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チェコ好きの日記

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それはなぜ「醜い」のか? ウンベルト・エーコの傑作、『醜の歴史』

美術

日本語の「美術」という言葉には、「美」という文字が入っています。そのためというわけでもないんでしょうが、私たちは絵画や彫刻作品などを、どうしても「美しいもの」を表現していると考えがちです。

ところが、諸々の作品を見直してみると、絵画や彫刻が必ずしも「美しいもの」を表現してきたわけではないということに、すぐ気が付きます。というか、「美しい」って何なんでしょう。平安時代の美人と現代の美人では「美」の基準が異なるみたいな話が有名なように、「美」の概念は常に一定ではありません。それぞれの時代の状況や他国の文化を反映しながら、「美」の概念はどんどん入れ替わっていきます。


では、「美」の対極である「醜」は?

それを解き明かしてくれるのが、知の巨匠ウンベルト・エーコの『醜の歴史』です。といっても、全世界・全人種の「醜」の概念を網羅するのはさすがのウンベルト・エーコも手に負えなかったようで、この本でたどっているのはあくまで西洋世界の「醜」の歴史です。しかし、それでも十分刺激的で示唆に富んでおり、図版も大充実。この本中古で6千円もするんですけどね、これは買ってよかった。

醜の歴史

醜の歴史

「美」と「醜」、対極にある2つの概念ですが、私はなぜか昔から「醜」のほうにより魅力をかんじます。一言でいうとキワモノ好きってことですね。さすがに日常レベルになると、不潔な外見の人より清潔な外見の人のほうが好きだし、部屋とかも極力キレイにしておきたい派ですが、美術作品や映画のなかの話になると、気味が悪いもの・凄惨なもの・不快なもの、「醜い」ものは大好物。とはいえ、やたらめったらスプラッターがあればいいのかというとそれもちがくて……と、この話は長くなるので、さっそく本題に移りましょう。

それはなぜ「醜い」のか?

「醜」には、本質的な醜と、形式的な醜があると、エーコは定義しています。本質的な醜というのは、排泄物や腐敗した死体、悪臭を放つ傷にまみれた生物など、生理的な不快感をもたらす「醜」です。対して形式的な醜は、全体のなかの諸部分の不均衡。歯が欠けている(あるべきところにあるべきものがない)とか、すごく太っているとか、すごく痩せているとかですね。ここからは私の解釈ですが、共通しているのはどちらも「私たちの健康(生)をおびやかすかもしれない存在」であるということだと思います。排泄物や腐敗した死体は、それをもとに伝染病が広がるリスクなんかがあるし、すごく太っているとか、すごく痩せているとかは、そのどちらも健康的とはいえませんよね。

自分の健康(生)をおびやかすかもしれない存在=醜いものを避けるように、私たちは本能にプログラムされている。話としては筋がとおっているし、納得もできる気がします。しかし、しかしですよ。

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『死の勝利』ピーテル・ブリューゲル

だとしたら、歴代の画家はなぜ、その避けるべきものを絵画として表現してきたのかなー、なんて思いました。上のブリューゲルの『死の勝利』という絵、私は大好きなんですが、骸骨の大群がおしよせて生きている人間を襲っているという、とてつもなく不気味な作品です。でも、あっちではこんなことが! こっちではこんなことが! と見るたびに新たな発見があって、とても楽しい。

隠すべきもの、避けるべきものを表現したくなってしまう、そして見たくなってしまう。これは何なんだろうなと思います。「メメント・モリ」ってことでしょうか。生をおびやかすものこそが、今の生を輝かせているのでしょうか。

一周してかわいくなっちゃう不思議

エーコの本はその後も、「古典世界の醜」「受難、死、殉教」「黙示録、地獄、悪魔」「モンスター(怪物)とポルテント(予兆)」「魔女信仰、悪魔崇拝、サディズム」「ロマン主義による醜の解放」「不気味なもの」「アヴァンギャルドと醜の勝利」「他者の醜、キッチュ、キャンプ」と、西洋における「醜」の移り変わりについて興味深い例をざっくざくとしめしてくれます。

しかし、私がエーコにぜひとも聞いてみたいと思うのは、日本における「きもかわ(気持ち悪いのにかわいい)」という概念です。この言葉が日本で生まれたのはほとんど奇跡のような出来事だと私は考えていて、この概念に最初に注目した女子高生? メディア? は本当にすごいなと思うんですが、「醜い」ものは一周するとかわいいもの、笑えるものに見えてきてしまうという不思議があります。上のブリューゲルもそうですが、骸骨が生きている人間を襲うという不吉なテーマにも関わらず、見ていると何だか楽しいのですよ。やせ衰えた死神たちが、滑稽でキュートな存在にも見えてきてしまうのです。それで、何か笑っちゃう。

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『聖アントニウスの誘惑』ヒエロニムス・ボス

ブリューゲルと似た雰囲気のものとして、ヒエロニムス・ボスの絵があげられると思いますが、これも一周してかわいくなっちゃってる好例だと思います。ボスも大好きな画家なんですが、私のシュミってわかりやすいですね……。

「きもかわ」は、西洋の概念でいうと「キッチュ、キャンプ」に近いものといえるんでしょうか。キッチュとキャンプはざっくり訳すと「けばけばしい」とか「悪趣味」くらいの意味になると思うのですが、「けばい、悪趣味=不快」ではなく「けばい、悪趣味=それこそが美」みたいな感性ってあると思うんですね。「醜」というのは、本当に奥深い概念です。

意図的な醜

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『グロテスクな婦人』クエンティン・マセイス

話は変わりますが、みなさんは「人相学」って信じてますか? 耳たぶがふっくらしている男性はお金持ちとか、そういうやつですね。こういうのは話としては面白いし、血液型占い程度に、害のない範囲で楽しむぶんにはいいじゃないかと私は思います。

しかし、歴史上で人相学が「害のある」範囲まで影響を及ぼしてしまった例というのがあって、それが犯罪者やヘブライ人の容貌分析です。ルネサンス期には、残酷な人は出っ歯であるとか、好色な人間や裏切り者は目に特徴があるというような分析が大真面目にされていて、「醜い容貌=犯罪者」という危険なレッテルがはられるきっかけになってしまったといいます。19世紀には、犯罪者の容貌が常に身体的な異常と結びついていることを証明しようとした論文なんてのも出たんだとか。

犯罪者や外部のよそ者、そして敵。私たちに害をおよぼすかもしれない存在を「醜い」ものとして表現し、それらを意図的に民衆から遠ざけようとする行為。昔のアメリカ映画なんかを見ると、低身長・牛乳瓶底メガネ・ちょびひげ、みたいな典型的な「醜い」特徴をもった日本人が、悪役として登場する作品がけっこうあります。人相と悪が結びつくなんて偽科学だと頭ではわかっていても、映画やポスターのなかで、それらの表現にふとだまされてしまうことってあると思うんです。だから、芸術はときとして、プロパガンダに利用されます。

エーコの本では「醜い」表現をカリカチュアに利用した例がけっこうのっています。何か「醜い」表現に出会ったら、それが作家自身の欲望から生まれた本質的な「醜」なのか、それとも私たちを何かから遠ざけようとして表現した意図的な「醜」なのか……少し立ち止まって考えてみると、何か新たな発見があるかもしれません。最近はそういう表現てさすがに見かけなくなった気もしますけどね。

まとめ

学生時代、私はすごく気持ち悪い映画の研究をしていたので、エーコの本は私の院生時代とかを思い出させてくれるとても興味深い本でした。同時にすごく難しい本でもあったので、これからも一生の間に何度も読み返すことになるんだと思います。内容も重さも値段も大ボリュームでしたが、もとはとれるはず。姉妹編として「美の歴史』もあるので、こちらも読みたいんですよね。

美しいものと醜いもの、みなさんがより惹かれるのは、どちらでしょうか。