チェコ好きの日記

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『万引き家族』の謎と(私の)解釈

是枝裕和監督の『万引き家族』を観てきた。第一印象として適切かどうかはわからないが、「なんだか〈謎〉の多い作品だなあ」と、まずは思った。もちろんこの〈謎〉は、是枝監督が意図的に残したものだろうと思う。


しかし、これを書く前にすでにいろいろな人の感想や評を読んだのだけど、私が抱いた〈謎〉に言及しているものがなかった……。ので、もしかしたら私が変な部分に固執しているだけかもしれない。


(※以下は『万引き家族』のネタバレを含む感想なので「もう観た!」という人や「ネタバレ気にしない!」という人以外は注意して読んでほしい)



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祥太の行動の謎

「謎だ!」と思った点はいくつかあるのだけど、今回の感想ではそのうちの一つを取り上げてみたいと思う。


樹木希林リリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優、城桧吏と佐々木みゆが演じる6人は、「家族」として、狭い長屋に一緒に住んでいる。冒頭のスーパーでの万引きシーン、カップラーメンを6人ですすっているところ、長屋が細々としたモノであふれているところなどから、彼らがかなり貧しい状況にある家族だということはわかる。しかし物語が進むにつれ、彼らは貧しいだけではなく、そもそも血の繋がりがない家族であるということが明らかになってくる。


ラストに近いシーンで、そんな「家族」の一人である祥太(城桧吏)が、スーパーで、あえて見つかるような派手な万引きをする。その結果、家で亡くなった樹木希林を年金をもらい続けるために無断で庭に埋めていたり、もともとの両親に虐待されていたじゅり(佐々木みゆ)を誘拐していたことなどが明るみに出てしまい、安藤サクラが演じる信代は逮捕され、他の家族もバラバラになってしまう。万引きや誘拐や死体遺棄などの犯罪によって繋がっていた家族は公的な場に引きずり出され、次々に警察や世間の「正論」をぶつけられる。


私が「?」と思ったのは、祥太はなぜ、「あえて見つかるような」派手な万引きをしたのかなー、ということだ。もちろんこれについては、何か一つの正解があるわけではないと思うので、以下はあくまで私の解釈だけど……。


まず、物語内の解釈。祥太という一人の男の子が、なぜ「あえて見つかるような」万引きをしたのかについて。これは普通に考えれば想像に難くないと思うのだけど、彼は幼心に「これ以上進むとヤバイな」ということを感じ取っていたのだろう。


じゅりが行方不明になったことはすでに報道されているし、樹木希林が演じるおばあちゃんを庭に埋めるのも怪しい。そして何より、今まで「お店で売っているものはまだ誰のものでもないから」という謎理論のもと万引きを繰り返していたリリー・フランキーが、ついに車上荒らしに手を出すようになってしまった。謎理論は確かに謎理論ではあるが、「万引きはOK、人のものを盗むのはダメ」というのは一応、筋は通っている。その筋を通さなくなった血の繋がらない父に対し、祥太はたぶん「これ以上進むとヤバイな」と判断したのだろうと思う。


次に、物語外のメタレベルの解釈。映画として、ラストは「犯罪によって繋がる(世間的には)間違った家族」と「正論を振りかざす世間」が対立しなければならないので、家族の犯罪が明るみに出て安藤サクラ演じる信代がその罪を被る展開になるのはわかる。だけど、なぜそれが「祥太の手によって」行われなければならなかったのかなー、というのが私としてはちょっと謎だった。


信代の職場の人がじゅりのことを周囲に言いふらすとかして、外部の人間によって家族が解体される展開もありえたはず。それなのに、なぜ家族の解体は、「祥太」によって、内部の人間によって行われなければならなかったのか。これについては私もまだ考え中なので、ぜひいろいろな人のアイディアを聞きたいのだけど……。


ちなみに私としては、是枝監督に文句をいうわけじゃないが、内部による解体より外部による解体のほうが物語としてスッキリいきません!? とかもちょっと思う。内部による解体だと、「彼らは持続可能性のない間違った家族であった」という面を強調してしまう気がするんだよね。でも外部による解体だと、「彼らは持続可能性のない間違った家族ではあったが、しかし彼らは彼らなりに幸せだった」って話にできると思うんだよな〜〜。ブツブツ。私が細かいところにこだわりすぎなのか!?

まとめ 内部解体vs外部解体

ということで、上の文章まで書いて15分ほど時間を置きシンキングタイムを挟んだのですが、結論、「わからねえ」。オチがなくてすみません。え、これ外部解体のほうがよくない? 内部解体の展開にしたの間違ってない? というのが私の解釈ですかね(解釈してねえ)。


ああ、でもそうか。一つ答えとしては、これはあくまで「家族」の物語なのだ。たとえ血は繋がっていなくても、世間的に間違っていたとしても。


「家族」はいつかバラバラになる。それは、『万引き家族』のような血の繋がらない家族も、戸籍によって守られている一般的な家族でも同じだ。そして、家族の解体はいつも子供たちによって行われる。一般的な家族であれば多くの場合、それは子供たちが結婚や独立によって、家を出ていくことによって起こる。子供はいつか必ず、親を乗り越えていくものなのだ。


万引き家族』では、その解体は祥太によって行われる。祥太は父の行動に疑問を持ち、家族の犯罪を明るみに出す。しかしその解体行為によって、祥太は父を乗り越えたのだ。ちょっと皮肉めいているが、この祥太による解体行為こそが、この家族を本当の意味で家族たらしめたということなのかもしれない。


万引き家族』は家族の物語だが、その中でも特別に、「父と息子の物語」でもあるのだろう。そうすると、リリー・フランキーが祥太の性の目覚めに言及するシーンも、ラストシーンも、納得がいく。祥太は、大人になって、一人の男として、父を越えていく。


アレ、じゃあやっぱり内部解体でいいのかな!? いい気がしてきた。みなさん、どう思います??

万引き家族【映画小説化作品】

万引き家族【映画小説化作品】