私のまわりだけかもしれないが、「好きなもの(人、こと)があるなら、それについて積極的に発信していったほうがいい」といった内容のことを、たびたび言う人がいる。ていうか、私自身もどっかで言ってたかもしんない。
上のようなメッセージに関して、私は賛成したい気持ちが7割だ。だけど実をいうと、批判したい気持ちも3割くらいある。そして、賛成したい気持ちについて、つまり「好きなもの(人、こと)について積極的に発信し続けることのメリット」については、他の人がすでに散々言ってくれている。だから今回の私は、3割ほどある批判したい気持ちのほうを書くことにしよう。
一応メリットについて触れると、私のまわりでよく聞くのは、まず好きなもの(人、こと)について発信し続けていると、それが本人や製作者に届いて励ましのメッセージになる可能性があること。次に、「◯◯に詳しい、△△が好きなホニャララさん」というアピールができるので、自分自身の仕事に繋がったりすることがあるらしいこと。どちらもとても良いことである。私自身も、身に覚えがまったくないとは言わない。「いいね!」を押し続けていると、毎日少しずつ、自分の世界が豊かになっていったりするんだろう。
暴力表現が好きだったらどうすんの?
というわけで、ここからは3割のほうの批判。
まずは掲題のとおりだけど、「それを好きだというだけで不快になる人がいる表現」というものが、残念ながら世の中には存在する。よく言われるのは、好きなものへの賛辞を表明するときに、それと対極にあるものをdisって相対的に好きなもののポイントを上げるのはやめようってことだけど、そんなことしなくても、ただ純粋に「好き」と言っただけで世の中の人を不快にさせてしまう表現っていうのもある。
例としては、暴力表現やエロの表現などがこれに該当することが多い(法的には問題ないものであっても)。わかりやすい話としては、最近「ふともも写真の世界展」という展示が批判を受けて中止になった。
個人的なことを言うと、私もこの「ふともも写真展」は、開催されるだけで不快という気持ちがわからんではない。スクール水着や制服を着た女の子を見て楽しむ男性が、申し訳ないけど私は好きじゃない。だから感情的なほうの私は「中止になって良かった!」と思っている部分もある。だけど理性的なほうの私は、「"好き"という感情は社会的に"正しく"なければいけないのか? そうでなければ許されないのか?」と首を傾げてしまう。
「好きなもの(人、こと)があるなら、それについて積極的に発信していったほうがいい」と人は言うけれど、私にはこのメッセージには、ある注釈がついているように思えることがある。
「それが多くの人に受け入れられ、社会的に"正しい"好きならば、積極的に発信していったほうがいい」ってね。
それでもやっぱり好きなものは好きって言ったほうがいいと思うけど、思うんだけど
正直なところ、この批判には嫉妬も入っていると思う。「大好きな人と焼きたてのパンを食べる幸せ」とか映画の『かもめ食堂 [DVD]』みたいな、「好き!」って言ったところで誰からも怒られないような、そういう"正しい"好きを持てる人が、私はちょっと羨ましいのだろう。
『アイズ ワイド シャット (字幕版)』の乱交パーティーのシーンとかが、私は大好きなのね。乱交パーティー。でも、結局Twitterで堂々と言ってるからあんまり説得力ないかもなんだけど、あとなんだかんだで「キューブリックの映画なので、芸術なので」って言い訳が立つからたいしたことないんだけど、これは真昼間にランチしながら初対面の人には言えないっていうか、夜も深まってきた頃、仲良くなった人に「じ、じ、じつは」ってやっとの思いで告白するタイプの「好き」だと思うのね。
アイズワイドシャットの仮面舞踏会の乱交パーティーのシーンやっぱ何回観ても素晴らしいな。音楽もカメラワークも完璧にカッコよくて美しい。観ていると理性を司る脳の細胞が1つずつ壊死していく気がするよ。https://t.co/X0eC6bqwyA
— チェコ好き (@aniram_czech) 2017年10月24日
(※「脳細胞が壊死する」は最高の賛辞)
まあ、そんな私の個人的な話はどうでもいいんだけど、つまり批判したい3割の気持ちについてまとめるとこうだ。
1つは、「社会的に"正しくない"(かもしれない)好き」をどう扱うのかという問題。
世の中にはいろいろな「好き」を抱えた人がいて、正直「好き」って言っただけで怒られるようなカルチャーだって存在する。怒られない好き(例:『かもめ食堂』)は表明してよくて、怒られる好き(例:ふともも)は表明しちゃダメってことなら「矛盾!!!!」って私は思うし、これはそんなに無邪気な話じゃないんじゃないかって考えちゃう。もしこれが「"正しい"好きだけを発信してね!」っていうメッセージだったなら、そんなご都合主義は勘弁してくれって思うよ。
もう1つは、「"好き"はアイデンティティと密接に絡むので、言い過ぎると秘密がなくなる」って問題。
これは、上の問題と比べるとあんまたいしたことないんだけど、人間には真昼間から堂々と言える「好き」と、人前ではなかなか言えない「好き」があって、後者のほうを誰もが「秘密」として抱えている。それを告白したときにやっと友達になれる「好き」ってあると思う。だから、いろいろな「好き」を全然区別しないで、全部を正直に世の中に発信していいんだよ〜〜と言われると、「"好き"って気持ちをざっくりと見積もりすぎだ!」と私は思ってしまうかな。
まとめ
というわけで、それでも「好きって言おう、発信しよう」という言説に私は7割くらいは賛成なんだけど(やっぱり好きを発信するメリットってすごく大きいと思うし、いろいろ言ったけどハッピーになる人は多いから)、なんていうか、けっこう自分勝手で恣意的なメッセージを感じ取っちゃうときがあるんだよね。「みんなが不快にならない"好き"だけを発信してね!」みたいな。
「"正しくない"(かもしれない)好き」は、まあ、水面下で発信するとか、裏でこっそり語り合うとか、別にそれは今の時代だけじゃなく、ずっとそうやって受け継がれてきた。「好きって言おう、発信しよう」って言ってもらって全然いいんだけど、「ま、人に言えない好きもあるけどね」っていう注を一言入れてもらいたいもんだと、私はちょっぴり思ってしまうのだ。
(※岡本太郎記念館は青山イチのパワースポットである)