チェコ好きの日記

だいたい木曜日の22時に更新されるブログ

3時33分と4時44分と『偶然性と運命』

少し前、友人たちと、「私たちはSNSがなかったら今頃どこで何をやってたんだろうか……」という話をしていた。私は今の仕事をSNS上のつながりの中で偶然に見つけているし、友人たちも似たようなものである。私においては、暇を見つけてはインターネットとSNSの有害性や空虚性を説いて文句ばっかり垂れているが、それはそれとして、恩恵のほうはがっつりと受けまくっているのであった。自己矛盾が甚だしいが、それはそれ、これはこれ、ということにしておきたい。

回顧的錯覚


「偶然の積み重ねによって、ある方向に導かれていく」という感覚を、体験したことのある人は少なくないだろう。はじめからねらってこの場所に来たわけではない。さまざまな人、ものとの偶然の接触があって、自分はそれらに導かれ、「たまたま」この場所へ来てしまったのだ、という感覚だ。逆に言うと、あのときふとした思いつきでアレをやっていなかったら、あのときSNSであの人のコメントを見逃していたら、あのとき雨宿りに入った本屋であの本に出会わなかったら、今の自分はなかった──という、綱渡りのような経験もあるはずで、そのときのことを振り返っては少しヒヤッとして、やはり不思議な気持ちになる。


この類の、ある種の運命的な「偶然」はなんなのだろう? と疑問に思った人はけっこういたらしい。スピノザやカント、ヘーゲルもこの疑問に言及している。ただし、理性を重視する近代哲学においては、「偶然」なんていう曖昧なもんはいずれにしろ信用ならなかったみたいだ。スピノザもカントもヘーゲルも、みんなそろって、「偶然」や「運命」などの概念に対して「バッカじゃねーの」みたいなコメントを残している*1


個人的には、こういった「あのときのアレがなかったら……」という感覚は、「回顧的錯覚」ってやつなんじゃないかと思っている。「回顧的錯覚」は、現状にそこそこでも満足していると生まれる。今に満足しているから、今が上手く行っているから、今に至るまでの積み重ねの一つ一つを肯定することができる。逆に、私の場合で言えば、もしもインターネットやSNSによって導かれた「今」に満足できていなかったら、ここに至るまでの一つ一つの過程や、偶然の不思議さに思いを馳せることもなかっただろう。「過去は変えることはできないけれど、今と未来は変えることができる」とはよく言うが、なんてことはない、過去だって変えられるのだ。人間は事実なんて見ちゃいない。あるのは解釈だけだ。そういう意味では、アレもコレも全部錯覚なんだから、スピノザやカントやヘーゲルが言う「バッカじゃねーの」も、まあまあ同意できる。


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麻雀をきっかけに生まれた『偶然性と運命』


木田元さんがこの「あのときのアレがなかったら問題」について考察しているのが、『偶然性と運命』という本だ。なんでもこの本、書かれたきっかけは木田さんが熱中していた麻雀だったらしい。親近感のわく動機だ。


偶然性と運命 (岩波新書)

偶然性と運命 (岩波新書)


勝負事をする人間にとっては、〈運〉は非常に重要なファクターである。ツイているときには、統計的には絶対にありえないような牌の組み合わせが、次々に起こるらしい。この〈運〉をコントロールできはしまいかと考えた末に生まれたのが本書だったらしいのだけど、結論から言うと、〈運〉をコントロールすることはできない。木田さんいわく、心身の調子を整えるといいセンは行くらしいが、限界はあって、やっぱりダメなときは何をしてもダメらしい。まあでも、いいセンは行くのだから、調子が悪いときは体に良いものを食べて早く寝るとか、部屋を掃除するとか、いらないものを捨てるとか、そういうのってバカにせずにやったほうがいいんだろう。


この問題をもっと本格的に考えるとしたら、たぶん九鬼周造とか読まなきゃいけないし、『偶然性と運命』自体がふわっとしているわりに難しい本なので、結論めいたことを言うことはできない。ただ、そういう非科学的なものをバカにしそうな経営者とか政治家に意外と占いを信じている人がいたり、神社に熱心にお参りする人がいたりすることの説明は、なんとなくこれでつくのではないかという気がしてきた。


夜中にふと目が覚めて時計を見ると、3時33分だったり4時44分だったりすることが私にはよくある。こういう現象には、呪われている説とラッキーの前触れ説と、両方あるらしい。ただこれも「回顧的錯覚」の一種で、ようするに、ゾロ目で並んだ数字は印象に残りやすいっていうだけの話なんじゃないかと思っている。3時33分にも4時44分にも、それ自体には特に意味はない。あるのは解釈だ。


経営者や政治家で占いに頼る人が少なくないのは、これから起きることの意味付けをしやすくするためだろう。起きたことに対して、「これはあのとき言われたあのことじゃないか」と解釈することで、ただの偶然は運命になる。3時33分は呪いか、あるいはラッキーの前触れになる。神社でお参りをすることで、起きたことに対して感謝の気持ちが起きやすくなり、4時44分もまた、呪いか、あるいはラッキーの前触れになる。


だから、もしも「運を良くする方法」なんてものがあるとしたら、「起きたことをすべてポジティブに解釈する」なんていうのがバカバカしいけどいちばん有効なんじゃないかと思う。ポジティブなことなんて全然起きないよ! という場合でも、この世には「人間万事塞翁が馬」という素敵な言葉があるから大丈夫だ。人の死に関わるようなあまりにも重い不運はさすがに難しいが、骨折したとか財布をなくしたとかいうレベルだったら、いくらでもポジティブに解釈できる。


いちばん抜け出したほうがいいと思われるのは、「良いことも悪いことも何も起きない」という状況だ。解釈するためのネタがあって初めて、呪いもラッキーも生まれる。ネタさえあったら解釈の幅はいくらでも広げられる。


そういう意味では、偶然性も運命もその人の脳内にしかない完全な主観だから、やっぱり幽霊みたいなものなんだろうなと私は思う。

*1:木田元『偶然性と運命』p49