チェコ好きの日記

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感想文:中島らも『水に似た感情』とバリ島

バリ島を舞台にした小説やエッセイをいくつか読んでいます。昔読んだ吉本ばななの『マリカのソファー/バリ夢日記 (幻冬舎文庫―世界の旅)』はもう一度目を通してもやっぱりけっこういい小説だなと思ったし、あとは椎名誠のエッセイ『あやしい探検隊 バリ島横恋慕 (角川文庫)』なども面白かった。今回は、そうした中でいちばん気に入った中島らもの『水に似た感情』の感想を書きます。

水に似た感情 (集英社文庫)

水に似た感情 (集英社文庫)

マジックマシュルームの島、躁鬱と多重人格

けっこう前に宮田珠己さんの『旅の理不尽 アジア悶絶編 (ちくま文庫)』って本を読んだのですが、バリ島編の中で、あの幻覚成分を含むマジックマシュルームを体験した話が出てきます。そして何と、この『水に似た感情』の中にもマジックマシュルームが出てくる。というわけで私の中ではすっかり「バリ島=マジックマシュルームの島」ということになってしまったのですが、この認識はもちろん間違っているので、鵜呑みにしないでください。

『水に似た感情』では、人気作家の主人公モンクが、ミュージシャンの仲間たちと一緒にテレビの取材を行なうためバリ島を訪れます。それで、なんだかんだと仕事をして一時帰国、だけどモンクの躁病が悪化してしまい、彼は友人とともに再びバリを訪れることになります。まあ話の筋としてはそれだけなので、何か大掛かりなしかけがある物語ではありません。主人公のモンクは躁鬱病なのですが、彼の感情の波とともに、バリ島の景色がゆらゆら揺れます。

そういえば吉本ばななの『マリカのソファー』でバリ島を訪れる主人公のマリカは解離性同一障害(多重人格)を患っていましたが、バリ島が躁鬱病や解離性同一障害と結びつけて語られるのは、なんとなくわかる気がしました。

「大きいものから、小さいものまで。あれ、今のなにかな? っていうものから、うわあ、でかいものがやってくる、っていうものまで。空気が生きているから、地面が力を持っているから、いやすいんだろうね。
 それに、すごく気持ちのいい存在もいる。山のほうから来る。上品で、きれいで、強くて、かわいくて、すごいやつ。大好きななにか。犬みたいな心の、美しい何か。すごく、すごく昔からいるもの。いちばん大きい椰子の木よりも古いもの。
 それから、おそろしいもの。海のほうから来る。マリカの親みたいな、でたらめなやつ。でもいる。時々気配を感じる。ぞっとするような感じ。大きくて、大切に思っていることや、ゆずりたくないことをなにもかもちっぽけなことに思わせてしまう、やっぱり昔からいるもの。
 どっちがいいとか、悪いとかではなくて、ただそういう両方の味があるというか、そういうもの。」

マリカのソファー/バリ夢日記 (幻冬舎文庫―世界の旅)』p62-63

島の中に聖なる存在と邪悪な存在がいて、それによって一つの島を成り立たせている。後に詳しく書きますが、バリ島はそういう世界観がベースにあるので、アップダウンを繰り返す躁鬱や、一人の中にいろんな人格が棲む解離性同一障害みたいな病気と、よく馴染むのだろうなどと考えました。もちろん、これは小説上の話ですが。

ダウナーは、とがった神経を和らげ、トロンとした状態にさせる。マリファナ、ハシシュ、阿片、モルヒネ、ヘロインなんかがその例だ。反対にアッパーのドラッグは気分をしゃっきりさせ、万能感を与える。メタンフェタミン、これは昔でいうヒロポン。現在ではシャブと呼ばれている。それにコカの葉っぱ、そのアルカロイドを単離したコカイン。アルコールもそうだ。勇気が湧いてくる。そして、これとは別に幻覚剤という一群がある。LSDムスカリン、マンドレイク、マジック・マッシュルームetcだ。さて、両プロデューサーがやっているのはダウナーのマリファナ、ハシシュだとおれは踏んでいる。違うかい?」

水に似た感情 (集英社文庫)』p122

山には聖なるもの、海には邪悪なもの

『水に似た感情』の中で出てくる話ですが、バリ島でいちばん高いアグン山という山があります。バリ島は海のイメージが強い観光地だと思うんですが、トレッキングブーツとか履いて気合い入れないと登るのをためらうようなけっこうガチの山もあるのです。アグン山は聖なる神が棲む山だと考えられていて、古くから島で信仰の対象になっているそう。ふもとにはブサキ寺院という、バリ・ヒンドゥー教の総本山があります(インドのヒンドゥー教とバリのヒンドゥー教はちょっとちがうらしい)。そして一方、海には邪悪なものが蔓延っている。さきほど引用した『マリカのソファー』でも触れられていた世界観です。

日本に帰国した躁病のモンクは、なぜか自分の部屋に「世界」のミニチュアを作ろうと思いつきます。机の端っこに「黄金の宮」を作り、周囲に金色のキャップがついた目薬や金色の包装紙などを並べます。そしてもう一方の机の端っこに、今度は邪悪な神の宮殿を作ります。黒のTシャツやかばんを、そのまわりに配置していきます。そして、黄金宮と黒の宮の中間が俗世であり、そこでは人間が生老病死に苦しんでいるとします。「世界」のミニチュアを作り終えたモンクは満足気に床の上に寝そべるのですが、そこに落ちていたちりめんじゃこを見て、”このちりめんじゃこはおれの母親だ”と気付きます。

ここまで読んで「はああああああ?」って感じだと思うのですが、モンクは直感でちりめんじゃこの母親のことを”苦しんでるんだ”と悟り、黄金の宮に向かって母親を助けてやってください、と六回祈ります。繰り返しますが、黄金の宮というのは自分が机の上に作ったやつで、母親というのはちりめんじゃこです。

「水に似た感情」とは

そんな感じで奇行を繰り返すモンクなのですが、タイトルの「水に似た感情」とはいったいなんなんでしょう。これは小説のラストに出てくるんですが、バリ島というのは、聖なるものと邪悪なものが同時に棲む、一つの島、一つの人間、一つの宇宙です。そして、隣にはロンボク島レンボンガン島があるわけですが、別の島とは海水、すなわち「水」で区切られています。ありえないことですが、もし海水がすべて引いて蒸発してしまえば、別々に思えていた島は一続きの大陸になれます。だけど、間に「水」があるから一つになれない。島と島とを隔てているもの、人間と人間とを隔てているもの、あなたと私を隔てているもの、それが「水」です。つまり、人間はなぜ「個」に分断されてしまっているのか──これがこの小説のテーマというか核心部分になります。

バリ島は神々の島だとかなんだとかいわれていて、ふーんと思っていたのですが、『水に似た感情』で「これは!」と思ったのは、やはりこの「島」を「人間」として見ているところです。神々の島に入るというよりは、一人の人間の胎内に入っていく。そこで美しいものも汚いものも、崇高なものも邪悪なものも見て、「なぜ私たちはわかりあえないんだろうね」という結論に続く。薬物と繰り返される奇行の小説かと思っていたら、テーマそのものはけっこう普遍的なもので、だけど人間はこの問題を小説や映画の中で何度も何度も描いています。

『水に似た感情』は、ちりめんじゃこをつまみながら雨の日とかにふわっと読むのがいいかもしれません。

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★お知らせ★

2016年秋号の「編集会議」の中で、『旅と日常につなげる』を編集者の佐藤慶一さん(@k_sato_oo)に紹介していただきました。よかったらチェックしてみてください。
旅と日常へつなげる ?インターネットで、もう疲れない。?

旅と日常へつなげる ?インターネットで、もう疲れない。?

浜松市楽器博物館で耳と体が変化する

妙な話から始めるのですけど、最近、薬物中毒になった人の体験談みたいなのをよく読んでいるんです。もちろん薬物にはいろいろな種類があるので、その効用はさまざまです。が、ある特定の薬物の作用で、一つだけものすごく心ときめいてしまうものがありまして。それが、「(薬物をやったときに)世界がすっごく綺麗に見える」というやつです。

チョウセンアサガオ*1の種を柿の種みたくボリボリ食べていたら、瞳孔が開きっぱなしになってしまって、その後一ヶ月くらい文字が読めなくなったっていう体験談がありまして。でも、文字が判読できなくなった代わりに、自分の身の回りの世界の色がとても鮮やかに変化して、高田馬場駅のホームから見た景色があまりにも美しくて泣いてしまったらしいんです。そういう話が、個人的にすごく好きなんですよね。ちなみにこの話は『ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)』って本に書いてあります。高田馬場駅から見た景色が涙を流すほど美しい世界って、どういうものなんだろうってちょっと興味がわきませんか? 東京タワーからの景色じゃないですよ、高田馬場駅からの景色です。

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浜松市楽器博物館

ところで先日、知人と「さわやか」のハンバーグが食べたいという話になって静岡に行ったんですけど、ランチでお腹いっぱいになったら時間が余ってしまって、まあやることがなかったんですよね。そこで、ネットでてきとうに調べてみたら浜松市楽器博物館というのがそのときいた場所から比較的近く、かつ手軽に時間が潰せそうだったので、ほぼ何も期待せずに立ち寄ってみたのです。悪いけど、本当にマジで何も期待してなかったので外観の写真とかを撮り忘れました。

だけど入ってみたらこれがなかなか私の興味関心のツボを突いてくる博物館で、まず展示室が大きく分けて4つ。①アジアの楽器の展示室と、②オセアニア・アフリカ・アメリカ・ヨーロッパの楽器の展示室と、③鍵盤楽器の展示室と、④国産楽器と電子楽器の展示室があります。それでだいたい順番にまわっていくんですが、最初のアジアの楽器の展示室からしてすごく面白かった。パンフレットから引用しますが、アジアコーナーにはこんな楽器があります。楽器を実際に演奏してみることはできないんですが、各楽器の前にはヘッドホンが置いてあって、録音されている音を聴くことができます。

ガムラン[インドネシア 中部ジャワ]   
ガムラン[インドネシア バリ島]       
ジェゴグ[インドネシア バリ島]
・ササンド[インドネシア]
・パッタラー[ミャンマー]
・サイン・ワイン[ミャンマー]
・サウン・ガウ[ミャンマー]
馬頭琴(モリンホール)[モンゴル]
・ダマル[モンゴル]
・編鐘(ピョンジョン)[韓国]
・編馨(ピョンギョン)[韓国]
伽耶琴(カヤグム)[韓国]
サントゥール[イラン] 
・タール[イラン]
・サーランギー[インド]
・銅鼓[タイ]
・ルーシェン[中国]
・ウード[エジプト]
・タンブール[トルコ]
・カーヌーン[トルコ]

この中でわりと身近(?)な楽器は『スーホーの白い馬』で出てきた馬頭琴じゃないかと思うのですが、馬頭琴ってこんなに柔らかい音が出るんですね。


馬頭琴 | ガーダー・メイリン (嘎达梅林)

自分が大好きだった馬に、死に際に「私の体で楽器を作ってください。そうすればずっとあなたの側にいられるから……」とかいわれたら泣きません? 実際、ヘッドホンしながら私はちょっとウルっと来てしまいました。まさか大人になって『スーホー』で泣くと思わなかったです。だけど、あのモンゴルのだだっ広い平原で、馬頭琴の音が彷徨うように響いている様子を想像するともうそれだけでご飯三杯分くらい泣ける。

他に個人的に気に入った楽器は、バリ島のガムランジェゴグ、あとはイランのタール、インドのシタールとか。どれも音を聴いてみると、「ああ〜あの辺の、あのあたりの地域はこの音似合う〜絶対似合う〜」と悶絶できます。あとは、古代ペルシャの楽器バルバットが西に伝わってリュートになり、東に伝わって琵琶になった……みたいな話を聞くと(読むと)、もう壮大なロマンを感じますよね。エジプトのウードという楽器も起源が同じなんだとか。今我々に見えている国境なんてのは、所詮はあとの時代に生まれた奴が便宜的に引いたものに過ぎないんで、本当は文化はグラデーションだし全部つながってるんですよね。国境で区切るのではなく、音で世界を見ていくと、「あ、ここで"音"が変わったな、じゃあここからはちがう文化圏だ」と頭ではなく体でわかるんで、これって旅行しているときのあの高揚感にとても近いものがあるなと思って嬉しくなりました。

続いてはオセアニアのコーナーで、オーストラリアの打ち棒とか、ヴァヌアツのタムタムとか、パプアニューギニアのガラムートとかヌヌートとか。アフリカコーナーに行くとケニアのアブーとかタンザニアのンゴマとかガーナの太鼓とかがあります。この辺りの地域の楽器は、音に呪術的な力があるというか、トランス状態を誘発するような作用がある気がします。精神状態が安定していないときにアフリカの太鼓の音色を聴くと、魂を持っていかれそうになりますね。あとは楽器自体が造形的に美しいです。ちなみに私の大好きな映画であるベルナルド・ベルトルッチの『シェルタリング・スカイ [DVD]』は、このアフリカンミュージックの魔術的な側面をよく描けていると思います。


African Zulu Drum Music

それで、アメリカのコーナーとか日本の楽器のコーナーとかもいろいろ見て(聴いて)まわったんですが、この博物館的にいちばん気合を入れているのはやはり鍵盤楽器の展示室のようです。チェンバロとかパイプオルガンとかすべて素晴らしかった。だけど、この日さまざまな地域のさまざまな楽器の音を聴きまくって、その上で聴いて最高に感じ入ってしまったのは、私はなんとピアノだったんですよね。馬頭琴ガムランジェゴグも、シタールも竹笛もリンバもマラカスもヴァイオリンもオーボエもとても素敵だったのだけど、ピアノの鍵盤を2つか3つぽーんぽーんと叩いただけの音が、全身の毛穴が開くくらい美しかった。こんなに豊かで繊細で儚い音を出せる楽器が世界に他にあるだろうか、いやない! と思わず反語を使ってしまうくらい、その音は私にとって衝撃でした。

基本的にはこの博物館では録音した音だけで生音は聴けないのですが、ちょうどそのときギャラリートークみたいなのがあって、スタッフの人がプレイエルというフランス製のピアノでショパンの『別れの曲』を弾いてくれたんですよね。ピアノ自体は150年くらい前のものだそうで。2つか3つ鍵盤を叩くだけで鳥肌が立ってしまうのに、その状態でショパンを弾かれてしまったので、これはもうちょっとヤバイ感じになってしまいました。語彙が少ないのでヤバイとしかいえないのですが、ヤバかったです。


ショパン 別れの曲

おまけに、自分はどういうわけか「亡命」「ノスタルジア」みたいなワードに滅法弱くてですね、「これはフランスに亡命したショパンが、祖国ポーランドを想って作った曲です……」みたいな説明をされるともうダメなんですよね。なんか、「もう二度とあの場所へは帰れない……」的な物語が私の泣きのツボらしいんですよね。

合法ドラッグで飛ぶ

というわけで、まったくノーマークだった浜松楽器博物館で思わぬ収穫を得てしまいました。まさか、ピアノの鍵盤を2つか3つ叩くだけで、その音色が美しすぎて鳥肌が立つ体になってしまうとは考えていませんでした。さすがにこのままでいると身が持たないんで、きっとだんだん日常に慣れていって、またピアノを「ふーん?」と思いながら聴く普通の体に戻るんでしょうけど、これを書いている今はまだ効果が持続しています。

本物の薬物に手を出してしまうと、中毒になると困るし何より捕まってしまうんでダメなんですけど、「世界がすっごく綺麗に見える」という現象に私はやはり惹かれてしまいます。おそらくそれは、必ずしもチョウセンアサガオに手を出さなければ見られない世界ではありません。入り口の場所さえわかれば、お金も何もかけずに合法的に飛べる世界です。入り口の場所というのもいろいろあって、私が今回使った入り口はちがいますけど、恋をすることはおそらくその一つになるでしょう。

世界には、「美しいもの」が無数にあります。だけど、高田馬場の駅から見た景色とか、ピアノの音色とか、そんな些細なものに感じ入れるようになれたら、もう旅行なんて必要ないかもしれません。美術館にも、映画館にも行かなくていいと思います。

私はまだその域には全然達していないので、これからもたくさん旅行をするつもりだし、美術館にも映画館にも行きますけど、たぶん最終的に到達したいのは、そんなものはもう必要ない体です。少なく見積もっても、あと60年くらいかかるでしょう。到達せずに死ぬかもしれません。頑張ります。

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※これは「さわやか」のチーズハンバーグ

*1:薬物中毒患者でも絶対に手を出さないといわれている超危険なドラッグ。怖ろしい幻覚を見るらしい。

砂漠とトルコと東京ジャーミー

1年前くらいからずっと行きたいと思っていた、代々木上原にある日本最大のイスラム教モスク、東京ジャーミーでお昼の礼拝を見学してきました。

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見学に予約は不要で、金額も無料です。お昼の礼拝を見学するためには、土日の14:30にその場にいればOK。館内を軽く案内してもらったあと、アザーンが聞こえたら礼拝を見学しに行きます。注意点としては、露出の多い服装を避けることと、女性はストール持参を推奨。貸し出し用のストールもあるけど、数に限りがあるので自分用のを持っていったほうがいいと思います。

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こちらは、道路側から見た東京ジャーミー。今回は、こちらのモスクの礼拝を見学した感想です。

日章旗とトルコの国旗

14:30に1階のお土産コーナー(?)をうろうろしていると、「見学の人は行きますよー」的な号令をかけてくれるので案内の人についていきます。実際の建物を見ながら、まずはイスラム教の概要とか、モスクの建築について説明してくれてます。内部の写真を載せられないのが残念なのですが、なかはとても荘厳です。私は今年の初めのほうにモロッコとかヨルダンとかの中東地域を旅行してきたのですが、あの地方の空気感がびんびんあって、日本なのに異国感があってとても楽しかったです。下の写真は東京ジャーミーとは関係ないモロッコ・マラケシュのアリー・ブン・ユースフ・マドラサという神学校ですが、なんかこういう、タイル貼りの美しさみたいなのが伝わればいいなあと思い載せました。タイルの装飾とてもきれい。

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説明のなかで面白かったのは、日章旗とトルコの国旗が真逆であるという話。一目瞭然なのですが、「いわれてみりゃそうだな」と思ってハッとしました。

http://freesozai.jp/sozai/nation_flag/img/ntf_131/1.png
http://freesozai.jp/sozai/nation_flag/img/ntf_130/1.png

上がご存知の日章旗、下がトルコ国旗なわけですが、日本が太陽を中心に据えているのに対し、トルコは月と星を中心に持ってきています。そして、色が逆。日本は背景が白で、中心に赤い太陽があるのに対し、トルコは背景が赤で、中心に白い月と星があります。

国旗が真逆だからといって単純に「だから日本とトルコは環境が真逆なのだ!」ってわけではないんすが、我々の住むアジアとトルコやヨルダンのある中東は、やはり自然環境が対照的であるというのはよく思います。トルコ国旗の、この月と星っていうのはイスラム教の象徴でもあるらしいんですが、月と星を国旗のモチーフにしている国を調べてみると、トルコ以外だとアゼルバイジャン、イエメン、キプロスパキスタン、マレーシア、アルジェリアチュニジア、モーリタリアなどがありました。

月と星がイスラム教のなかでとても重要な存在であるという話は、実際に中東地域に行ってみるか、または砂漠を舞台にした小説やエッセイを読むとなぜだかわかります。私が最近読んでいたのはサン・テグジュペリの『人間の大地』というエッセイなのですけど、KindleUnlimitedで読めたのに対象から外れちゃったのでチッと思っているんですけど、このエッセイでは、パイロットとなったテグジュペリがモロッコの砂漠の上を飛行機で飛んでいます。

人間の大地 (光文社古典新訳文庫)

人間の大地 (光文社古典新訳文庫)

月は砂漠の方へ傾く。月には月の知恵があって、その知恵に導かれて姿を消すのだ。このキリスト教徒たちはじきに眠りに落ちるだろう。もう数分もすれば、光を放つものは星だけになるだろう。堕落した部族が過去の栄光のうちに甦り、砂漠を輝かせる唯一のもの、即ち、あの追撃戦をふたたび開始するには、このキリスト教徒たちがかすかな悲鳴を上げながら自分たちの眠りの中に溺れていくだけで十分だ……。まだ数秒ある。数秒後には、取り返しのつかない行為から一つの世界が生まれるだろう……。
 こうして眠り込んだ美しい中尉たちは虐殺される。

私は砂漠を舞台にした小説とかエッセイがすごくすごくすごく好きなのですが、まあとにかく太陽と、月と星、ようは空にあるものの存在感がハンパないですよね。砂漠には、ランドマークになるような目印が何もないのです。一面が砂だらけで、看板とか作っても(たぶん)砂に覆われてしまって、結局どこも似たような景色になってしまう。そんなとき唯一の指針になるのが、すべてを焼き尽くす暴君の太陽と、自分たちを砂漠のなかで導いてくれる月と星であると。砂漠の文学って人がやたら死ぬイメージがあるんですが、これはその自然環境があまりにも過酷で、すべてを神に(天に)託すしかないという圧倒的な世界観というか死生観に基づいていると思われます。日本では「いのちの大切さ」みたいなことを学校で教え込みますが、そしてそれは別に間違っているわけではないですが、砂漠の世界観はそれよりももっと強烈です。「一つのいのちなんて神の前では何の力も持たない」。死ぬことによって、神や、もっと大きくて巨大な霊的なものとつながれる。なんか、根本にそういう感覚があるよな〜ってのがよくわかります。イスラム世界で天文学や数学が発達したのもよくわかる。やっぱりイスラム教って砂漠の宗教だよなということを実感しました。

(※この話に興味がある人はこちらもどうぞ)
note.mu

親切なイスラム

そんな説明を受けつつ、いよいよ礼拝を見学しに行ったわけですが、礼拝堂のなかは異教徒の女性でも持参したストールで頭を覆います。それで、ムスリムの男性たちが一列に並んでメッカの方向にお祈りしている様子をしばらく無言で眺めます(女性の信者は2階部分でお祈り)。

よくいわれる話ですが、「イスラム教ってお祈りの回数とか食べちゃいけないものとか細かいルールがたくさんあって厳しいんでしょ?」というイメージを我々は抱きがちです。だけど、実際に信者の人がお祈りしているところを見たら、「ちがうな、ルールがあるから逆に親切なんだ」ということがようやく私のなかで腑に落ちました。

なんというか、「何が正しいか、どうあるべきか、自分で考えなさい」って一見自立・独立しているようでカッコイイんだけど、実際はやっぱりなかなか難しいんですよね。頭のいい人とか、精神的にマッチョな人はいいかもしれないけど、少なくとも庶民的ではない。その点、「毎日こうやってお祈りするんだよ」「こういう心のあり方で人に接するんだよ」と事細かに教えてくれる宗教は、貧乏でも、頭が悪くても、心がグラグラでも、文句なしに救ってくれるので、広まるのはどっちかといったらやはり後者だと思います。実際、2100年にはイスラム教徒の数はキリスト教徒を追い越して世界最大勢力になるだろうという予測があります。2100年だと、私と、あとこのブログを読んでくれている人は年齢的にたぶん生きていないので確かめられなくて残念ですね。

こういう書き方をしてしまうと、「イスラム教やキリスト教は自立を拒んでる、思考停止の宗教だ」みたいなかんじに捉えられかねないので難しいし、事実私もつい最近まで一神教的なものに対してそういう考え方を持っていた気がします。宗教に頼るあいつらは弱いやつだとか、無宗教で自立している我々がエライとか、言葉にすると稚拙だけどそういう感覚、少なくない日本人が持っていると思います。

だけど最近は、「私は自分で考えられる頭脳と精神力がある!」なんて思い上がりもいいとこだったな、とちょっと反省しています。人間は等しくみんな弱いし、自分で考える力なんてほとんどだれも持っていません。持っている人もいるかもしれないけど、それにしたってどんぐりの背比べ程度にしか過ぎない能力だと思います。なんでそう考えるようになったのかは、いろんな宗教の研究をしていたらそう思ったんですけど、詳しい話は長くなるので今回はやめます。

まあしかし、本で何回読んでもいまいち「???」だったことが実際に見てみると「あー、なるほど」とすぐになるのだから、見学は無料だし、東京近郊にお住まいの方は一度行ってみるといいのではないでしょうか。

(※次はこれを読む)

コーランを知っていますか (新潮文庫)

コーランを知っていますか (新潮文庫)

最後でなんだかすっごく笑う イエジー・スコリモフスキ『イレブン・ミニッツ』

イエジー・スコリモフスキというポーランドの映画監督が作った『イレブン・ミニッツ』という映画を観ました。『イレブン・ミニッツ』は今後全国で公開していくようなので、劇場情報などの詳細は公式サイトで確認してみてください。

スコリモフスキ(噛みそう)の作品は私、前に『アンナと過ごした4日間』を観たことがあって、それがけっこう好きでした。なお『アンナと過ごした4日間』は、中年男がある女性のストーカーになって部屋を監視するという話なのですが、気持ち悪さがなく悲しい気分になってくるという変な映画です……。

そんなわけで、以下は、『イレブン・ミニッツ』の感想です。

ポスター/スチール 写真 A4 パターン2 イレブン・ミニッツ 光沢プリント

これは4DXではない!

まずごく当たり前の確認なのですが、この映画は3Dでも、ましてや4DXでもない、普通の2Dの映画です。だけど、私にはなんだかこれが4DXに思えて仕方がありませんでした。というのは比喩ではなく、「あれ? 今椅子が動いた!?」と勘違いしたことが上映中何度かあったからです。普通の2Dの映画なので、椅子は動きません。あと、上映中に地震があったとかでもありません。


様々な人物の11分間を描く『イレブン・ミニッツ』予告編

なぜこんな勘違いを私がしたかというと、『イレブン・ミニッツ』の画面がものすごく計算されていて、どの映像がどんな効果をあたえるかを監督が全部ちゃんと考えているからだと思います。映像のなかにあるすべて、ホコリや壁のシミにもすべてに意味があって、ホコリや壁のシミが観客を襲ってくるみたいな映画です。ちなみに『イレブン・ミニッツ』のストーリーはというと、映画監督と女優とその夫、ホットドッグ売りのおじさん、ヤク中のバイク便男、とまったく関係のない登場人物たちがわらわら登場してきて、それがまったく関係のないまま物語が進んでいくというものです。感覚としては、ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』にちょっと似ているかもしれません。

確かに王道ではないけれど、こういうのはストーリーとしてまったく新しいかといわれるとそんなことはないし、「映像のすべてが計算されている!」といいつつも、それ自体もそこまで珍しいものだとは思いません。唯一いうことがあるとするなら、今はゴダールだって3D映画を作っていて、4DXの映画とかもある時代です。表現の幅がぐんと広がっているので、今まで問答無用で2Dだったところを「それはなぜ2Dなの?」という疑問にわざわざ答えてやらないといけない。そういう、やや面倒な仕事が発生しているのがたぶん今の時代です。

そんななかで、もし「これはなぜ2Dなの?」と聞かれたとき、『イレブン・ミニッツ』はおそらく「2Dでもここまでできるから」と答える気がします。なんか、そんな反骨精神をかんじる映画です。

最後でなんか笑う

あんまりいうとネタバレになっちゃうのですが、この映画はラストに向かってすべてが集約していきます。そして、最後でなんだかめっちゃ笑います。だけど、最後で何か面白おかしいことが起きるわけではありません。ただ、あまりにも情報量が多すぎて、脳が処理しきれないので、もう笑うしかないみたいな状況になるのです。

人間は、面白いことがあったとき、幸福な瞬間、楽しいときだけに笑うのではありません。物事を皮肉るとき、人に意地悪をするとき、そういうときにも笑います。私は大学と大学院でブラックユーモアの研究をしていたので、後者のタイプの笑いがすごく好き……というと私の人格が疑われますが、実際に好きなんだからしょうがないですね。ちなみに「ブラックユーモアが好き」って言いっぱなしだとやはり人格を疑われる気がするので念のため自分をフォローしておくと、好きなのはこういう理由があるからです。

『イレブン・ミニッツ』の最後の笑いはなんなんだろう……これもブラックユーモアの一種なのかもしれないし、何かもっと別の笑いかもしれません。ただ、ラストが本当に(笑えるという意味で)面白かったなー。あと、音楽がすごく良くて、この映画を観たあとずっとパヴェウ・ムィキェティンの音楽を聴いていました。しかし「ムィキェティン」って、ものすごく覚えづらい上に発音しにくいぞ。このカタカナ表記、なんとかならないのでしょうか。

とりあえず、『イレブン・ミニッツ』は面白かったのでおすすめです。欲をいうと、『アンナ』で牛の屍体が川をゆっくり流れていく荒廃した映像が好きだったので、ああいうのを私はもうちょっと観たかったですね。


アンナと過ごした4日間

青森で考えた『シン・ゴジラ』の感想

シン・ゴジラ』を8月の上旬に観てもう1ヶ月以上経っているんですが、観た直後は正直「これ感想とか書かなくてもいい系のやつだな」と思ってしまいました。それは決して「つまらなかった」というわけじゃなくて、むしろクソつまらなかったらクソつまらなかったが故に書きたいことが浮かぶんですけど、普通に面白かった(でも特に突出して面白いわけではない)と思ったので、「じゃあ別に何もいわなくていいや」と判断してしまいました。

そしてそのまま1ヶ月経ってしまったのですが、先日フラっと青森まで小旅行に行ったら突如書きたいことが思い浮かんだので、今回はそれを書きます。なお、結末に関して思いっきりネタバレをするので、嫌な人はこの先は読まないで下さい。

青森県立美術館成田亨

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まず、青森に着いてから真っ先に訪れたのが、奈良美智の作品で知られる青森県立美術館でした。上の写真は有名な「あおもり犬」。ここに雪が積もったりするとたぶんとても幻想的に見えると思われます。次は冬に訪れたい。

青森県立美術館、東京や都市部の美術館と何がちがうかというと、私は単純に箱の大きさがちがうと思いました。東京だと土地に限りがあるから、大きく見せようとしてもどうしてもこぢんまりしてしまうというか、いまいち迫力不足な点が否めません。だけど青森県立美術館は、最初のコレクション展のマルク・シャガールで度肝を抜かれました。マルク・シャガールの最初の3点、デカイのです。写真を載せられない(撮れない)のが残念ですが、高さ8メートルです。もう一度いいますが、8メートルです。横は14メートル。アホみたいなこといいますが、デカイってすごいと私は思います。圧倒的なデカさのものを見ると単純ですがすげー感動します。あとは、シャガール奈良美智以外の展示も、作品と作品の幅が広くて、人口密度が低い。都市部の美術館はどうしても人が密集していて鑑賞に集中できなかったりするのですが、青森県立美術館はほどよい人の入りで、終始ゆっくりのんびり自分のペースで見てまわることができました。

そして、このコレクション展のなかにあったのが、成田亨の「異形の神々」というシリーズ。成田亨とは、青森県出身のデザイナー・彫刻家で、初期の『ゴジラ』にアルバイトとして参加したり、あとは『ウルトラマン』のキャラクターデザインを手がけたことで知られています。

ジラース(未彩色組立キット)
※『ウルトラマン』の怪獣のデザインなどを手がけた成田亨

それでこの「異形の神々」シリーズを見て思ったのですが、『ウルトラマン』の奇抜な、だけど親しみやすいあの怪獣のデザインっていうのは、青森出身のデザイナーが生みだしたものなんだってことに私はなんだか納得してしまったのです。青森といったら私はずばり「恐山」(まだ行ったことない)なんですけど、東北地方って「人間以外の異形の者と共生する」という感覚が都市部よりもすごく長けているイメージがあります。『ウルトラマン』に出てくる怪獣や『ゴジラ』の一部が日本のこういう場所から生まれているという感覚が、私はすごくしっくり来ました。

シン・ゴジラ』のラストシーンについて

ここからいよいよネタバレゾーンに入るのですが、『シン・ゴジラ』では最後、暴れ狂うゴジラを凍結して映画は終わります。で、私もそうなんですが、少なくない人が「え、凍らせたゴジラどうすんの? 処分しないの? つーかこれで終わり?」みたいな感想をあそこで抱いたのではないかと思います。クソつまんなかったわけではないけど、なんか判然としないなー、所詮はエンタメだからなー、と私はブツブツいいながら映画館を出たのですが、今思うと、あそこでゴジラを凍らせたまま残したことにけっこう意味があったのではないかという気がしてきました。

「意味があった」というのは、監督の庵野秀明さんがそれを意図していたか意図していなかったかということとはあまり関係がありません。それはどっちでもいい。ただ、結果としてそういう印象を観た者にあたえた、ということに「意味があった」と私は考えます。

あのあと、凍ったままのゴジラはどうなったんだろう。処分したのか。どうやって? 動かすとなんかやばい物質が出てきたりするかもしれないし、ゴジラが目を覚ますかもしれない。それとも時限爆弾みたいに、ある種のモニュメントとして、凍ったままのゴジラは東京に君臨し続けるのだろうか。

私はなんだか、後者のような気がします。凍ったままのゴジラがそのままいる東京。もちろん万が一に備えて「ゴジラ管理部」みたいなのが政府のなかに出来て、凍結材を継ぎ足したり日々データを更新して怪獣が動き出さないように監視している。だけどゴジラは生きていて、生命活動は継続している。東京都民や日本国民は、普段はゴジラのことを忘れているけれど、ときどき上空を見上げて「大丈夫かな?」と不安になったりする。意外と観光名所になったりするかもしれません。外国人がやってきて、凍ったゴジラを背景にパシャパシャ写真を撮って喜んだりする。

怪獣映画とかパニック映画に詳しい人ならこのあたりをもっと上手く分析できるんでしょうが、たぶんこれは心理学的に読み解くと面白いんだと思います。「ゴジラ」というのは「異形の神」です。人智を超えた存在で、だけどそれと共生していかないといけない。我々の心のなかには、普段は忘れているけれど本当はいつも不安がある。科学を信じているけれど、科学を超える存在があることもちゃんとわかっている。ラストシーンでゴジラを処分していたら、あるいは凍結なんかせずにもっといい方法を見つけて爆破してゴジラをやっつけていたら、この「不安」や「モヤモヤ」は表現できません。ゴジラを完全にやっつけるラストのほうが観客としてはすっきりするんだけど、監督は意図してなのか意図せずにしてなのか、それをやらなかった。

青森で成田亨の展示を見て、私は「あのラストで良かったんだ」と思いました。今の東京に、日本に必要な物語は、おそらく「異形の神と共生する物語」です。ゴジラ原発のメタファーかもしれないし、地震のメタファーかもしれないし、あるいはもっと別のもののメタファーかもしれません。まあ、『シン・ゴジラ』がヒットしたのは単にエンタメとしてカッコ良かったからだと思いますが、「なんだかよくわからない不安なもの、怖いものと一緒に生きていかなくてはいけない」という物語がたくさんの人に受け止められて、やっぱり結果としてはすごく良かったのかもしれません。

おまけ

こちらは翌日に訪れた鯵ヶ沢の「白神の森」。白神山地の山系にある森らしいです。そこらじゅうの木にキノコが生えていたのですが、野生のキノコってグロい。最初にこれを食べようと思ったやつすげーなと思ってしまいました。

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途中で雨が降ってきてしまったのですが、雨のなか森を歩くのおばけが出てきそうですごく怖かったです。あとなんか、ときどきよくわからない音がするのもすごく怖い。クマが出ることもあるみたいです。
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「これは書くことないな」と思っていたものでも、別の場所に行くことでふとアイディアが思い浮かぶこともあるので、転地療養はやはりおすすめです。

※と、これを書いたあとにいろいろなレビューを見たら、ゴジラ原発のメタファーでもう決まりということで通ってるんですね。なんとなく3.11にこだわるのが変な気がして、それ以外のもっとふわっとした可能性を考えていました……。