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チェコ好きの日記

旅 読書 アート いいものいっぱい 毎日楽しい

【2】私は島とセックスできただろうか?

東南アジア

バリ島旅行記の続き。

【1】サイババの弟子に未来を占ってもらってきた。 - チェコ好きの日記

バリ島の伝統的呪術師「バリアン」のいまいちすっきりしない占いを体験した日の夜、私はガイドのワヤンさんにすすめられ、ウブドの中心地で伝統芸能ケチャダンスを鑑賞してみた。

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しかし当然といえば当然なのだけど、「観光客向けにやっている」感が否めない。それもそのはず、ケチャ1920年代から30年代にかけて、廃れきっていたところをドイツ人の画家が再興させバリの伝統芸能ということに「した」、なんて話を聞いた。日本の初詣も明治から大正にかけて鉄道会社が行なったキャンペーンがもとになっているという話があるけれど、まあ伝統の中にはそんなものもあるのだろう。

が、じゃあケチャはつまらなくて見る価値がなかったかというと、もちろんそんなことはない。火の玉を素足で蹴っとばすショーがあったのだけど、あれは普通に危ないしどうやってるんだろう? と思った。足の裏の皮が厚いのだろうか。そういう問題じゃないのだろうか。

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それよりも印象に残っているのは、ケチャダンスの鑑賞を終えて宿に戻ろうとした帰り道だ。私は宿泊先をAirbnbで予約したのだけど、この宿が田んぼのど真ん中でだいぶ辺鄙なところにあり、昼はいいが夜になると街灯もなく真っ暗だったのである。iPhoneのライトを点けなければ足元がまったく見えない。

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(※これは明るいときに撮った写真だが、この場所が暗くなったときを想像してみてほしい)

まったくの闇──というのをきっと、都心に住む日本人の多くは久しく体験していないのではないだろうか。日が暮れて太陽が沈んでも、街はネオンや街灯やオフィスビルの電気で、眠ることなくぴかぴかしている。だけど私が歩いた、宿へと帰る道には、そんなものは一切なかった。iPhoneのライトという頼りない明かりで(それだってないよりはだいぶマシだが)、この道で合っているのかと不安になりながら、虫や蛙の声を聞きながら一人で歩いた。途中、道を間違えたらしく変な畦道に入り込んでしまい、だいぶ焦った。

だけど、私はこの「まったくの闇」、頼るものが視覚以外の自分の五感しかないという状況を、ずっとずっと求めていたようにも感じた。バリ島到着前の飛行機で読んでいた『ヤノマミ (新潮文庫)』という本は、「闇、なのだ。全くの、闇なのだ」という一文から始まるのだけど、私はこの一文でかなり動揺してしまったのである。「まったくの闇」を私は知らないし、知っていたとしても、だいぶ昔に忘れてしまった気がする。漆黒の闇と吐き気がするほどの恐怖。私は、人類が必死で逃げてきたはずのそれを、なぜか今ものすごく懐かしく思っている。

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(※本当に田んぼのど真ん中にある宿)

翌日は、ガイド・ワヤンさんの車で終日バリ島を観光した。ティルタ・エンプルとか、ブサキ寺院とか、キンタマーニ高原とか、ゴア・ガジャとか、カルタゴサとか、そのあたりの有名どころの寺院を巡る。

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ふと疑問に思ったので、ワヤンさんに「インドのヒンドゥー教とバリのヒンドゥー教は何がちがうんですか?」と聞く。いわく、バリには4世紀頃インドからジャワ島を経てヒンドゥー教が伝わったが、オリジナルのヒンドゥー教がバリの土着の多神教と合体し、それが今あるようなヒンドゥー教になっているらしい。日本の神仏習合みたいなものだ。ヒンドゥー教では牛は神聖な生き物なので食さないことになっているが、バリ・ヒンドゥーではカーストの階級によっては一部食べる人もいるし、他にもいろいろなローカルルールがあるらしい。

だけど、実はインドネシアでは、バリ島に住む人々以外のほとんどがイスラム教を信仰している。なぜかバリ島だけ*1が、後から伝わってきたイスラム教が根付かず、そのままヒンドゥー教の島として残ったのだ。理由はよくわからない。この島は、よっぽど多神教の世界観が強固なのかもしれない。

それぞれの寺院は、地元の人と観光客が入り乱れていてなんだか不思議な雰囲気だった。私たちがパシャパシャ写真を撮る傍で、地元の人が熱心に神様に祈りを捧げている。キリスト教の教会でも、エルサレム嘆きの壁でもそうだけど、「祈る人々」を見るというのはすごく変な気持ちだ。

彼らはそれを信じている。だけど、私はそれを信じていない。彼らには見える。だけど、私には見えない。人と人との間にある断絶を、まざまざと見せつけられている気分になる。

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「バリ島にいると、何だかこの島とセックスしているような気持ちになる。とても不思議な気分だ。他の島ではこうはならない。バリ島だけだ。このクタ・ビーチで波を眺めている間に、ふと気がつくと十八年もたっていた」(p.153)

中島らもの小説『水に似た感情 (集英社文庫)』はバリ島を舞台にしていて、この島を一人の人間になぞらえている。バリ島に入ることは一人の人間の胎内に入ることであり、いわくクタ・ビーチで波を眺めていると島とセックスができるらしい。もしそれが本当なら、こんな極楽はないと私はわくわくして出かけたのだが、私が島とセックスできたかどうかは疑問が残る。やはり小説にあるように、マジックマッシュルーム*2でもやらないとそんな没入感は得られないのだろうか。

バリ島の11月は雨季なので、お昼頃から雨が降ってきてしまった。しかし、雨が降ると生き物が喜んでいるのがわかる。なんだか得体の知れないものがたくさんいるのがわかる。だから、私はバリの雨はとても好きだと思った。

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次回へ続く

*1:正確には、バリ島近くのレンボンガン島などもバリ・ヒンドゥーの島であるらしい。私は宗教分布に生物分布境界線が関連していると考えていて、これに関しては後日書く。

*2:もちろん犯罪です。