エメラルド・フェネルの最新作『嵐が丘』を観てきました。もう観たの2ヶ月くらい前です、感想を書くのが遅い。しかし、アマプラなどの配信で視聴検討中の方の参考になればと思い、遅いけど感想をメモしておきます。
始まりは百合『プロミシング・ヤング・ウーマン』
さて、いきなり『嵐が丘』の話に入る前に、まずはこれまでのフェネルの作品を振り返っておこうと思います。エメラルド・フェネルの作品で、私がいちばん最初に観たのは『プロミシング・ヤング・ウーマン』。 夜ごとバーで泥酔したフリをして、自分をお持ち帰りする男性たちに制裁を加えている元医大生のキャシー(キャリー・マリガン)。女性蔑視とレイプリベンジがテーマの本作、正直あらすじを読んで「ちょっと説教くさい系?」と訝しみながら観に行ったのですが、結果、確かにフェミニズムが全面に押し出された映画ではあるものの説教くささは一切なく、私の中では「最高」に近い評価の面白映画だったので、周囲の人に推しまくりました。
しかし、本作はエメラルド・フェネルの(日本で観られるうちの)一作目だったため、この時点ではまだ、フェネルが何をやりたい人なのかはよくわからなかったんです。なんとなく、フェミニズムとシスターフッドがやりたい人なのかな、面白かったから次作が出たらまた観に行こう、と思った程度。
なお、シスターフッドと百合が違う概念であることは承知しておりますが、便宜上このブログ上では『プロミシング・ヤング・ウーマン』を百合映画と分類します。 映像の美しさと音楽の使い方がすごくいい! とSpotifyでしばらく作中に出てきた曲を聴きまくっていましたが、しかし……。まさか次作で『saltbarn』が来るとは、この時点では思いませんでしたよね。
次はまさかのBL『saltbarn』
エメラルド・フェネルの新作が映画館ではなくAmazonプライムで配信されている!と知ったのは2024年の1月。またもやフェミニズムやシスターフッドといった女同士の強い絆が観られるものだと期待して再生し始めたところ、出てきたのはバリー・コーガン。ヨルゴス・ランティモスの『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア(字幕版)』と合わせて、バリー・コーガンは一度仲良くなると一族丸ごと全滅させられる男というイメージが私の中で完全に定着してしまいました。
「この話の流れで、いつフェミニズムと接続するんだ?」とそわそわしながら最後まで観たところ、なんと、本作ではフェミニズムの「フェ」もシスターフッドと「シ」も出てきませんでした。そう、『saltburn』は男同士の強い執着を描いた、BLだったのです。『saltburn』をBL映画に分類することには異論があるかもしれませんが、便宜上このブログ上では『saltburn』をBL映画と分類します。
ストーリーは、冴えない陰キャのオリバーが、ふとしたきっかけで根っからの陽キャであるフィリックスと仲良くなり、夏の間、彼のお城のような豪邸に招かれるというもの。オリバーの陰キャっぷりとフィリックスの眩いばかりの陽キャオーラに圧倒され、フェネルならではの映像美、音楽が90分を一気に駆け抜けました。本作で、エメラルド・フェネルは私の中で「まあまあ面白い注目の監督」から「絶対面白いから次作が出たら這ってでも映画館に行く監督」に格上げ。新年からいいもん観せてくれてありがとうありがとうと、森羅万象に感謝したものです。
しかし、ここで疑問が残ります。百合の次がBLだったので、この人は、実のところいったい何がやりたいんだろうと。同性間の、恋愛とはいえない、しかし友情というには重すぎる、強い執着を描きたい人なのかな……?ということで私の中ではいったん落ち着いたのですが、頭の中は正直「???」でした。
最新作は男女カプ『嵐が丘』
そして、最新作の『嵐が丘』です。原作はご存知、エミリ・ブロンテ。屋敷の娘キャサリンと孤児ヒースクリフの身分違いの恋、狂気的な執着を描いた本作は、まさかまさかの男女カプであります。百合、BL、男女カプと来たので、「フェネルって雑食だったのね!」とやっと腑に落ちました。私も雑食なので、一緒で嬉しい! とも思いました。
原作改変がヒドイとの評価もある本作、確かにそれはそうだなと思いつつ、原作は原作、映画は映画ということで、私はひとまずほぼ別作品と考えています。そして、映画として独立して観たときの『嵐が丘』は、やっぱり文句なしに面白かった。 また、3作品を観てようやく、エメラルド・フェネルが何をやりたい人なのかも理解できた気がします。この人は、たぶん「二者間(性別問わず)の強い執着」がメインテーマなんだろうなと。二者間の強い執着──そう、「溺愛」です。エメラルド・フェネルって「溺愛」の人だったんだ! と、私は『嵐が丘』を観て完璧に理解しました。
溺愛作家としてのエメラルド・フェネル
溺愛──それは悪役令嬢や契約結婚や身代わり結婚と並んで、女性向け恋愛作品において根強い人気を誇る、2026年の日本市場における一大ジャンルです。
成熟した大人からは見向きもされないこれらの恋愛作品ですが、実は私、恥ずかしいからあんまり言いたくないけど「溺愛」だけはけっこう好きで、たまに広告に釣られてマンガを読んでます。いい年して何をやってるんだと言われると返す言葉もございませんが、今日は疲れすぎてて何も読みたくないわというときに、まんまと広告に釣られて溺愛マンガを読んでしまう私がいることをここに正直に告白いたします。
しかし、これは自分の名誉を守るためではなく本当にそうだから言うのですが、「無料ならいいけど課金するのはちょっとな」と思ってしまう溺愛作品が多いのも事実。なんか、これだとただのお惚気仲良しカップルじゃない? 序盤しか溺愛してなくない? だんだん中だるみしてきてない? と、読みながらそう思ってしまう作品が大多数を占めるのです(私の感覚では)。
そうじゃないんだ。もっと強い執着を見せてくれ。もっともっと溺愛してくれ──どれくらい溺愛してほしいかというと、愛しすぎるがゆえに、自分の人生も相手の人生も完膚なきまでに破壊して、末代まで呪い殺してしまうくらい! ……と、そんな願望を胸に秘めた特殊性癖の持ち主である私の心を癒す溺愛作品は、残念ながら現代日本のマンガ市場にはなかなかありません。しくしく。課金したいけど課金したい作品がないよ。
と、そこで颯爽と現れたのがエメラルド・フェネルだったんだなと、私は理解しました。執着してほしいのです、ヒースクリフのごとく。狂気的に溺愛してほしいのです、オリバーのごとく。復讐心のあまり、完膚なきまでに自分ごと破滅させてほしいのです、キャシーのごとく! 溺愛が(実は)好きだけど日本のマンガではいまいち満たされない、もっとすんごいやつ見せてくれ、という私の欲望にぴったりフィットするのがエメラルド・フェネルの映画だったのだと、3作品観てようやくわかりました。
というか、よく考えたら『嵐が丘』って元祖溺愛小説ですよね。そうよ、こういう溺愛が読みたかったんだ、私は。というわけで、すごく昔に読んだエミリ・ブロンテの『嵐が丘』を現在再読中です。広告に釣られて溺愛マンガをついクリックしてしまう疲れた夜はこれからも変わらずあるでしょうが、そういうときはエミリ・ブロンテを読めばよかったんだな。
いつか日本のマンガ市場にも私の心を癒してくれる超濃厚な溺愛モノが現れるのを待ちつつ、今は19世紀のイギリスの田舎に脳内トリップしています。 エメラルド・フェネルの次作も這ってでも観る。しかし4作目でまた「あれ、この人結局何がやりたいんだ?」となる可能性があるかもしれないとちょっと思っている、今日この頃です。原作改変はあんまり気にしないよという方には『嵐が丘』、おすすめです!



