チェコ好きの日記

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「婚活でパワースポット巡り」なぜダメなの?

「これ、別に当たってなくない……?」と感じることのほうが多いので、基本的に占いを信じていない。とはいえ、美容院とかで雑誌を渡されるとなんだかんだでブツブツ言いながら最後のほうのページを見ているし、またネットの占いも文句を言いつつけっこう見ている。


アフリカの呪術師市場に行くとウィッチ・ドクターが使う用に猿の頭が売ってるんだってよとか、パプアニューギニアではいまだに黒魔術が信じられているんだってよとか聞くと、つい「ウワ〜」と思ってしまうけど、そんな彼らと私たちの間に、はたしてどれほどの違いがあるんだろうかとも考える。


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イタリアやアメリカやイギリスでは、昨今「エクソシスト」が増加傾向にあるらしい。

なぜ増加傾向にあるのかというと、もちろん需要が存在するためである。悪魔に取り憑かれてしまい、それを祓って欲しいという人がたくさんいるのだ。ブリッジで階段をドタドタ降りたり首がぐるんぐるん回転したりするやつはさすがにフィクションだとしても、「悪魔に取り憑かれた人」もそれを祓う「エクソシスト」も、2017年にしてなお実在する。『悪魔祓い、聖なる儀式』はイタリア・シチリア島のとあるエクソシストを追ったドキュメンタリーだが、この映画を観ると、アフリカだろうがパプアニューギニアだろうが日本だろうがイタリアだろうが、やっぱりどこもそんなに変わらないような気がしてくる。


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(※インドネシア・バリ島も呪術の島である。私が「(自称)サイババの弟子」という怪しさしかない人に占いをしてもらったときの話はこちら


イタリアやアメリカやイギリスでは、なぜ悪魔に憑かれる人が増えているのだろうか。これはもう、むっちゃ雑に言っていいのならば「社会不安が増してるから」なんだろうが、実際、ドキュメンタリーの舞台となったシチリア島は、大卒の若者でも就職がかなり難しいという。どこも大変である。


しかし、自分の友人や家族が突然奇声を上げるようになったり、または犬(猫?)のような唸り声を上げてゴロンゴロンするようになってしまったときどうするかを考えると、まず連れていくのは病院だ。アフリカやパプアニューギニアならともかく、シチリアの人は何で病院行かないんだろ? と疑問に思って映画を観ていたら、どうやら病院には行っているみたいで、でも医者に「原因がよくわからん」とお手上げされてしまったようである。まあ、そうなったら確かにエクソシストにでも頼み込むしかない。


医療では救うことが難しいような人のほか、シチリアではエクソシストは「島の何でも屋」みたいな扱いなんだそう。しかし、いわゆる「汚部屋」を悪魔の仕業として、神父が部屋に聖水をまいている場面はちょっと笑ってしまった。汚部屋は……頑張って掃除するしかないのではないだろうか。あれは悪魔の仕業だったのか……。


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日本人は宗教やスピリチュアルを嫌う。理由はおそらく1995年の「地下鉄サリン事件」が国民的トラウマになっているのと、あとは戦後に天皇人間宣言を行なったことも大きいのかもしれない。命まで投げ打って信じたものに「実は聖なる力とかありませんでした〜」などと言われたら「もう二度と何かを信じたりなんかするもんか!」って思うのは無理もない。婚活のためにパワースポットを巡る女子はバカにされるし、誰かが手首に数珠をつけたりしていると「おっ? おっ!?」と二度見してしまう。


ただし、いつも真実を正しく把握していることが幸せだとも限らない。これは別に宗教でもスピリチュアルでもないけど、たとえば悪徳商法に騙されて超高額な布団を買っちゃったおばあちゃんなんかは、事件が発覚したあとも騙されたなんて露ほども思っていないなんて話をたまに耳にする。孫くらいの年の子が親身になって話を聞いてくれて、しかも買った布団はちょっと高かったけどふかふかでよく眠れて、いったい何が悪かったのと言われると確かに言葉が見つからない。「エクソシスト」も、悪魔なんていないでしょとその存在をなくしてしまったら、はたして医療で救えない人々を誰がどうやって救うのだろうか。


映画では、神父がスマホで「立ち去れサタン……!」と通話しているシーンが笑いを誘うのだけど、おそらくどれだけテクノロジーが発達しようと、科学で解明できることが増えようと、宗教もスピリチュアルもオカルトもなくなりはしないのだろう。なぜなら、人間がそれを求め続けるからである。占いだって、偶然を偶然と片付けてしまう人より、偶然と偶然を結びつけてプラスの何かに解釈できる人のほうが、きっと楽しく生きられる。粗探しのようなことをしてケチをつけているより、それくらいまるっと信じていたほうが人間として賢いのかもな、などと私は我が身を振り返って思うのだった。


でも、占いやシチリアの悪魔祓いは許せるのに、婚活のためにパワースポットを巡ったり、子宮が元気になるセミナーに行ったり、ジェムリンガを膣に入れたりすることへの嫌悪感や軽蔑は、正直なところ消えない。


このOK(許容)とNG(嫌悪感)の境界線にあるものって何なんだろうと考えていて、結局答えが出なかった。そこに文化や伝統があるかどうか、とか? お金がかかるかどうか、とか?? 健康被害が出るかどうか、とか??? 「婚活でパワースポットなんて巡っても結果につながりませんよ!」と説教を垂れてみたとき、「じゃあシチリアで神父が汚部屋に聖水まくのもダメですよね?」となってしまい、けっこう世界のいろんなことを否定せざるを得なくなる。「占いは、上手く活用して付き合っていくのがベストですよね」っつう人がいるが(私もそう言ったが)、じゃあ、子宮のセミナーも上手く活用して付き合っていくぶんには文句は言えないはずだ。もしかしたら、結局、「アタシの信じていないものを信じるのは気持ち悪いからやめろ」って話だったのだろうか。シチリアエクソシストは遠すぎて嫌悪感すらわかないってだけで。


全財産を搾り取られるか、深刻な健康被害が出るか*1、命を落とすか、近しい者と縁を切り始めるか。そういうレベルまでいかないのであれば、もしかしたらある程度のことは許容すべきなのかもしれない。人間なんて世界中どこを見ても、そんなもんだからだ。結果なんて出なくてもいい、それで一時的にでも救われるのなら本望だろう。


『悪魔祓い、聖なる儀式』は渋谷のイメージフォーラムにて上映中です。

*1:だからジェムリンガはやっぱりダメなんですが