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恋とは、罪悪です/悪い芝居『キスインヘル』を観た感想

6/29(月)に、悪い芝居の『キスインヘル』というお芝居を観てきましたー。

悪い芝居vol.17『キスインヘル』 - 特設ページ

というわけで今回は、こちらの『キスインヘル』の感想を書いておこうかと思います。ただなんか、ものすごいズレた感想文になる予感が、します。

恋とは、罪悪です

まったく関係ない話から始めると、先々月くらいからちびちびと夏目漱石の『こころ』を読み直している私なんですが、これって中学の教科書に出てたんでしたっけ、高校の教科書に出てたんでしたっけ、どっちでしたっけ? まあどっちでもいいんですが、この小説で<先生>が、「恋とは、罪悪です」っていう場面があって、私はそこを読んで「うへえー」と思ったのでした。なんかね、今の時代って恋って<合法>なんですよ。別に夏目漱石の時代も違法ではなかったと思うんですけど、でも今の時代のほうが合法感がありますよね。私めっちゃ変な日本語使ってますけど。完全なる<合法>だから、夏だ! となればお祭り騒ぎでみんなしてカラッと薄着になるわけだけど、本来あれは地獄の炎で焼かれるような薄暗い感情のもとで行なわれるものなのだった、みたいなことを思ったりしました。

だけど、「この、地獄の炎で焼かれるような苦しさこそが恋なのだ」「恋とは、罪悪なのだ」という思考によりすぎてしまうと、それはそれで問題というか、百歩譲って恋は罪悪だとしても、罪悪は恋ではないわけですよ。苦しさに快感を覚えて、汚い感情の沼に喜んでズブズブにはまっていく、それは手段と目的をまちがえてませんかという話になるわけです。ネタバレしない程度に内容に触れてしまうと、運命くんと澱ちゃんという男女のカップルがいまして、この2人の恋は純愛だ! という感想が散見されていたような気がしたのですが、私は疑問の余地があるというか、まあみんな恋愛中は、目の前の恋こそが本物だと思うし、思いたいですよね。でもその感情というのは、刻一刻と変化していくものなので、私は<純愛>っていうのは言葉のあやというか、「そう思いたい人がそう思ってるだけ」という、非常に不安定な状態を指すのではないかなとこちらのお芝居を観て思ったのでした。そのときは「これこそが本当の恋!」と思っていても、あとで「やっぱりあれはちがいました勘違いでしたスミマセン」となる事例は山ほどあるし、その逆もまた然り。我々は、そんなものすっごい不安定な感情のもとで行なわれる不安定な日常を送っていて、しかしだからこそ、地獄の炎はときに美しいのかもしれません。アンディ・ウォーホルがお墓に、「全部嘘だった」と刻みたがっていたみたいに。

私は、この世は地獄だとまでは考えていないけど、人間はもっと薄暗い感情や後ろめたい思いをたくさん抱えている生き物だと思います。でも、最近はそういったものをとんと見かけなくなりました(時代のせいではなく、加齢のせいかもしれません)。私自身も、「湿っぽいのはごめんだ、カラッといこう」という性格なので、臭いものにはフタをしてしまうほうの人です。だけど、ドロドロの汚いものは純度を高めていけば美しく昇華できるし、また美しいはずのものが一瞬で汚いものへ、地に落ちてしまうことだってあるでしょう。そういう脆弱さを内包して生きていくしかないのだと、なんかそういうことを考えましたね(でもすっごいズレてる気がする)。

役割があれば、残る

最初に写真という技術が発明されたとき、「これで絵画はお役御免だね」といった人がいたりして、目の前の情景をほぼ完璧に再現することができる写真という技術を前に、絵画はなす術がないと一時的に考えられたりもしたわけですが、実際はご存じのとおり、絵画は絵画で今日きちんと残って継承されています。目の前の情景をできるだけ忠実に再現したい(報道など)という場合は、確かに写真にその役割を譲りましたが、自分の心のなか、心象風景というのは写真には映せないし、あとはそもそも現実にないものは写真に撮れません。そういうものを描くためのものとして、絵画は今日も残っています。

映画が登場したとき、同じく「これで演劇はお役御免だね」といった人がやっぱりいたみたいで、だけど演劇は今日もしっかり残っています。役割がまったく同じものならば、より優れたものが登場すれば、劣っているほうは淘汰されます。それで、ではなぜ演劇が今日においても残っているのかというと、たぶん映画は<観客が関与できない世界>にあって、演劇は<観客が関与できる(ように思わせる)世界>なんだろうなと思って、そういう意味ではラストで役者(男)と私の隣のお客さん(男)がキスしていたという事実もとても納得がいきます。こういう可能性があるから、この芸術は今日においても残っているのだろうと、そんなことを考えました。

こういう、新しい文化と古い文化、新しい技術と古い技術の競争というのはこれまでもこれからもたくさんあって、たとえばタイプライターはワープロ、PCの登場によって淘汰されました。文字を打つという役割以外を、タイプライターは担えなかったわけです。だから、もし何かを残したいと思ったら、あるいは自分が残りたいと思ったら、それにしか、自分にしか担えない役割を見つけていかなくてはいけないし、身に付けていかなくてはいけないんだよなあと思いました。

まとめ

よくわからないけど、久しぶりに泥んこ遊びがしたくなるお芝居でした。でも泥で遊ぶのめっちゃ体力使うからダルイんですよね。