チェコ好きの日記

だいたい木曜日の22時に更新されるブログ※9月までお休みします※

思い出を愛しているの?

1. 「誰」を愛しているの?

数年前、恋人と一緒に見たとあるテレビ番組のことを、よく覚えている。


番組の特集は「認知症」で、画面に映っていた高齢のご夫婦は、旦那さんのほうがほぼ寝たきりで、おまけに認知症を患っていた。奥さんは、その介護をしているとのことだった。老老介護というやつである。


旦那さんは、どうやら奥さんのことを忘れてしまっているらしい。いつも世話をしてくれている女性は、自分の妻ではなく、お手伝いさんだと思っているとのこと。「この人は何にも覚えてない」と奥さんは笑っていたが、何十年も一緒に暮らした記憶がなかったことになっているのだから、つらくないはずはなく、その笑みの奥には何かしらを押し殺した感情があるように見えた。


ある日、奥さんが旦那さんのベッドの脇で泣いている映像が映し出される。何があったのかと話を聞くと、「プロポーズされた」とのこと。旦那さんの中で、「奥さん」という存在は曖昧になっている。だから、旦那さんの中では、もちろん自分の妻ではなく、「いつも優しくしてくれるお手伝いさん」に、結婚を申し込んだのだ。自分の大切な夫が自分を忘れてしまっていること、でも妻ではない「お手伝いさん」としての自分を、もう一度好きになってくれたこと。それは悲しいことなのか、嬉しいことなのか、つらいことなのか、幸せなことなのか。


……私がテレビを見てガチ泣きしていたら「辛気くせえ〜〜! 俺はこういう湿っぽいのは嫌いなんだよ〜〜〜!」と言われ恋人に途中でチャンネルを変えられてしまったが(ひどい)、この手の〈記憶〉にまつわる話って私はけっこう好きで、何年か経ったあとでもこうして覚えているわけである。


この場合、旦那さんが好きになったのは、「妻」なのか「お手伝いさん」なのか、あるいはそのどちらでもないのか。私はそもそも認知症のことをよく知らないし、脳のこともよくわからない。ただ、人が誰かを愛するとき、本当は何のことを、いつのことを、愛していると言っているのかな。そういうことを、私はよく考え込んでしまう。

2.「思い出」を愛しているの?

さて、なぜ今さらそんな数年前のテレビの話をしたのかというと、最近スタニスワフ・レムの『ソラリス』を読んだからである。



主人公は、クリス・ケルヴィンという心理学者。このクリスが、惑星ソラリスの観測ステーションに到着するところから物語は始まる。ところがこの観測ステーション、どうも様子がおかしい。クリスの前に、ステーションにはすでにスナウト、サルトリウス、ギバリャンの三人が到着しているはずだったのだが、ギバリャンはステーション内で自殺してしまったと、スナウトから告げられる。


惑星ソラリスに広がる「海」は、訪れる人間の抑圧された願望を、実体化して作り出す。


ある日を境に、クリスはハリーという女性をステーションの中で見かけるようになる。ハリーはクリスの恋人だったのだが、何年か前、大喧嘩をしてクリスが家を出ていったあと、家にあった薬物を自身に注射して自殺してしまった。もちろん、ステーションにいるのは恋人だった本物のハリーではなく、「海」が作り出したハリボテだ。同様に、スナウトはスナウトの望むものを、サルトリウスはサルトリウスの望むものを、実体化させてしまっている。「海」は抑圧されたトラウマや願望を実体化し、ステーションには、本来いるはずのない者たちがさまよっている。


本来いるはずのない者──「幽体F」は、ステーションにいる人間の抑圧された願望を実体化したもの。クリスは学者としてそれを理解しながらも、いつしかハリボテのハリーを愛するようになってしまう。そして、高度な知能を持つハリボテのハリーは、クリスが愛しているのは自分ではなく、自分にとてもよく似た、彼の自殺した恋人なのだと徐々に知るようになる。

「ねえ……」と、彼女は言った。「もう一つ聞きたいことがあるの。わたし……そのひとに……とてもよく似ているの?」
「前は似ていた」と、私が言った。「でもいまはもう、わからない」
「どういうこと……?」
彼女は床から立ち上がり、大きな目で私を見つめた。
「きみにさえぎられて、もう彼女の姿が見えなくなってしまった」
「それで、あなたは自信を持って言えるの、そのひとじゃなくて、わたしを、わたしだけを……?」
「そう、きみだけだよ。いや、よくわからない。でも、もしきみが実際に彼女だったら、きみを愛することはできないんじゃないかと思う」
「どうして?」
「ひどいことをしてしまったから」


ハリボテのハリーは、自殺してしまったかつての恋人ではなく、今ここにいる自分自身を愛してほしいと望む。そしてクリスも、自分が愛しているのは自殺した本物のハリーではなく、今ここにいる「幽体F」であると思うようになる。「海」が作り出したハリーは、あくまでクリスの抑圧された願望を実体化させたものだから、生前のハリーとまったく同じというわけにはいかない。クリスは自殺した恋人のハリーと、今目の前にいる「幽体F」を、だんだん分けて考えるようになる。


しかし、幽体Fとしてのハリー……〈新しい恋人〉と新しい生活を始めようとするクリスを、同僚のスナウトは止める。ステーションを出てしまえば、「海」が実体化させた存在に過ぎない幽体Fは、消滅してしまうからだ。

「ぼくは……彼女を愛しているんだ」
「誰を? 自分の思い出をじゃないのか」


このあと物語がどうなるかは書かないでおくが、『ソラリス』はそんなわけで、めちゃくちゃ多様な解釈が可能な小説である。まず、「海」とは何なのか? というSFであり、同時にクリスとハリーの恋愛物語でもある。ただもちろん、一筋縄ではいかない恋愛だ。クリスが愛しているのは、「誰」なのか。


思考実験としては面白いけど、所詮はSFでしょ──と思った人は、冒頭でした、認知症の夫を老老介護している奥さんの話を思い出してほしい。私は「誰」を愛しているのか? 私のことを愛していると言っているこの人は、私に何を見ているのか? これは、幻想を押し付けてる! とか、この人は私を愛していない! とか、そんな表面的な話ではなくて、人の記憶とは何なのか、人の存在とは何なのかという、かなり多義的な問いだ。

3.「いつ」を生きている?


最後にもう一つ、認知症の話をしよう。今年の2月に読んだ記事でとても印象に残っているものがあるんだけど、これ、私の2018年ベストウェブ記事の可能性があるな……!


toyokeizai.net


詳しくはリンク先から読んでもらうとして、要約すると、認知症になった自分の母が、毎日16時に徘徊をするので困りはてていたと息子さんが介護の体験談を語っている。ただ伯父に話を聞くと、なぜ母が毎日16時に徘徊に出るのか、その理由がわかる。母は、幼い自分が幼稚園のバスに乗って帰ってくるのを、毎日16時に迎えに行っていたのである。


これもまた、私は認知症のことも脳のことも詳しくないので何とも言えない部分があるのだけど、認知症になった人が固執する過去にはどんな意味があるのだろう。自分の人生において、いちばん幸せだった時期を再現しているのか。あるいは、やり残したこと、心残りなことがあった時期に戻ろうとするのか。人間の中で、〈記憶〉ってどうなっているんだろう。


しかし現実的な話をすると、記事にあるように「介護のために親の人生を理解する必要がある」とはいえ、自分の親の元カレ・元カノの話なんか聞きたくねえなと私は思ってしまうんだけど……親側としても、自分の元カレ・元カノの話なんか子供にしたくねえよと思うのではないだろうか。まあしかし、それはそれ、これはこれだ。


私たちは、「今」を生きている。自信満々な人ほど、そう言う。


いやいや私だってね、過去の話しか出てこない同窓会なんかに興味はないし、今のところ人生で後悔していることって、「大学のときもうちょい頑張って英語勉強すればよかったな〜」とかそのくらいだ。私は、「今」を生きている。自信満々だ。


でも「今」というのはたくさんの「過去」から成り立っているわけで、過去のたくさんの出来事や経験なしに今は語れない。過去から完全に独立した今なんてない。過去から独立した今なんて、それこそ、「海」が作り出すハリボテになってしまう。


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なるべく避けたい事態ではあるけれど、いつか自分が、自分の大切な人が、認知症か何かで、「今」のことを忘れてしまったら。


私は、あなたは、いつのことを思い出すんだろう。いつのことを忘れ、いつに戻りたいと願うのだろう。こればっかりは、蓋を開けてみないとわからないよね。私は「今」を生きているつもりバリバリなんだけど、これは、ちょっとわからないわ。


いつか思い出すときの「もっとも幸せな時期」が、「今」だったらいいな……なんて私はよく思うのだけど、その「今」はこの一瞬にだって刻々と移り変わっていってしまうんだから、やっぱりどうしたって矛盾しているよね。


(※小説版『ソラリス』はボリュームがあってなかなか骨が折れるので、もっとお手軽にストーリーのポイントをつかみた〜い! という人はこちらをドウゾ)
惑星ソラリス [DVD]

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タルコフスキーによる映画版『惑星ソラリス』。この映画もめちゃくちゃ好きなんだけど、タルコフスキーは恋愛の話をクローズアップしすぎたので、原作者のレム、ブチ切れ。レム的には『ソラリス』は多様な解釈を孕んだ、あくまでSF小説なんだな)


aniram-czech.hatenablog.com
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