チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

私たちはどうしたら“イケてる人”になれるのか?

イケてる人とダサい人、どちらでありたいかと問われたら、よほどひねた回答をするのでなければ、ほとんどの人は前者でありたい、と答えると思うんですよね。

しかし問題はここからで、では“イケてる人”とはどのような人なのか、という話になります。何において“イケてる人”なのか、ファッションなのか思想なのか暮らしぶりなのか人間性なのか、話題はいくらでも広げられますが、その根幹にあるものは何なのでしょう。

……ということを考えるにあたって、ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター著の『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』という本が少しヒントになりそうです。

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

こちらの本は、少し前に話題になったcakesの「サードウェーブ系男子」をテーマにした対談で紹介されていたものです。この対談自体について思ったことも以前書いているので、今回のエントリはこの前していた話の続編としてお考えください。aniram-czech.hatenablog.com

市場を牽引するのは順応ではなく反逆である

本エントリのタイトルで私が示した疑問への回答を先にしてしまうと、“イケてる人”とは“少数派”であることが絶対条件になります。私たちが“イケてる人”になりたいと願うなら、すなわち“少数派”であることを目指せば良い。

ファッションの話でいえば、高価なブランド物を身につけている人がかっこよく見えるのは、そのアイテムを手にすることのできる人が、高価であるが故に“少数派”だからです。だけど、昨今は「ただ全身ブランド物でキメているなんてダサい」という風潮があります。これはつまり、「お金さえあれば誰でもアイテムを手にすることができる」→「全身ブランド物でキメるのなんて簡単」→「簡単=“少数派”ではない」→「ダサい!」という思考ステップを踏んでいるのだと思います。

しかし、ただ少数派であれば良いのなら、ファッションの話でいうなら全裸で表へ出れば間違いなく少数派になれますね。が、全裸の人間を“イケてる”とかんじる人は稀でしょう、確かにロックではありますが。これはなぜかというと、やはり全裸で表へ出るというのは、何も考えなくていいし、だれでもできて簡単な方法だからだと思います。捕まってしまうからだれもやらないだけであって、やろうと思ったらだれでもできるわけです。こういうのは、たとえ少数派であっても、“イケてる人”ではない。まず、考える、情報をキャッチする、巧みに表現するなどの過程があって、それが「やろうと思ってもできない」ことであることが必要です。大多数を振るいにかける選別がって、そこを突破できた人が“イケてる人”になれます。“イケてる人”とはつまり、「大多数の人間との差異を獲得した人」です。

しかしここに1つ問題があって、よほど偏狭な人でない限り、私たちは皆“イケてる人”になりたいわけです。「大多数が少数派になりたがっている」という無理な話が、ここにあります。するとどうなるかというと、これが市場を牽引し、消費行動を過剰にさせると、『反逆の神話』は説明しています。

たいていの人は周囲になじむためのものより大勢のなかで目立つためのものに大金を費やす。差異を与えるためのものにお金を使う。優越感を味わえるものを買う。たとえば自分をもっとかっこよく(ナイキのシューズ)、広い人脈があるように(キューバの葉巻)、造詣が深いように(シングルモルトのスコッチウィスキー)、違いがわかるように(スターバックスのエスプレッソ)、道徳意識が高いように(ボディショップの化粧品)、または単に金持ちなように(ルイ・ヴィトンのバッグ)見せることで。
(p.121)

(前回記事より何度も名前を出して申し訳ないですが、わかりやすいので)ブルーボトルコーヒーを飲むのがかっこいいのは、それをしている人がまだ“少数派”だからでしょう。でも、そこには大きな市場が生まれてしまいます。だれもが胸のなかに思う“イケてる人になりたい”という願いが、様々なものの消費基準を徐々に上げていくわけです。本書に出てくるたとえを使うなら、まるで隣の家の騒音をかき消すために、自分の家のステレオのボリュームを上げるようなもの。すべては、「隣人より抜き出たい」というその欲望のもとに行なわれます。

ショッピングモールのなかのヴィレッジ・ヴァンガード

ここからは本の話をはなれて個人的な雑記になりますが、上記の内容をまさに体現しているのが、あのヴィレッジ・ヴァンガードだなあと思うんですよね。ヴィレヴァンといえば私のようなサブカルクソ野郎にとっては付き合いの長い書店ですが、私がヴィレヴァンに初めて出会ったのって、中学生のときだったんですよね。年でいうと、2001年頃だと思います。ヴィレヴァンの設立が1998年くらいのようなので、この頃はまだまだ珍しく、私自身が若かったこともあるのでしょうが、先鋭的な書店であったと記憶しています。

神奈川県の片田舎(本当に片田舎)に奇跡的にオープンしていたその書店は、ちょっと入りづらくて、でも好奇心を満たす本や漫画にあふれていて、田舎のちょっと自意識過剰な中高生を満足させるには、十分な存在でした。クラスメイトがまだ読んでいない本と漫画が、そこにはたくさんあったわけですね(実際にはみんな読んでいたのかもしれないけど)。私は“イケてる人”になりたかったし、“少数派”になりたかったし、またすでにそうであると思っていました。だからこの書店に足繁く通い、自分は特別であるという幻想を買い求めたわけです。

だけどいつ頃からだったのでしょう、ヴィレヴァンが地方都市の大型ショッピングモールの一店舗として入っているのを、頻繁に見かけるようになったのは。私が大学生になり、院生になり、社会人になり、年をとったというのもあるでしょうが、どんどん拡大し店舗を増やしていくヴィレヴァンを見ながら、もうここで幻想は買えないのだ、と私は“少数派”であることを静かに諦めました。

で、この前実家に帰ったとき、久々にかつて足繁く通ったヴィレヴァンを冷やかそうかとお店の前まで行ったら、なんと潰れちゃってたんですよね。私のヴィレッジ・ヴァンガードは、ショッピングモールに入っているあの大きな書店ではなくて、この片田舎にある、ひっそりとした小さな小さな本屋だったのに、それはもうなくなってしまいました。

さあこれで本当に幻想は買えなくなったぞと、私は自分が凡人であることに向き合わざるを得なくなったわけですが、感傷的な話を抜きにしても、これはなかなか象徴的な事象であるように思えます。先鋭的な存在として出現したものに人々が殺到し、大きな市場が生まれ、一般的で身近な存在として拡張していき、やがて“少数派”であることをやめざるを得なくなり、「ダサく」なって、消えていく。ヴィレヴァン自体はまだまだ元気みたいですが、私にとってのヴィレヴァンは潰れてしまったあのヴィレヴァン以外なかったわけで、なぜあの店舗がなくなってしまったのかというと、きっと「どこにでもある」存在になってしまったかつての先鋭的な書店は、片田舎の自意識過剰な中高生を満たすことができなくなってしまったのでしょう。

ヴィレッジ・ヴァンガードという書店は、『反逆の神話』の話をする際にわかりやすい、優れた事例であるように私には思えるのです。

シンプルなテストで正体を暴け

“イケてる人”になりたいという欲望は、嫌味ないい方をすれば、「隣人を出し抜きたい」ということとほぼイコールです。だれもがイケてる人になりたいけれど、残念ながら全員がイケてる人にはなれません。全員が“少数派”になることなんて、不可能だからです。あなたが今注目しているものは、隣の人だって注目しているのが普通です。全員参加のラットレースです。

だから、この不毛な競争から抜け出そう――という話ができたらいいのかもしれませんが、抜け出したその先にまた人々が殺到して、押すな押すなの大乱闘になり、結局そこがまた新たな市場になったりして。本書を読んで考えも、この消費競争から抜け出す画期的な策は、現状ないように思えます。

だからまあ、「わかっていつつも諦める」という消極的なことしか私たちにはできないのかなあ、なんて思います。“イケてる人”になりたいけど、でもなれない、という矛盾を社会に生きる全員がよく理解しておくことしかできないのかなと。

だけど、それでも不毛“すぎる”消費競争から、気分だけでも抜け出したい、ちょっとだけでも息抜きをしたい、という方は、本書にある「シンプルなテスト」にそれが合格できるかどうか、試してみてはいかがでしょう。「シンプルなテスト」とは、「みんながそれをしたらどうなるか――世界はもっと住みよい場所になるのか?」と問いかけてみることです。もし答えがノーなら、それは疑ってかかるべき理由があるということです。

私はコーヒー豆の流通とか詳しくないのでこの辺の話はちゃんとできないのですが、たとえばわかりやすくいうなら、「全員がサードウェーブコーヒーを飲みだしたらどうなるか?」という問題を思考実験として一度考えてみてもいいと思うし、ブルーボトルコーヒーが地方の大型ショッピングモールに入っているところ(スターバックスヴィレッジ・ヴァンガードのように)」を想像してみるのはけっこう価値があることだと思うんですよね。それでも尚、人々を豊かにする何かがあるのなら、それはいずれ「流行」や「カルチャー」であることをやめ、「伝統」として、私たちの生活の一部として根付いていくでしょう。


「“イケてる人”になりたい」という願いは、一種の現代病だと私は思います。たぶんですけど、産業革命以前は、こんなこと考えている人いなかったんじゃないかな……そもそも(私がこのブログで使った意味での)「隣人」という概念が希薄だったと思うんですよね。


それでも、“イケてる人”になりたいですよね、私も、あなたも。我々は、現代人であることをやめられません。