知人に、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんという方がいる。
最初にお目にかかったのは確か「灯台もと暮らし」さんのイベントだったと思うのだけど、イベント後にブログを読んだらレヴィ=ストロースのことがいっぱい書いてあって(しかもそれがすごく面白い)、そこから私の中でヒラクさんは完全に「文化人類学の人」になった。私自身は残念ながら、レヴィ=ストロース御大のことは「すごいのはよくわかるけど何がどうすごいのかは説明できない」みたいな理解しかしてないのだけど、しかしそれはそれとして、よくわかってないくせにものすごく気になる存在ではある。30歳になった今年の誕生日は家にこもって、『悲しき熱帯』を8時間くらいずっと読んでいた。
そんなヒラクさんが、この度『発酵文化人類学』なる本を上梓されたらしい! というわけで、以下はヒラクさんの『発酵文化人類学』の感想です。
- 作者: 小倉ヒラク
- 出版社/メーカー: 木楽舎
- 発売日: 2017/04/28
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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浮いた氷山の水面下には何がある?
本の感想の前にちょっと別の話から入るけど、正直なところ私の頭は、つい最近まで世界を国境という境界線で区切り、国境は「ある」という認識によって世界を見ていた*1。
「あれ? なんか変だな」と気が付いたのは昨年、インドネシアを旅したときだ。私は一大観光地であるバリ島を訪れた後、スピードボートに乗ってギリ・アイルという小さな島とロンボクというデカめの島を訪れてみたのだけど、実はこのバリ島とギリ・アイル、ロンボク島の間には、ウォレス線という生物分布境界線が走っている。ウォレス線より西のバリ島側は生物分布が東洋区に属し、東のロンボク側は生物分布がオーストラリア区に属しているのだ。ボートで2時間移動しただけなのに、島に生息している植物や動物がちょっとだけ変わっている。さらにいうと、ウォレス線を境に宗教も変わっているように見えるから面白い。西側のバリ島はヒンドゥー教だが、東側のギリ・アイル、ロンボクに行くとそこはイスラム教の島になってしまうのである。
実際に訪れてよく観察してみると、バリもギリ・アイルもロンボクも、1つ1つの島はまったく異なる性格をしている。しかし、人間は地図の上から線を引っ張って、「国境はこっちです。だからバリもギリ・アイルもロンボクも同じ、インドネシアなんです」ということにしてしまう。あるいはユーラシア大陸なんかだと、国境によって同じ文化を共有している民族を分断してしまってたりすることもあるだろう。実際の生物分布や文化の分布と、人間の都合で便宜的に引いた国境ってのは、あんま関係ないんだな〜としみじみ思ったのである。
さらに、もう1つ別の話。私も大ファンだけどヒラクさんもファンだと言っていた、辺境作家・高野秀行さんの『謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉』という本がある。納豆といえば日本人にとってもっとも身近な食品の1つだけど、なんと、実はその正体がよくわかっていないらしい。まずありがちな勘違いとして、「納豆は日本にしかない」と思い込んでいる人が少なからずいるかもしれないが、納豆はミャンマーにもネパールにもブータンにもある。韓国にもある。ただし、中国にはないらしい。
そうなると、今我々の食卓に並んでいるこの納豆は、いったいどこから来たんだ? という疑問が浮かぶ。稲作っぽい感じで別の大陸から伝わってきたのだとしたら、中国を飛びこえているのがおかしい。納豆自体は作るのがそんなに難しくないので、じゃあ日本国内で独自に発達したのかな? と思いきや、実は納豆には方言の呼び名がなく、日本全国どこでも「納豆」と呼ぶ。国内独立起源説をとると、こんなに日常的な食品の名称が全国で統一されているのはおかしいので、この説もいまいちとなる。
納豆の起源については結局、高野さんの本の中で結論は出ない。だけどここ日本と、遠く離れたミャンマーやネパールの山岳地帯で、同じ微生物のお世話になって同じ食品を作っていたというのはちょっと不思議な気分だ。人間が作った地図上で見れば日本とミャンマー、ネパールは遠く離れた別の国だが、微生物の世界から見ると非常に近くにある「おんなじようなもん」なのかもしれない。
で、やっと『発酵文化人類学』の話につながるのだけど、ヒラクさんはこちらの本の「あとがき」で奄美群島を訪れている。微生物の働きによって色素が布地に定着する、奄美特産の大島紬という絹織物があるらしいのだけど、この大島紬の系譜をたどると、インドやジャワの絣織りにたどりつくらしい。
地図を上から見ると、そこには国境がある。それでなんとなく、私たちは日本とインドネシア、日本とミャンマー、日本とその他諸々の国は、別の国なんだと思っている。だけどそれってたぶん、間違ってるわけじゃないけど、氷山の一角というか、先っぽというか、上澄みのあさ〜い部分でしかないんだろう。私たちは人間なので、人間の体が通れる場所しか「道」だと認識していない。だけど目線を下げて体を小さくして猫になってみれば、きっとそこには人間が普段は認知していない「道」が無数に現れる。別の生き物(微生物)の目線で世界を見てみると、浮いている氷山の水面の下にまでもぐることができるのだ。
そして贈与経済
いきなりあとがきの話に飛んでしまったけれど、個人的に『発酵文化人類学』でいちばん興味深かったのは、第4章の「ヒトと菌の贈与経済」である。ニューギニア島東部にはトロブリアンド諸島というのがあって、そこに住む部族は、赤い貝の首飾りを時計回り、白い貝の腕輪を反時計回りにして、部族間でぐるぐる交換しているという。なんの意味があるんだそれ? と思わず問いただしてしまいたくなるけれど、「なぜ人間はコミュニケーション(交換)をするのか?」ではなく、文化人類学は「コミュニケーションをするから人間なのだ」と考えるらしい。
さらにいえば、コミュニケーションをしているのは人間と人間だけではない。目に見えているもの以外にも、私たちはあらゆる生命体とコミュニケーションを交わしている。『発酵文化人類学』は発酵の本なので、説明されているのは主に人間と菌のエネルギーの交換だけれど、人間とイルカとか、人間と植物とか、人間と猫とかでもコミュニケーションはできる。人間をやっているとたまに「孤独だなあ……」と感じてしまうこともなくはないけれど、それは私たちが人間であるが故に人間ばっかり見ているからで、本当はただ生きているだけで全然孤独ではないんだろう(と、いうのは前に伊佐知美さんの『移住女子』を読んだときも思った)。
最近実感している個人的なことだけど、「生きる」ということはどうやら「ぐるぐるする」ということとイコールらしい。
「ぐるぐる」をもう少しわかりやすくいうと「コミュニケーション」だけど、しかしやっぱり私が思う意味により忠実なのは「ぐるぐる」のほうだ。そして、「生きる」ことが「ぐるぐる」であるが故に、「ぐるぐる」の流れはあまり止めないほうがいいらしい。すごい平易な言い方をすると、「昔は上司におごってもらったから、今度は自分が部下におごってあげよう」みたいなことになると思うんだけど、おごられっぱなしだと実は得するようでめちゃめちゃ損するようになっているっぽい。なんでかは知らないけど。あと、「上司におごってもらったので上司におごり返す」のではなく、「今度は部下におごる」というのがミソで、右から来た首飾りは右に返すのではなく左に流すのがキマリのようだ。なんでかは知らないけど。
こういうのってちょっとやばくなると「すべてのことに感謝しましょ〜!」みたいなスピリチュアルな方向に行きそうな気もするんだけど、でもあれってあながち間違ってなくて、というかあながち間違ってないが故に信者が増えるのかもしれない。
まとめ
個人的には、ブログでのヒラクさんの文体がそのまま反映されていたのが楽しかった。「発酵も人類学も関係ないじゃん」と思うかもしれないが、案外「孤独だ……!」と深夜に頭を抱えてしまっている人が読むと、斜め上の方向からすっきりするのではないかという気がする。
- 作者: 高野秀行
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/04/27
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