今回は、いつも以上にわけのわからない話をしようと思うので、お忙しい方は回れ右をおすすめします。しかも私自身あまり理解していないので、なんか解釈を誤っている可能性があります。
ユクスキュルのダニ
ユクスキュル[1864-1944]という人はエストニア生まれの理論生物学者で、〈環世界〉という概念を考え出した人として知られているようです。この〈環世界〉という概念が最近の私はとても気になっていて、今日の私は早い話がこの〈環世界〉の話をしたいだけなんですけども、これを語るときに出てくる動物が〈ダニ〉、正確にいうとマダニです。
マダニのメスは交尾を終えると、森や林にある適当な木の枝によじのぼって、木の枝の下を哺乳類が通りすぎるのを待ちます。哺乳類を察知したら枝から飛び降り、皮膚にはりついてその生き血を吸います。
ただしここで疑問に思うのは、このマダニっていう生き物は、目も見えなければ耳も聞こえないというんですね。にも関わらず、どうやって「適当な木の枝」までよじのぼるのか。そしてどうやって、木の枝の下を哺乳類が通りすぎたことを察知するのか。正解は、体の表面にある光覚という器官を使って光の方向をもとに木登りをして、哺乳類の発する酪酸という物質のにおいを嗅ぎ取って木の枝からダイブする、ということらしいです。
ちなみに、ダイブに失敗して哺乳類の皮膚にうまくはりつけなかった場合、マダニはもう一度木をよじのぼって、哺乳類が下を通りすぎる次のチャンスを待つんだそうです。しかしここでまた疑問に思うのは、ダイブの失敗/成功をマダニはどうやって知るのか、という話ですが、彼らは摂氏37度の温度、哺乳類の体温を感知することができるらしい。つまり、光→酪酸のにおい→摂氏37度、という信号だけで彼らは生きているのです。逆にいうと、マダニは〈光〉〈酪酸〉〈摂氏37度〉、それ以外の信号を受け取ることができません。37度の体温を感じ取れない他の生き物や、森や林のなかの美しい植物、木々を濡らす雨、夜空に輝く星、そういったものは彼らの世界には存在しません。そういう意味で、私たち人間と、マダニとは、単一の世界を生きていない、別々の世界を生きているーーこれが〈環世界〉という考え方のようです。
それで、マダニと人間は異なる世界を生きている、というのは「まあそうかな」ってかんじだと思うんですが、よく考えるとこれは同じ人間同士である我々にもいえることで、AさんとBさんは異なる世界を体験している、ということがいえます。たとえば、3歳の子供と、30歳の会社経営者はそれぞれ、異なるシグナルに反応するでしょう。3歳の子供にとっては存在しないも同然のものが30歳の経営者にとっては存在し、30歳の経営者にとっては存在しないも同然のものが、3歳の子供にとってはキラキラしながら存在する。大人と子供を比べるとわかりやすいですけど、もちろんこれは同じ28歳同士のAさんとBさん、にも当てはめることができます。おそらく、男性と女性が体験する世界は異なるし、漁師とミュージシャンの体験する世界は異なるでしょう。
厳密にいえば、だれ一人として、自分と同じように世界を体験している人間はいない、ということになると思います。
〈環世界〉の間は移動できる
だれ一人として、自分と同じように世界を体験している人間はいないーーというとちょっとさみしい気もするのですが、人間にあたえられた特権として、この〈環世界〉の間を、比較的するすると移動することができます。3歳の子供と、成長した中学生の体験する世界は確実に異なるものなので、ただ漠然と生きているだけでも移動可能なのですが、大人になってからは意図的に、異なる世界を体験してみることができます。クラシック音楽を勉強すればオーケストラの奏でる音楽の響きが変わるし、転職によってライフスタイルが変わることもあるでしょう。
一方、マダニはそうはいきません。赤ちゃんマダニと大人のマダニが体験する世界がどれほど異なるかはよくわかりませんが、人間の子供と大人ほどの変化はないんじゃないかと思います。大人のマダニ同士になってしまうと、彼らは〈光〉〈酪酸〉〈摂氏37度〉というシグナルに反応することしかできないので、マダニAとマダニBが体験している世界はほぼ同じ、になるんじゃないかと思います。
ところで、木の枝をよじのぼったマダニですが、運良くすぐに哺乳類が下を通りすぎればいいものを、ずっと哺乳類が通りかかってくれなかったらどうなるんでしょう、死んじゃうんでしょうか。これがどっこい、マダニはなんと木の枝で、18年間も飲まず食わずでじっとしていることができるらしいのです。18年間、何もせずにずっと同じ場所にいる。食べ物や飲み物があたえられたとしても、そんな状況を人間は、精神的に耐えることができないですよね。だけど、マダニには可能なのです。3つのシグナルしか受け取ることができず、〈環世界〉の間を容易には移動できない彼らは、退屈しない。人間が退屈してしまうのは、ひとつの〈環世界〉にとどまっていることができないからーー
ただ生きているだけでそれなりに〈環世界〉の間を移動してしまう我々は、本質的には、おそらく退屈から逃れることはできません。人間はマダニにはなれないからです。でも、人間よりマダニのほうが、世界が豊かであることよりも貧しいものであるほうが退屈しないというのなら、
私たちは、あまり積極的に異なる世界をのぞきに行かないほうがいい、ということになるのでしょうか?
ずっと言っていますが、アイデアと移動距離は比例します。
— 高城剛_bot (@takashirobot) 2015, 6月 23
???
それでも、動きたいんですが……
ただここには、おそらく私の大きな誤読があって、だれも「動くな」とはいっていないんですよね。「動きすぎてはいけない」といっている。
もっと動けばもっと良くなると、ひとはしばしば思いがちである。ひとは動きすぎになり、多くのことに関係しすぎて身動きがとれなくなる。創造的になるには、「すぎない」程に動くのでなければならない。動きすぎの手前に留まること。そのためには、自分が他者から部分的に切り離されてしまうに任せるのである。自分の有限性のゆえに、様々に偶々のタイミングで。
『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』p51
ジル・ドゥルーズは旅行を好まなかったといいます。しかし同時に、「遊牧民とは、動かない者たちのことである」みたいなこともいっているらしい。この「動く」とか「動かない」とかいう言葉の意味が、たぶん私はまだあんまりわかってません。
ただここらへんは面白そうなかおりがするので、もう少し掘ってみようと思います。そして、私はどちらかというとめっちゃ動きたい。でも、上記の内容をちゃんと理解できたらやっぱり「動きすぎてはいけない」って思うのかもしれません。
★★★
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