チェコ好きの日記

だいたい木曜日の22時に更新されるブログ

人を呪ったっていいじゃない

トルコの民間信仰で、「ナザールボンジュウ」という青い目玉のお守りがある。

「トルコの」といったものの、私はこれを、ギリシャでも見たしイスラエルでも見たしヨルダンでも見たしモロッコでも見た。ちょっとうろ覚えだけど、確かスペインにもあった気がする。だからつまりは、中東というか、あのへんの地域一帯に共通してある民間信仰なのだろう。

下の写真はアテネで撮ったものだけど、ナザールボンジュウはこんなふうに、そのへんの雑貨屋さんや観光客向けのお土産屋さんで、普通に売られている。とっても身近なものなのだ。

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ナザールボンジュウは、どういったときに人々に買い求められその効果を発揮するのかというと、「良いことが起きたとき」だという。良いこととは、たとえば、新しい会社を設立したとか、結婚したとか、家を建てたとか、そういうときだ。

ナザール(Nazar)とは、「邪視」という意味らしい。

中東やヨーロッパの地中海地方の人々は、イスラム教が伝わるよりも5000年以上も昔から、「人々から羨望のまなざしをあびると悪いことが起きる」と信じていた。だから、何か良いことが起きたとき、そんな人々の「羨望のまなざし」「邪視」から身を守れるよう、ナザールボンジュウに願いを託すのだ。また、人のいいところを褒めるとき、この地方の人々は、「Nazar degemsin(ナザールが触れませんように)」という言葉をかけることがあるという。

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このお守りの話を初めて聞いたときは、ちょっと意外だった。

というのも、中東や地中海近辺の人って、傲慢で自己中、良くいえば超ポジティブというイメージだったので(偏見です)。良いことがあっても手放しには喜ばないとか、人目を気にするとか、そういう感性あるんだ〜へえ〜〜と思ったのである(失礼だな!)

今の世の中に対しても思うけど、良いことがあったときくらい、屈託なく素直に喜べばいい。それを、配慮とか遠慮とか考えないといけないというのは、控えめに申し上げてもちょっとメンドクサイ。

生きづらい世の中、生きづらい私、と人はいう。だけどはたして、生きやすい世の中、生きやすい私なんて、かつて存在したことがあったのだろうか。紀元前だろうと、中世だろうと、ルネサンスだろうと、近代だろうと、日本だろうとヨーロッパだろうと中東だろうとアフリカだろうと、いつだって誰だって人々は生きづらかったのだ。多かれ少なかれ。

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うちの玄関にも中央に鎮座しているナザールボンジュウ。「誰もあんたには嫉妬しないから大丈夫」という声が聞こえてきそうだが、それはそれとして。

人を呪ったっていいじゃない、ただし覚悟があるならば

話は変わって、夏のホラーの定番に、「丑の刻参り」という呪いの術がある。ワラ人形に五寸釘を打ち付けて、夜な夜なカーン!カーン!とやる例のアレである。ただし、万が一現場を他人に見られてしまったら呪いはすべて自分にはね返ってくるし、現場を目撃した人物も殺さなければならない。私が「丑の刻参り」を知ったのはたぶん小学生のときだったと思うけど、初めて抱いた感想は、「人を呪うのってずいぶんと骨が折れるんだな〜」ということだった。ロウソクを頭に巻きつけなきゃいけなかったりしてまず装備がメンドクサイし、夜中に神社に行くのもだるいし、その上で絶対に人に見られてはいけないなんて大変すぎる。

もちろん「丑の刻参り」はただのオカルトだ。しかし、この迷信はなかなか大切な教訓も含んでいるように私には思える。つまり、「人を呪うという行為にはリスクが付き物で、その覚悟がないのだったら他人に呪詛を吐くのなんておやめなさい」と、そういう意味もあるのではないか。迷信もなかなかバカにはできないのだ。

私は人を呪う心や復讐心みたいなのを、あまり真っ向から否定したくない。否定したくないというか、より正確にいうと、それはどうしたっていつの世にも生じるものだから、否定なんかしても無意味だと思っている。「優雅な生活が最高の復讐である」とはいうものの、どうしても我慢できないときは気が済むまで、恨むだけ人を恨んでバーニング!するのも一つの手だろう。丑の刻参り、実際の効果はよくわからないけど、頑張ってやったら何よりもまず本人がすっきりしそうじゃないか。すっきりするのはいいことだ。

最近ちょっと気になるのは、そんな丑の刻参りとは正反対の、「お手軽な呪い」みたいなのがインターネットをしているとチラチラと見えてしまうことである。リスクを犯しているのだと、本人が自覚しているのならば、気の済むまでやればいい。だけど、テレビを見て寝っころがりながら、お菓子をボリボリ食べつつ呪詛を吐くのはやめたほうがいいんじゃないかな、と何だか思う。それならば、ロウソクを頭に巻きつけてカーン!カーン!とやるほうがよっぽど紳士淑女だ。

何より、迷信にはロマンがある。「アフリカの某呪術師市場には猿の頭が売られていてね……」なんて話をされると私が目を爛々と輝かせてしまうことは、このブログをいつも読んでくれている人であればご存知のことだろう。

ナザールボンジュウの話も、背景をよく考えると「まったく、いつだって世の中は息苦しいのな、やってらんねえぜ」という気分になるけれど、それはそれとして、この青い目玉くんはなかなか愛嬌があってかわいいじゃないですか。丑の刻参りもコントにできそうだし、迷信とか呪術ってどこか笑っちゃうようなところがある。アホくさくて。

シリアスで、スマートで、アホくさくないものがいちばん怖い。それは、どこにも出口がないからだ。