チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

Twitterのフォロワー数で抜かれたくない人

少し前、大学院時代の恩師がTwitterを始めたのを発見してしまい、ひそかに戦慄した。


フォローせずにそっと見守ろうかとも思ったが、それも卑怯な気がするし、私も私でこれで一応、毎日を精一杯に頑張っているのだ。何も恥ずかしいことなどない。それに、「チェコ好き」は本名ではないから、きっと先生はそれがかつての教え子であるとはお気付きにならないだろう……というわけで、堂々と「フォローする」を押した。


おかげで私のTLには、先生の言葉が、わずかながらも毎日流れてくるようになった。

たくさんのツイートに混ざって流れていく先生の言葉はさながら、きらめく一筋の清流だ。「美しく可愛く、シックで切なく」がぼくのモットーだよ、とかつて先生は微笑みながらおっしゃっていた。すでに定年をむかえられ、先生は大学の教授職を退かれているけれど、そのかつての言葉どおりに、相も変わらず日々を美しく可愛く、シックで切ない言葉で綴られている。最近はまたイタリアとフランスを旅されていたようで、ジョルジュ・バタイユが最期のときを過ごした家を、ツイートで紹介されていた。庭園、聖堂などさまざまな場所を訪ね歩いている様子を見るに、8年前と変わらずご健脚でおられるのだなあと、私は嬉しく思った。


しかし。先生は清流のごとく静かにTwitterをやられているが、元が有名人なため、すぐに認知が広がってしまったらしい。

あるとき確認すると、あっという間にフォロワーが2000人をこえていた。この調子だと、3000人、5000人に達するのもおそらく時間の問題である。先生のツイートが200RTくらいされているところを見つけると、「先生がおバズりなさっている……!」と私はドキドキしてしまう。かつて知人が先生のことを、「え、あの方まだ生きてるの? 偉人感がパないから故人かと思ってた〜」と言っていたが、ご存命でいらっしゃいます! バリバリTwitterやってます! しかもけっこうバズってます!


先生はかつて、「ぼくは自分の名前が目に入るのが嫌で……」と、レジュメに自分の名前を印刷するのを頑なに避けていた。その代わりに、☆マークを自分の名前のしるしとして、サイン代わりに使われていた。

今も先生のツイートには、文末に必ずその☆マークが入っている。☆マークがTLできらめくたびに、私は、自分のすべてを映画研究に捧げていた二度と還れない日々を、何にもなれずどこにも行けなかった鬱屈とした院生時代を、思い出す。閉塞感が息苦しくて芸術学科に嫌気がさしていたとき、「うちのゼミにいらっしゃい」と腐っていた私を優しく仏文ゼミに迎え入れてくださったのは、先生だった。


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私が旅行を好きになったのも、今思えば先生のおかげだ。芸術学科のくせに、図々しくも仏文のゼミ旅行に混ざって連れていってもらったのである。

あの旅で見たフィレンツェの、ローマの、そしてパリの美しさは、8年以上経った今でも私の生きる支えになっている。あの旅があったから私は、もっともっといろいろな世界を見てみたいと、以降も自分の足で様々な国へ足を運ぶようになったのだ。「人生が変わる!」なんて簡単に言ったら安っぽくなるが、私の人生はあの旅行がなかったら、おそらくまったく違うものになっていただろう。「旅は、時間の芸術だよ」という美しい言葉を教えてくれたのもまた、先生だった。


足が悪く、杖をつきながらも我々生徒たちの誰よりも先に、誰よりも速く歩いていた先生。「ぼくは本当は行きたくないし、どっちでもいいんだけど」などと言いながら、さまざまな旅プランを毎週大量のレジュメにまとめあげてきてくれていた先生。

そんな先生は、少々繊細なところがあるようで、ゼミの先輩に「旅行中は、なるべくたくさんお手紙を書いてあげて。そうしないと先生は、『今日連れていったところはつまらなかったかな……?』『今日食べさせたものは美味しくなかったかな……?』と気にされてしまうから……」とアドバイスされた。そのときは「めんどくせ! 女子か!」と思ったが、先生に落ち込まれてしまってはかなわない。私はフィレンツェで、ローマで、パリで、1日の終わりに宿の部屋で先生にお手紙を書いた。眠かったけど、書いた。

先輩のアドバイスはまだ続く。「それでね、そのお手紙を直接渡してはだめ。直接渡したら、きっと先生は照れてしまわれるから……」

じゃあみんなどうしてるんだと尋ねると、「先生の寝ている部屋のドアの下に、そっとはさんでおくの」と来た。女子か、っていうか女学校か。少女漫画に出てくる50年前くらいの女学校なのかここは。しかし、郷に入っては郷に従え、それがここのルールならばと、私は眠目をこすってしたためたお手紙を、夜にそっと先生の寝ている部屋のドアの下にはさんでおいた。他にもたくさん、ドアの下にはゼミの仲間たちが書いたお手紙がはさまっていた。めんどくせと思っていたが、明くる朝、それらを見た先生の顔がぱっと明るくなって喜んでくれているところを想像したら、だんだん女子でも50年前の女学校でも何でもいいやという気分になっていった。ドアの下にお手紙をはさむなんて、あんなおとめちっくなことをしたのは私の人生でこの後にも先にもない。


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内田樹さんは、『先生はえらい』という本の中で、「恋人に出会うことと、先生に出会うことは似ている」と書いている。共通点は、「美しき勘違い」である。この人の素敵なところにただ私だけは気付いているという恋愛と、この人のすごいところをただ私だけは知っているという師弟関係。師への思いを語ることは、恋人への思いを語ることと同じだと、内田さんは続ける。だとしたら私は、このブログで盛大な「のろけ」を書いていることになる。

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)


それは確かにその通りで、30歳にもなって学生時代の思い出をのろけているなんてカッコ悪いなと思う反面、私は今でも、先生の教え子だったことが誇りだ。これから先も、ずっとずっと誇りだ。先生は大事なことをたくさん教えてくれたけど、その1つ1つはどれもすごいことじゃない。「旅行中はどんなに疲れていても、日記を毎日書きなさい」とかそんなことだけど、すごいことじゃないことが、8年経った今でも残り続けているということがすごい。私は本当に、今でも先生の教えを忠実に守っているんだよ。


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……と、まあここまでで美しき師弟関係の話にしてもいいんだけど、最近の私は、いつ先生にTwitterでフォロワー数を抜かれるかと気が気じゃない。なぜなら、私ごときの人間が先生にかなうものなんて1つもないとずっとずっと思っていたのに、今、Twitterのフォロワー数だけは、まだかろうじて私のほうが先生より多いからである。せ、先生、インターネットの世界の知名度では、私のほうが上だぜ!!!

もちろん先生は、フォロワー数なんて露ほども気にかけていないはずで、その前にはたして「フォロワー数」という概念をご存知であるかどうかもわからない(なんか数字増えてるな? これなんだろ? くらいに思ってそう)。むしろ、私がそんな虚構の数字に惑わされていることがバレたら、さぞかしお嘆きになるだろう。で、で、でも、先生に、先生に負けたくないんじゃあ〜〜〜〜〜〜〜!!!

というわけで、私は先生のツイートがおバズりなさっているのを見かけるたびに「チッ」と悪態をついているのであった。まったく可愛くない教え子である。しかし、すでに確固たる地位を築き終わり、卑しい承認要求など欠片ほども持ち合わせていない人間が、何の得になるかもわからないTwitterを始めるというのはやはりすごい。先生の精神はいつまでもやわらかく、お若いのだ。ああやっぱり先生にはかなわないな、私も頑張らなきゃ、と思う。


インターネットなんて大嫌い大嫌いと毎日のように言っているけれど、先生の新しい言葉が今でも毎日読めることには、やっぱり感謝しないといけないのかもしれない。

1分間のために100万円

先日、初めて(初めて!)能の舞台を観に行ってきた。予約するときに、GINZA SIXの地下に能楽堂があることを初めて知りました。演目は『花筐』と『鉄輪』。

前者は、お慕いしていた継体天皇が上洛するっていうんで別れなきゃいけなくなった照日ノ前が、悲しくて彷徨っているうちに都まで来ちゃったという話。後者は、前夫を恨んで丑の刻参りをしていた女が鬼と化すも、安倍晴明によって退散させられ、めでたしめでたしという話(だいぶ端折ってます)。セリフが何を言ってるのかよくわからなくても、なんとなくのストーリーが頭に入っていれば、とりあえず今がどういう場面なのかはわかる。

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眠い!

事前に能に関する情報をいろいろ集めていたら、「能は眠いよ」「眠いよね」「眠いです」というコメントが散見されたので、「そっか、眠いんだ」と思って行ったら本当に眠かった。昨今は映画120分でも座っているのがかったるいという人がいるのに、能の舞台は途中休憩や狂言をはさむとはいえ3時間以上ある。3時間以上拘束されて、セリフも何を言っているのかよくわからないもんを観に行くのだから、けっこう気合いを入れて「よっしゃ!」という感じで臨まなければならない。金額も安くはない(今回は7000円)。やはり「よっしゃ!」というガッツが必要である。

『花筐』『鉄輪』の合計時間がだいたい約2時間半くらいだったと思うのだけど、正直そのうちの9割の時間は「眠いなー」と思っていた。しかし、残りの1割の時間だけは「何だこりゃ?」と思って観ていた。私は人の怨念渦巻いている系の話がけっこう好きなので、ストーリー的には丑の刻参りが出てくる『鉄輪』のほうが好みなのだけど、憤怒に駆られた女がしずしずと舞台を歩いている様子はまさしく幽霊みたいで、本当に怖かった。

そして、人が扇を手に舞っている姿も美しい。あの世にいるみたいで綺麗だった。

全然関係ないけど、バイコヌールに行きたいんだよね

3時間以上の時間のほとんどを「眠いなー」と思って過ごしていたのだから、なんて非効率な時間とお金の使い方だと思われても仕方ない。でも、あの丑の刻参りの女の幽霊みたいな感じと、この世の重力じゃない感じで舞っている能楽師の姿を見ることができたので、それに7000円を払ったのだと思えばまあ良いのではないかと自分では思っている。時間にしたら15分もないくらいだけど、別に3時間以上の公演だからといって、3時間まるっと楽しませてくれなくてもいい。その中で、きらめく瞬間が一瞬でもあればいい。

そして、一瞬、という言葉で思い出したのだけど、私はいつかカザフスタンのバイコヌール宇宙基地に行ってソユーズロケットの打ち上げを見たい。種子島でいいじゃんと思われるかもしれないが、バイコヌールは種子島よりも発射地点の近くまで行けるようで、迫力がちがうらしい。風と轟音がすごくて、他の何にも喩えようがない体験ができるそうだ。他のものに喩えようがない、というのはなんとなくわかる。だって、宇宙に行くんだもの。

ただ、バイコヌールに行ってロケット発射の見学をするのは個人だとなかなか難しいらしくて、専門業者のツアーで行ったほうがいいっていうんだけど、このツアーがだいたい1回100万円くらいする。ロケットの打ち上げはたった1分間だ。もちろん、バイコヌールっていう特殊な都市を見ることができたりだとか、ロケットのために100万円も出す他のツアー参加者との交流とか、そういうのもついてまわるので、純粋なる「1分間のために100万円」というわけではないけど。まあ、でもまだ今の私にはロケットに100万円払う勇気はちょっとない。ぐぬぬ……。

人類は、いまだに宇宙に関しては「ほぼ何もわかってないに等しい」状態らしい。私は、というか現時点で生きている人はみんな、宇宙のことをほぼ何もわからないまま死ぬ。

それってすごくロマンがあるけど、同時にやっぱり、めちゃくちゃ悔しいよね。

バイコヌール宇宙基地の廃墟

バイコヌール宇宙基地の廃墟

30歳を過ぎたら

旧石器時代があり、新石器時代があり、青銅器時代があり、そして長い年月のあとにカットグラス時代がやってきた。

目に入った瞬間に惚れてしまう文章というのがある。上の文章はスコット・フィッツジェラルドの『カットグラスの鉢』という短編小説の冒頭だけれど、こんな文章を20代前半で書いたっていうんだから、やっぱりフィッツジェラルドって控え目にいってもバケモノだったんだろうな〜。軽妙洒脱で、ユーモアがある。

『カットグラスの鉢』の、あらすじはこうだ。

あるところに、とても魅力的な1人の女性がいる。年齢は20代前半。美しくて愛嬌があるので、当然まわりの男たちは彼女に夢中になる。ある男は、彼女に「カットグラスの鉢」をプレゼントする。「ねえイヴリン、僕は君に贈り物をあげるよ。それは君と同じように硬くて、美しくて、空っぽで、中身が透けて見えるものだよ」とかなんとか言いながら。けっこう失礼だと思うんだけど、イヴリンはそれが嫌味であることにさえ気づかずに、素直にプレゼントをもらって喜んでいる。

20代後半になると、彼女は言い寄ってきた男の中から、いい条件の男を見つけて結婚する。子供を産んで、母親になる。

だけど、何年か経つうちに、だんだん夫との仲は冷えていく。するとイヴリンは、不倫の恋に溺れるようになる。しかし、その恋も終わって、30代を過ぎ、40代に近づいていく。「美しくて、空っぽ」と言われながら、大きなカットグラスの鉢をプレゼントされた魅力的な女性はもうそこにはいない。いるのは、凡庸で、輝きを失った中年の女。ああ、あの美しいカットグラスの鉢はどこに行ってしまったんだろう──と、そういう話である。

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しかし、私の説明の仕方が未熟なせいもあるけれど、改めて書くとひどいあらすじである。

女性が年齢を重ねていくことは、次第にその価値を失っていくことだと言いたいのだろうか? 1920年の発表だから許されたかもしれないが、今の世でこれを書いたら大バッシング不可避である。ただまあ、この「年齢を重ねることで何かを失っていく」ってテーマはフィッツジェラルドの小説の中で繰り返し登場するので、よく読んでいる者からすると「あーあ、またこの人こんなこと書いてんのね」という感じである。失笑はするものの、いつものことなので特に怒りは沸かない。

30歳の女性である私は、本来なら(?)、この短編小説に反感を抱くべきなのかもしれない。だけど実際のところ、私は『カットグラスの鉢』が大好きで、もう何回も繰り返し読んでいる。テーマがテーマなので、この小説を「好きだ」と公言することはこれでも一応、勇気を振り絞っているんだけど。

これ、たぶん下手な人が書くと、「女の子はやっぱり若いのがいちばんだよ。年とったのは容姿も性格も可愛くないしさ〜」という、低俗な三文小説になってしまいかねない(ていうか実際、低俗な三文小説であるという読み方をする人もいると思う)。だけど、なんていうか、フィッツジェラルドの目線はそういうんじゃないんだよな。確かに、けっこうスレスレのところまで行く。しかし低俗な三文小説になる一歩手前で、華麗に身を翻して旋回している。

彼の小説の中では、男だって女と同じように衰えていくし、輝きを失っていくし、人生を後悔するようになる。若い子がいいよね、という話では断じてなくて、ただ、今目の前にあるものが消えてしまうことが悲しいと言っている。今のこの瞬間が過ぎ去ってしまうことが悲しいと言っている。フィッツジェラルドは小説の中で、いつもいつも、悲しい、悲しいと繰り返し言っている。まあ、確かに暗いし、決して前向きな話ではないんだけど、人間ってそんなものだし、人生ってけっこう悲しいものなんじゃないだろうか。本質的には。

とはいえ、現実の自分の立場をかえりみると、やっぱり女性の加齢をネガティブには書いてはほしくないんだけど……でも、フィッツジェラルドを読んでいるときの私は、自分が2017年に生きる30歳であることを忘れている。生身の体をもった現実の私というのはどこかへ消えてしまって、小説の中を生きる「1920年代の人」になっている。やがて世界恐慌がやってきて、ニューヨークで株価が大暴落して、それがフィッツジェラルドの人生を変えてしまったことも知っている。だけど、彼が1920年代に書いた小説を読んでいるときだけは、そんなことはさっぱり忘れて、まるで永遠に続くかのように、アメリカという国の繁栄を無邪気に楽しむことができる。

小説や映画の、そういう自由さを私は愛している。もちろん、すべての小説や映画において、とは言わない。それが(私にとって)優れた小説や映画であるときのみだ。その中でなら私は、男にだってなれるし、女にだってなれるし、兵士にも、犬にも猫にも、神様にだってなることができる。そして、性別が変わっても、国籍が変わっても、時代が変わっても、人間ですらなくなってしまっても、それでもわずかに浮かび上がる「私」という存在があって、そのことに愕然としたりする。

かつてフィッツジェラルドは「30歳を過ぎたら、人は生きているべきじゃないね」と言ったことがあるらしい。そ、そんなこと言うなよ〜。別に30歳を過ぎても人生は楽しいよ。むしろ、若いときよりずっとずっとラクだし楽しいよ。これからも、まだまだ楽しいこといっぱいあるよ。そう、「私A」はフィッツジェラルドを一生懸命に茶化して笑うんだけど、一方で「私B」は静かに納得しているのだった。

年齢を重ねるということは、過ぎ去ってしまった時間を多く抱える、ということだ。きっとフィッツジェラルドは、その重みに耐えられなかったのだろう。これから楽しいことがないわけじゃない。ただ、過ぎ去ってしまった時間が多すぎることが悲しいのだ。

フィッツジェラルドがこの世を去ったのは1940年、彼が44歳のときである。もしもその年齢を追い越すときがやってきたら、私は何を思うだろう。

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

コミュニティに執着しない

これはちょっとした思考実験だ。

少し考えてみてほしいのだけど、たとえばあなたが、明日から「日本」について研究しなければならないという職務を負ったとする。ただし場所はどこでもよろしい、費用は使い放題だ、という条件つきである(いいなそれ)。そういう職務を負ったとき、さてあなたは研究の地としてどの場所を選ぶだろうか。

ある人は、「京都」と答えるかもしれない。確かに、神社仏閣に事欠かず、日本の歴史を考える上でもっとも色濃いものが彼の地にはありそうである。またある人は、「東京」と答えるかもしれない。確かに、今の日本において最先端の情報や興味深い人が集まってくるのは何だかんだいいつつ東京だから、これも妥当な判断だろう。またある人は、そういうオーソドックスな日本ではなく、もっと周縁から攻めちゃるというアイディアで、「沖縄」と答えるかもしれない。これも、一味ちがった研究ができそうでなかなか面白そうである。他、日本の孤島に行くぜとか、四国でやるぜとか、青森でやるぜとか、それぞれの答えに不正解はない。

私もご多分に漏れず、きっとつい最近までだったら、「京都」と言ってたかなという気がする。もしくは引っ越しがめんどくさいので、このまま関東周辺に引きこもり、必要に応じて沖縄や四国に短期滞在するとかを考えたかもしれない。

しかし、つい先日思いついたのは、これらがすべて不正解──とはいわないまでも、「日本」を研究するために日本人の私が選ばなくてはいけない土地は、実は日本の中のどこにもないのではないか、ということだ。今の私がもし、上記のような職務をあたえられたら、私はおそらく東南アジアのどこかの都市を答えるだろう。それはプノンペンでもいいし、ハノイでもいいし、バンコクでもいいし、ジャカルタでもいいのだけど。「日本」を考える上で、日本を今よりもくっきりと意識の上に浮かび上がらせるためには、実は日本を離れるのがもっとも有効なのではないか。今日はそんな話から始まるつれづれです。

コミュニティに執着しない

私自身もそうなのだけど、私のまわりにいる人たちは、「コミュニティに執着がない」と言う人が多い。そして、自惚れではあるのだけど、私自身も含め、こういうことを言える人々は自立心が高いのだと思っていた。まあ確かに、いいオトナがいつも同じメンバーでつるんでいたらカッコ悪いし、地元や出身大学にいつまでもこだわり続けるのも見栄えがいいと思えない。現代は何といっても個人の時代なのだし、地域や会社をこえて、プロジェクトごとに個人がゆるやかに集まり、そしてプロジェクトが終われば未練なく散っていく……というのは、クールで合理的である。

と、思っていたのだけど、「コミュニティに執着がない」とは実は、「コミュニティに守られている」ことと裏表の関係なのではないか? と考え込んでしまったのは、米原万里さんの本を読んだからである。

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

既読の人はご存知のとおり、こちらの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は、著者の米原さんが、チェコスロバキアプラハソビエト大使館付属の国際学校に通っていた頃の学友について書いたノンフィクションである。話に出てくるのは、ギリシャ人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。それぞれの詳しい話は今回は割愛するけれど、印象的だったのは、ソビエト国際学校に通っている子供たちの、愛国心がものすごく高いことだ。リッツァはギリシャの空がいかに青く美しいかを滔々と語って米原さんに聞かせ、アーニャはルーマニアの料理がいかに美味しいかを証明するためにクラスメイトたちを自宅に招く。文中に出てくるけれど、この学校に通う子供たちの愛国心が高いのはそれがスタンダードのようで、むしろ自国に誇りを持てないやつのほうがおかしいと、そういう風潮があったらしい。

自国にいないはずのソビエト国際学校に通う子供たちの愛国心が、逆にこんなに高いのはなぜか? というのは説明するまでもない話で、人は周縁に追いやられるとアイデンティティが揺らぐのだ。

本の学校に通い日本語を話す日本人よりも、外国の学校に通い外国語を話す日本人のほうが、きっと日本に対する思いは強い。前者はコミュニティの中心にいて、コミュニティに守られているからこそ、コミュニティの存在に気づかない。周縁に追いやられて初めて、コミュニティの存在に気づき、その中に自分の居場所を作ることに執着する。冒頭の話につなげると、だから私は、日本のことを研究したいなら東南アジアのどこかの都市に行くのがいいのではないか、と考えたのである。京都や東京にいてはすっぽり覆われて見えなかったものが、バンコクジャカルタでは「何でこんなことに気づかなかったんだろう?」と浮かび上がるだろう。推測だけど。


「個人の時代」と言い切れる人は確かに強い。

だけどそう言える人って、「何かに守られている人」なのかもしれない。何にどんなふうに守られているのかは、中心にいるからこそ、見えにくいのだけど。

人を呪ったっていいじゃない

トルコの民間信仰で、「ナザールボンジュウ」という青い目玉のお守りがある。

「トルコの」といったものの、私はこれを、ギリシャでも見たしイスラエルでも見たしヨルダンでも見たしモロッコでも見た。ちょっとうろ覚えだけど、確かスペインにもあった気がする。だからつまりは、中東というか、あのへんの地域一帯に共通してある民間信仰なのだろう。

下の写真はアテネで撮ったものだけど、ナザールボンジュウはこんなふうに、そのへんの雑貨屋さんや観光客向けのお土産屋さんで、普通に売られている。とっても身近なものなのだ。

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ナザールボンジュウは、どういったときに人々に買い求められその効果を発揮するのかというと、「良いことが起きたとき」だという。良いこととは、たとえば、新しい会社を設立したとか、結婚したとか、家を建てたとか、そういうときだ。

ナザール(Nazar)とは、「邪視」という意味らしい。

中東やヨーロッパの地中海地方の人々は、イスラム教が伝わるよりも5000年以上も昔から、「人々から羨望のまなざしをあびると悪いことが起きる」と信じていた。だから、何か良いことが起きたとき、そんな人々の「羨望のまなざし」「邪視」から身を守れるよう、ナザールボンジュウに願いを託すのだ。また、人のいいところを褒めるとき、この地方の人々は、「Nazar degemsin(ナザールが触れませんように)」という言葉をかけることがあるという。

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このお守りの話を初めて聞いたときは、ちょっと意外だった。

というのも、中東や地中海近辺の人って、傲慢で自己中、良くいえば超ポジティブというイメージだったので(偏見です)。良いことがあっても手放しには喜ばないとか、人目を気にするとか、そういう感性あるんだ〜へえ〜〜と思ったのである(失礼だな!)

今の世の中に対しても思うけど、良いことがあったときくらい、屈託なく素直に喜べばいい。それを、配慮とか遠慮とか考えないといけないというのは、控えめに申し上げてもちょっとメンドクサイ。

生きづらい世の中、生きづらい私、と人はいう。だけどはたして、生きやすい世の中、生きやすい私なんて、かつて存在したことがあったのだろうか。紀元前だろうと、中世だろうと、ルネサンスだろうと、近代だろうと、日本だろうとヨーロッパだろうと中東だろうとアフリカだろうと、いつだって誰だって人々は生きづらかったのだ。多かれ少なかれ。

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うちの玄関にも中央に鎮座しているナザールボンジュウ。「誰もあんたには嫉妬しないから大丈夫」という声が聞こえてきそうだが、それはそれとして。

人を呪ったっていいじゃない、ただし覚悟があるならば

話は変わって、夏のホラーの定番に、「丑の刻参り」という呪いの術がある。ワラ人形に五寸釘を打ち付けて、夜な夜なカーン!カーン!とやる例のアレである。ただし、万が一現場を他人に見られてしまったら呪いはすべて自分にはね返ってくるし、現場を目撃した人物も殺さなければならない。私が「丑の刻参り」を知ったのはたぶん小学生のときだったと思うけど、初めて抱いた感想は、「人を呪うのってずいぶんと骨が折れるんだな〜」ということだった。ロウソクを頭に巻きつけなきゃいけなかったりしてまず装備がメンドクサイし、夜中に神社に行くのもだるいし、その上で絶対に人に見られてはいけないなんて大変すぎる。

もちろん「丑の刻参り」はただのオカルトだ。しかし、この迷信はなかなか大切な教訓も含んでいるように私には思える。つまり、「人を呪うという行為にはリスクが付き物で、その覚悟がないのだったら他人に呪詛を吐くのなんておやめなさい」と、そういう意味もあるのではないか。迷信もなかなかバカにはできないのだ。

私は人を呪う心や復讐心みたいなのを、あまり真っ向から否定したくない。否定したくないというか、より正確にいうと、それはどうしたっていつの世にも生じるものだから、否定なんかしても無意味だと思っている。「優雅な生活が最高の復讐である」とはいうものの、どうしても我慢できないときは気が済むまで、恨むだけ人を恨んでバーニング!するのも一つの手だろう。丑の刻参り、実際の効果はよくわからないけど、頑張ってやったら何よりもまず本人がすっきりしそうじゃないか。すっきりするのはいいことだ。

最近ちょっと気になるのは、そんな丑の刻参りとは正反対の、「お手軽な呪い」みたいなのがインターネットをしているとチラチラと見えてしまうことである。リスクを犯しているのだと、本人が自覚しているのならば、気の済むまでやればいい。だけど、テレビを見て寝っころがりながら、お菓子をボリボリ食べつつ呪詛を吐くのはやめたほうがいいんじゃないかな、と何だか思う。それならば、ロウソクを頭に巻きつけてカーン!カーン!とやるほうがよっぽど紳士淑女だ。

何より、迷信にはロマンがある。「アフリカの某呪術師市場には猿の頭が売られていてね……」なんて話をされると私が目を爛々と輝かせてしまうことは、このブログをいつも読んでくれている人であればご存知のことだろう。

ナザールボンジュウの話も、背景をよく考えると「まったく、いつだって世の中は息苦しいのな、やってらんねえぜ」という気分になるけれど、それはそれとして、この青い目玉くんはなかなか愛嬌があってかわいいじゃないですか。丑の刻参りもコントにできそうだし、迷信とか呪術ってどこか笑っちゃうようなところがある。アホくさくて。

シリアスで、スマートで、アホくさくないものがいちばん怖い。それは、どこにも出口がないからだ。