相変わらず二次創作を楽しくやっていてこちらのブログを放置している。それはいいとして、このオタク活動を続けた先にいったい何があるのか? と考え、虚しくなる瞬間が……残念ながら(?)、ない!
なぜなら「この先に何もなくても今が楽しいからそれでいい、というか実利的なものが何も得られなくても『楽しかった』という記憶だけは死ぬまでずっと残るからいい、しいて言うならばそれこそが実利」みたいに考えているからである。
しかし、それでもあえて「すごく楽しい」以外にも実利っぽいものを求めるのなら、渡部宏樹著・『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』は、けっこう役に立つ本だったのではないかと思った。
というわけで、今回はこちらの本の感想です。
オタク活動の“実利”は「正しくない欲望」に触れられること
最近ブログをサボっているので前段階として自己紹介をしておくと、私はアラフォーで突然二次創作にハマった女オタクである(詳しい経緯はこちら)。
そのため、以下に書くことも主に漫画原作作品がある女性向け二次創作を想定したものになってしまうが、アイドルや俳優など3次元(2.5次元)の「推し活」に当てはまらないところがまったくないわけではない、と思う。『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』も、2次元から3次元(2.5次元)まで、あらゆる「推し活」をカバーした内容になっている。
本書で「はじめに」に続く第1部の第1章は、「あなたの欲望を大切にしよう」とある。
詳しい内容に触れると長くなるので「実際に本を読んでみてね!」としておくけれど、女性向け二次創作をやっていてよかったな〜と思うのは、市井の人の、偽りのない「正しくない欲望」に触れられる瞬間を多く持てると感じるからだ。もちろん、この「市井の人」には、自分自身も含まれている。
たとえば、「正しくない欲望」の代表としてあえて露悪的なものをあげるとするならば、「孕ませ」とかかな…と思う。「孕ませ」と聞くとおそらく多くの女性は嫌な顔をすると思うけど、私が観測している範囲では、女性であっても、エロとしての「孕ませ」が好きな人ってけっこういる。実際に、作家の三浦しをんは、『BL進化論[対話篇] ボーイズラブが生まれる場所』において、「『孕ませてやる』が自分の萌えワードである」と溝口彰子との対談で告白している(p409)。
ここで行うべきことは、「そうか、女も本心では『孕ませ=性的加害行為』を望んでいるんだ」という短絡的な解釈でも、「『孕ませ』に萌えるなんて正しくないのでそんな欲望は一切合切捨てるべき」という検閲的な態度でも、どちらでもない。
「なるほど、自分はこれに『萌え』るんだな」ということをいったん飲み込んで、話が通じる仲間とこっそり語り合ったり、“これ”に萌えるということはすなわちどういうことなんだろう? とメタ的に考えることである。
推し活をしていると、自分が普段表に出している思想とは全然違うものに「萌え」てしまい、戸惑うことがあるはずだ。ただ、それを短絡的に解釈するでも検閲して摘み取るでもなく、「いったん保留して持っとく」のが大切である、と本書は説く。そして、第1章で「あなたの欲望を大切にしよう」、第2章で「感じたことを誰かに話してみよう」、第3章で「欲望に形を与えよう」と続く。これを女性向け二次創作風に解釈するなら、第1章は「pixivで好きな二次創作にブクマをつけまくってみよう」、第2章は「Xで同好の者を探しリプで語り合ってみよう」、第3章は「自分でも漫画や小説を描いて(書いて)みよう」となるだろう。
創作をやっている者としてちょっと傲慢なことを言うと、二次創作にハマったのならぜひ「漫画や小説を(描く)書く」ところまでチャレンジしてみてほしいな…! と思う。始めから理想通りの創作をすることは難しいかもしれないけど、経験を重ねていくと「そうか、私は原作キャラにこうなってほしかったんだ」「こうであってほしかったんだ」という自分の内なる欲望に触れることができ、楽しい。
二次創作は絶対に金にならない(金にしてはいけない)ので、内なる欲望がないと前に進めない。ということは、完成したものはそういう資本主義的な価値を超越していることになる。このご時世、コスパもタイパも将来性もガン無視できる機会なんてそうそうない。1つ小説を完成させるたびに、なんて贅沢なことをしているんだろう、という気分に私はなる。しかも上手くいけば、もともとは廃棄物同然だった自分の気持ち悪い欲望が、誰かにとっての束の間の娯楽となり、癒しやエンパワメントにつながり、「この作品を生み出してくださってありがとうございます」と感謝までされるのだ。究極のSDGsである。
「正しくない欲望」に触れることの何が“実利”か
と、「あなたの廃棄物同然の欲望も作品として形になることで他の誰かの娯楽になります」も確かに実利でSDGsなのだけど、本書はこのような創作行動を、「資本主義社会への抵抗」と見なす。
資本主義社会では、商品を買うことが自己実現だと思わせる広告に囲まれて生きることになります。資本主義の「商品を買って欲望を満たせ」という命令から抜け出すためには、広告が宣伝するものとは異なる喜びを発見することが必要で、そのためには自分の欲望と向き合うことが大切です。自分自身の欲望を知るということは、与えられる刺激の中からどれが自分の好むものでどれが自分の好まないものかを認識するということであり、その意味ではひいては批評の能力にも関わるものです。(ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章 (河出新書) p79-80)
近年の推し活は過剰に資本主義的なものと結び付けられてしまい、推し活は資本主義への抵抗どころか、その中にどっぷり浸かって抜け出せなくなることとイコールになってしまった部分がある。ただ、消費行動だけが推し活ではない。「この作品、ブクマぜんぜんついてないけど私は好きだな」とpixivでハートを押すこと、これはやっぱり、すごく小さな資本主義社会への抵抗だと私は思う。なぜなら、それは本書が言う「広告が宣伝するものとは異なる喜びを発見する」ことだからだ。
ただ、「正しくない欲望」を表に出すことは、ときにかなり危うい橋を渡ることにもつながる。本書はその代表として「誰かのことを殺したいといった好ましくない欲望」を例にあげているが、「誰かのことを殺したい」よりもさらに好ましくないのが、やはりペドフィリア的な欲望だろう。本書も、「好ましくない欲望をいつでもどこでも無条件にオープンにしてOK」とはまったく言っていないし、私もそうは考えていない。そこはかなり繊細かつ微妙な問題なので、ここで安易に言及することは避けたい。
が、「これは正しくない欲望だからこっそりやろう」と同じくらい危ういのが、実は「私の欲望は絶対に健全で100%無害なのでフルオープンで大丈夫だ」と自信を持ちすぎることかな…と思う。
創作活動をしていると、「これはこっそりやったほうがいいやつだな」という後ろめたい欲望に、多くはどこかで突き当たる。というか、欲望は欲望である時点で多かれ少なかれ加害の要素を持ってしまうものなので、創作をやっていると「私ってキモイな」と自覚せざるを得ない。でも、この「私ってキモイな」こそがけっこう大切なんじゃないか、と思う瞬間がある。本書の第5章は、「『キモイ』自分を生きよう」となっている。もちろん、社会的に絶対に許してはいけない行為は存在するのだけど、「お前キモイよ」と誰かを断罪したくなったとき、「(ま、私もキモイけど)」という後ろめたさが、一歩手前でブレーキとして機能してくれ、分断を煽らないでいてくれることがある。
さらに本書は、自分の快楽や欲望と向き合う作業はケアの第一歩である、と説く。最近ホットなワード、「ケア」である。本当は、欲望に「正しい」も「正しくない」もない。ざっくり言えば、欲望は欲望である時点で、程度の差はあれだいたい全部正しくない。
問題となるのはそこから先で、自分のキモさや正しくなさ、暴力性や加害性をいかにコントロールし、他者との摩擦を減らすかだ。キモイこと自体が悪なのではなく、キモさをコントロールできないことが悪なのである。そして、自分のキモさのコントロールの仕方──どこまで出してどこから隠すかを、創作をやっていると、少し身につけられる気がする。つまり、廃棄物同然の欲望を、他者とのコミュニケーションの道具にし、資本主義社会への抵抗とする術を身につけられるのだ。これがオタク活動の“実利”だと私は思う。
…と、ここまで書いたことは、かなり(だいぶ)ポジショントークなので、話半分に聞いて(読んで)もらうので構わない。ただ、「本当か〜?」と思った方はぜひ『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』を読んでみてほしい。このブログはもちろん宣伝ではなく純粋な感想です。あと手前味噌だけど、昨年の文フリで出した『中年女の二次創作 〜独身女、三十半ばにして推しカプができるの巻〜』で、だいたい本書と同じこと書いたな〜と思い、一人で勝手に嬉しくなりました。