は最初の数年は危うかった)(うちのジャンルの女性陣が優しい人たちでよかった)。


 そして、とりあえず現実世界の属性やステータスは置いといて、互いの本名も知らないまま「◯巻の第△話の⚫︎⚫︎⚫︎(キャラ名)のモノローグをどう解釈するか」を4〜5時間語り合える、そういうコミュニティに出会えたことですごく人生の可能性が広がったし、こういう方向性のコミュニティが世の中にもっとあったほうがいいんじゃないか……みたいなことを5万字くらいで考えてまとめたエッセイ『中年女の二次創作 〜独身女、三十半ばにして推しカプができるの巻〜』を、文学フリマ東京39で頒布することにしました! 1年以上前から書く書く詐欺になっていたエッセイを、ようやく完成させることができました〜! スペースは【西3・4ホール と-16】です。サークル名はいつもの「創作メルティングポッド」です。

東京ビッグサイト 配置図
これは目次

 宣伝か〜い! と思ったそこのアナタ、まあ、このブログは確かに文フリの宣伝ではあるのですが、もうちょっと続きます。

 最近になって、「推し活」という言葉がだんだんマイナスの意味を持ち始めたように思います。「推し活」と言っても幅広く、私がやっているような漫画やアニメやゲームを原作とした二次創作もその範疇に入らないわけではないのだろうけど、多くの場合はアイドルや俳優にハマっていることのほうをメインで想定していることが多いのかな? よくわからん。マイナスの意味を持ち始めた理由は、グッズを大量に買わせたり、同じ舞台を何度も見に行かせたり、やっていることがだんだん「宗教」とか「歌舞伎町のホスト」みたいな感じになってきているから……だと認識しております。これは確かに健全とは言えない。私のいる界隈でもグッズのランダム商法(どのキャラが出るのか事前にわからないため、推しが出るまで何度もガチャのように買わせようとしてくる販売の仕方)がとても憎まれていたりします。

 でも、「お金を使わないとファンじゃないみたいだ、居心地が悪い」とか言って「推し活」に疲れていってしまう女性は……正直、そんなに見かけません。いや、もちろん私の視界に入っていなくて見落としているだけかもしれないので、界隈のどこにも絶対にいないゼロ人である! とまでは言い切れませんが。私のいるジャンルの年齢層が高く(だいたいアラフォー)、みんなそこそこ分別があるせいか、お金を使わないといけない義務感のような空気は特にありません。これだけ熱心に10万字だの15万字だのの小説を何本も書いて印刷し即売会で頒布している私も、実はこの3年間でオタク活動費に使った金額は多く見積もっても10万円を余裕で下回っております(印刷代は毎回ペイしているのでほぼプラスマイナスゼロ)。なので、「推し活」はすごくお金がかかるみたいな最近のイメージにはどうも違和感がある。お金をかけない推し活、できるけどなあ。というか、世間の空気とは逆に、オタクってお金のかからない趣味でいいなあとずっと思っていました。何せ私の30代前半までの趣味は海外旅行ですからね(原稿のやりすぎで行けないだけで今も海外旅行好きだけど)。それに比べるとオタクは……。

 私たちのコミュニティではなぜ「買いたい人だけが買えばいいのでは?」みたいな感じでゆるく活動することが許されているのかというと、1つにはやっぱりアラフォーがメインでそこまで趣味にお金をかけられないからというのがあると思うのですが、もう1つはこれが二次創作のコミュニティだから、ってのもある気がします。「消費」というよりは「創作」を軸につながっているコミュニティなので、お金をいくら使ったかよりも、「◯巻の第△話の⚫︎⚫︎⚫︎(キャラ名)のモノローグに関するあなたの解釈、いいですね……!」みたいな方向性のほうがマウントを取れる気がする。いや、別にマウントは取らなくてもいいのだが、同じジャンルにいる仲間に「あなたの解釈が好きだ」と言われたら、うちの界隈にいる女性たちはすごくすご〜く、みんな喜ぶと思います。そんなこと私も言われてぇ〜。

 と、ここまで書いて思いましたが、私もブログを始めてもう10年。いささかのポジショントークを含みつつ、「消費」ではなく「生産」せよ、「創作」せよ──という結論にいつも達してしまうのが、我ながら癖なのかもしれません。よく考えたら10年前も同じことを言ってましたな。

aniram-czech.hatenablog.com


 今回頒布するエッセイは、二次創作をやっている(読んでいる)女性にいちばん読んでほしいと思っていますが、二次創作をやっていなくても、20代〜50代の幅広い世代の女性、特に独身女性に手に取ってもらえたらいいなと思っています。30代半ばを過ぎた独身の女というのはどうも世間から「不幸」で「みじめ」であることを期待されているように思いますが、私の場合はめちゃくちゃ普通ですね。

 あ、サークル名はいつもの「創作メルティングポッド」となっておりますが、新刊の著者は私1人なのでスペースにいるのは私だけです。でも創作メルティングポッドの既刊も持っていきますので、過去作に興味を持ってくださる方もぜひ気軽にお立ち寄りください! あと新刊は年内にBOOTHでの通販も予定していますので、東京ビッグサイトに来られない方にも興味を持っていただけたら嬉しいです。ブログでもお知らせする予定ですが、「入荷お知らせメールを受け取る」をポチッとしていただくと在庫が入ったときに通知が届きます!

 もう一度言いますが、会場は東京ビッグサイトです。東京流通センターではありませんのでご注意ください(私が間違えそう)。

これは当日のお品書き! 既刊もあります。