読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

チェコ好きの日記

旅 読書 アート いいものいっぱい 毎日楽しい

星に願いを託すより

管理人やブログについて 南米

Twitterのほうを見てくれている人は知っているかもしれないけれど、現在noteの有料月額マガジン「もとくらの深夜枠」にて、【クレイジーJAPAN】という連載をやらせてもらっている。テーマは「文化人類学*1なのだけど、映画『君の名は。』の話をしてみたり、元汚部屋住人さんを取材してみたりと、我ながら「何がやりたいんだ?」感が満載の連載である。自由にやらせてくれている深夜枠編集長・くいしんさん(@Quishin)には、感謝しかない。

note.mu

そんな状況なのだが、しかしあくまで「文化人類学」がテーマと言い張りたいのであれば、この人物に触れないわけにはいかないだろう。というわけで、今回は【クレイジーJAPAN】の宣伝をかねて、レヴィ=ストロースの話を少ししてみようと思う。

インセスト・タブーと『親族の基本構造』

レヴィ=ストロースとはご存知のとおり、構造主義というやつを打ち立てたフランスの文化人類学者だ。しかし、レヴィちゃんの本は高くてあまり買う気にならないし、そもそも構造主義というやつは難しすぎて私もよくわからない。

そんなレヴィ=ストロース、おそらく有名なのは「インセスト・タブー」の話である。インセスト・タブーとは、日本語にすると「近親相姦の禁止」だ。自分の父や母や兄弟姉妹、あるいは子供と、性的な関係を持ってはいけない。これは世界中のだれもが共有している常識であり、その理由は「遺伝子的に問題のある子供が生まれる可能性が高いから」ということになっている。もちろん、理由のほうも常識だ。

しかし、この「性的な関係を持ってはいけない」とされている相手が、実は民族によって異なるらしい。

たとえば現代の日本では、イトコなら結婚OK=性的な関係を持つことが許されている。だけど、「父方のイトコは結婚禁止だけど母方のイトコならOK」みたいな、遺伝的な問題の話から考えるとわけのわからない慣習を持っている民族が、世界中のあちこちにいる。さらに、父母兄弟姉妹イトコにとどまらず、かなり広い範囲で血族との結婚を禁止している民族もいるらしい。

もし遺伝の問題のみを考えるなら、こういったバラつきが出るのはおかしい。遺伝の問題は依然あるとして、遺伝以外にも何か目的があるのではないか、とレヴィ=ストロースは考えた。そしてこのインセスト・タブーに関する考察を、『親族の基本構造』という本にまとめあげる。


『親族の基本構造』は、Amazonで一万円以上するバカなんじゃねえかと思うくらい高い本なのだけど、それはいいとして、この本はインセスト・タブーの真の目的を、「女性の交換」にあると結論づける。

たとえば、私たちは貨幣を用いてモノとモノを交換しているけれど、貨幣によるモノの交換は、人間の生存のための絶対条件ではない。今となってはもはや非現実的だけど、大昔は狩りや採集によって、あるいは農業によって、自給自足で生き延びることは十分可能だった。同じように、父母兄弟姉妹など最低限の血族結婚さえ避ければ、ただ生存するためだけならば、それでもかまわないはずなのだ。なのに、なぜ遺伝子的には無意味ともいえる範囲までインセスト・タブーを拡大し、私たちの祖先は「女性の交換」をしなければならなかったのか。

実はこれには、答えがない。「◯◯のために必要だったから」という、ありがちな考え方で女性やモノの「交換」の起源を考えることはできない。必要だから「交換」するのではなく、「交換」するから人間なのだ──と、レヴィ=ストロースは考える。そして、彼はこの話を「コミュニケーションの一般理論」というやつに発展させていく。いわく、人間は3つの水準によりコミュニケーションを行なっていて、その3つとは、財貨(経済活動)、メッセージ(言語活動)、女性(親族制度)である。

たとえば、ある男性が、妻が欲しいと思ったとする。すると、自分の母親や姉妹はもちろん、民族によってはイトコも妻として迎えることはできない。となると、どこか遠くから親族ではない女性に来てもらって、彼女に妻になってもらうしかない。そしてその妻との間にできた自分の子供も、のちに自分の新しい妻として迎えるなんてことは当然できないので、どこか知らない別の男性のところへ嫁に行ってもらうしかない。

ここから導き出せる考え方は、「自分が欲しいものは、他者から受け取り、また他者に与えなければならない」ということだ。

星に願いを託すより

と、ここでやっと今日のタイトルに結びつく。

今、私たちが欲しいものはなんだろうか。お金かもしれないし、愛かもしれないし、はたまた今はやりの「承認」かもしれない。だけど、何かに飢えている自分を見つけたら、思い出したいのは「自分が欲しいものは、他者から受け取り、また他者に与えなければならない」というレヴィ=ストロースがとなえたコミュニケーションの一般理論である。お金も、愛も、承認も、考えてみれば確かに、他者から与えられなければ手に入らない。しかしそれ以上に大切なのは、自分が受け取ったそれをまた別の他者に与え、循環させなければいけないということなのだ。なんでかは知らないけど、とにかくそうなっているらしい。逆にいうと、自分が他者に与えられないものは欲しがってはいけないとも考えられそうである。欲しがってはいけないというか、欲しいと願っても不毛なだけだ。

もし何かが欲しいと願うならば、まずは自分が、それを他者に与えることができるか・与えているかを考えたほうが早い。星に願っても不毛なだけだ。スピリチュアルな言説って大っ嫌いなのだけど、自分の実感としても、世の中に憎しみを投げると憎しみが自分に返ってくるし、世の中に愛をふりまくと愛が自分に返ってくる。ところで愛といえば、私は久里洋二の「Ai」という短編アニメが好きなのだけど、「愛」というとあのアニメの「あい……あい? あい……あい! あい……」という奇妙なセリフしか連想することができない。お暇な方はYouTubeなどで検索してみてほしい。

最後に。レヴィちゃんの本はおしなべてバカなんじゃねえかと思う値段なのだけど、『悲しき熱帯』は比較的手に入れやすいし文章自体も読みやすい。「私は旅や探検家が嫌いだ」という一文から始まる魅惑的な旅行記である。あとこのエントリは宣伝なので、連載【クレイジーJAPAN】をよろしくお願いします。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

*1:ところで、昨今この「文化人類学」って聞く機会が増えた気がする。一種の流行りなのだろうか

「できる」と「できない」の間の話

読書

Twitterで教えてくれた人がいたので、高橋秀実さんのエッセイ『はい、泳げません』を読んでみた。著者の秀実さんはカナヅチで、水が怖くてまったく泳げないのだけど、そんな秀実さんが中年になって一念発起し、スイミングスクールに通い出すというエッセイである。

はい、泳げません

はい、泳げません

が、「水泳とか興味ねーよ」という人がこのブログを読んでいる人の大半だろう。私も正直、水泳そのものにはほとんど興味がない。でも、この『はい、泳げません』という本はべらぼうに面白かった。私一人が面白いといってもきっと説得力がないので、単行本当時の帯を書いた村上春樹の言葉をここに引用しよう。

「変てこな、人の足をひっぱるような『ハウ・トゥー』本(なのか?)が、いったい世の中のどんな役に立つのか、僕には今ひとつよくわからないのだけど、まあそれはともかく、無類に面白い本です」。

そう、これはれっきとした「ハウ・トゥー」本である。ただし何のハウ・トゥーかというと、決して水泳のハウ・トゥーが書いてあるわけではない。これを読んでもたぶん泳げるようにはならない。では何のハウ・トゥーかというと、もっと広義の、今自分が「できない」あることに対して、どのように考え取り組んでいくのが正しいのか? ということ、いってみれば思考そのもののハウ・トゥーが書いてあるのだ。

どうして私は「できない」んだろう?

世の中のあらゆることには、「できる」人と「できない」人がいる。自転車に乗れる人乗れない人、泳げる人泳げない人、英語がしゃべれる人しゃべれない人、もっと複雑になると、仕事ができる人できない人、納得のいく恋愛ができる人できない人。自分がすべてにおいて「できる」側だなんて人はまずいないだろうし、反対に、自分はすべて「できない」側だという人もいないはずだ。

で、「できない」けれどあることが「できる」ようになりたい場合、練習というか鍛錬を積むことになる。あまり苦もなくすぐ「できない」から「できる」に変わるものもあるけれど、「できない」ままの状態がずっと続き、苦しむものも種類によってはある。たとえば、私は小1の頃自転車に乗る練習をし始めてわりとすぐに乗れるようになったけど、一輪車は苦手でどんなに練習しても上手くいかず、結局今もまだ一輪車には乗れないままだ。

自転車にわりとすぐに乗れるようになった人は、自転車になかなか乗れるようにならない人の気持ちはわからない。同じように、泳げる人には、泳げない人の気持ちはわからない。そんなことを示すように、『はい、泳げません』の冒頭は、「泳げる人」へ向けた秀実さんの恨み節が延々と書いてある。プールで泳いでいて人を抜く場合、挨拶があってもいいのではないかとか、泳げる人は自分さえよければそれでいいと思っているとか、泳げる人は人間として何かが欠けているとか、ゴーグルをつけた顔が怖いとか、何においてもとにかく無性に腹が立つとか、もうあまりにも卑屈というかほとんど言いがかりである。だからこの恨み節の冒頭は笑い所なのだけど(ゴーグルの顔が怖いって何だよ)、しかしまあ自分が「できない」ままの状態に長くとどまっている場合、「この世のすべてが憎い!!!」みたいな心境になることはある。私も一輪車の練習をしていた小1〜小2時代、自分の前をスイスイ通り過ぎていく同級生を見て、「こいつ頭がおかしいんじゃないか?」とよく思っていた。

しかし、泳げる人の悪口ばかり言っていても始まらないので、秀実さんはとりあえずプールの水に浸かる。が、水がとても怖い。水泳の本を読んで「水に慣れよう」「水に親しもう」「人間の体は水に浮くようにできているから大丈夫」などと書いてあっても、それを全部承知の上で怖いのだ、と反論する堂々巡りがしばらく続く。

「できる」人から見た「できない」人

この本の面白いところは、そんな卑屈なカナヅチ秀実さんと、スイミングスクールのコーチである桂さんの、往復書簡になっていることである。秀実さんの体験談が続いたあと、それを読んだ桂コーチのフィードバックが入る。そして、この「できる」人と「できない」人の認識のズレ、みたいなのがとても興味深い。通常、スイミングスクールで水泳を習っていても、その途中の心境を文章にして残すことなんてほとんどないだろう。また、それを読んだコーチ側が、文章でフィードバックを返してくれることなんてもっとない。「できる」人と「できない」人の間にはズレみたいなのが当然あるはずなのだけど、それが言語化・可視化されると、ここがこんなふうにズレてたんだ、みたいなのがわかって面白いのだ。

冒頭の卑屈な秀実さんに対して、桂コーチは「泳いでる人がプールで抜かすときに挨拶しないのは当たり前でしょうが、泳いでるんだから」とごもっともなことを返す。だけど、「それにしても、水がこんなにもこわかったのですね」とも書く。この桂コーチのパートはちょっとした答え合わせにもなっていて、ここの認識がおかしいから変えればいいんだとか、ここの考え方は普通だし合ってたとか、「できる」側は「できない」側の世界を、「できない」側は「できる」側の世界を、想像するためのヒントになっている。

あとは、単純な言った言わない論争みたいなのも「あるある」なのだけど、読んでいると面白い(というか笑える)。桂コーチはあのときこう言った、いやこうは言ってない、桂コーチはあのときこう言った、いやそれはそうじゃなくてこういうニュアンスで言ったんだ、桂コーチは言ってることがコロコロ変わる、いや秀実さんの段階に合わせてあえて変えてるんですよ、いや混乱するから変えないでくださいよ、などなど、もうホントに細かいのだけど、人間同士だとこういうことってまじでよくある。

みんな苦しかった

なんとか水に顔を浸けることには慣れた秀実さん、しかしなかなか泳げるようにならない。息継ぎができないのである。息継ぎができなくて、苦しいので、25mを泳ぎ切ることができずプールの途中で立ってしまうのだ。

すると桂コーチ、同じ水泳クラスの生徒さんたちに問いかける。

「鈴木さん、泳いでいて苦しいですか?」
「そりゃあ、苦しいですよ」
「山本さんは?」
「苦しいわよ。決まってるじゃない」
「中村さんは?」
「苦しいわ」

秀実さんは、ここで「うそ?」と驚く。自分以外は苦しくなくて、苦しくないから25mを泳ぎ切れるんだと思っていたらしい。しかし、実はみんな苦しくて、苦しいのを我慢していた。桂コーチは、驚く秀実さんに「我慢すれば息継ぎしなくても25mはいける」と説く。

しかしそうは言っても、苦しいものは苦しい。苦しいのは恐怖である。我慢すればいけると説かれても、はいわかりましたとすぐに25mいけるわけではない。が、桂コーチは「呼吸しにここに来てるんですか? 泳ぎに来てるんですよね。じゃあ泳いでください」とスパルタである。読んでるこっちが泣きそう。秀実さんも完全にビビっている。が、そう言われては仕方ないので、秀実さんは泳いでは途中で立ち怒られ、泳いでは途中で立ち怒られ、を繰り返すうちに、だんだんと25mはいけるようになってくる。しかし、「なんで立つの!」と怒り狂う桂コーチ、プールの真ん中で立ち尽くしシュンとする秀実さん、怖いのとかわいそうなのと面白いのとで、この本のいちばんの盛り上がり所である(たぶん)。

どうすれば「できる」ようになるのか

ネタバレご法度かもしれないが、結論からいうと、秀実さんは最終的に泳げる人になる。「できない」世界から「できる」世界へ、見事な飛翔を遂げる──といいたいところだが、泳げるようにはなるものの、泳げるようになっても秀実さんは未だにグジグジウジウジしている。巻末に秀実さんと桂コーチと小澤征良さん*1の鼎談があるのだけど、そこでもまだ「水が怖い」「プールに行きたくない」「泳ぎたくない」「泳げない(泳げるのに)」などと言っている。

せっかく泳げるようになったのに何でこんなに卑屈なんだ……と人によっては疑問に思うかもしれないけれど、しかしこれこそがリアルな「できる」人の世界なのだろう。水中では息が吸えなくて、それが苦しいのは泳げるようになっても変わらないのだ。各々の「できる」ことと「できない」ことを思い出してみると、心当たりがあるはずだ。

何かが「できる」ようになるためにはどうすればいいのか? となると、究極な話、「できるまで頑張る」しか道はない。しかし、できるまで頑張れないことが多いから、できるようにならない。では、「できるまで頑張る」にはどうすればいいのか、どうすれば諦めずにいられるのかというと、秀実さんみたいにエッセイのネタにするとか、ブログに書くとか、人に話すとかして、できない状況そのものを「面白がる」しかない。福音なのは、できないままでもイヤイヤでも真面目に続けていると、意外とまわりの人が世話を焼いてくれるということである。

もう一つは、「できる」人の世界を、なるべくリアルに想像することである。そして、この本はそんなリアルな「できる」人の世界を想像するのに、とても役立つ。泳げる人でも、水は怖いし息は苦しいし、プールには行きたくないのだ。

というわけで、この本はとても面白い。何かが「できない」ことで悩んでいるすべての人に、読んでみてほしいと思う。1日で読めるが、笑っちゃうので電車などで読む際は注意が必要だ。

最後に、このエッセイは以前紹介した高野秀行さんの『腰痛探検家』の続編として読むと、理解が深まる。『腰痛探検家』は「解決したい悩みがあるけどどうしたらいいかわからない」人へ、『はい、泳げません』は「どうしたらいいのかはなんとなくわかるんだけどできない」人へ、贈りたいエッセイである。どちらも、読み物として一級品であることを私が保証する。
aniram-czech.hatenablog.com

*1:指揮者の小澤征爾さんの娘。桂コーチの生徒だったらしい