突然ですが、私は<カルト宗教>にものすごい興味があります。
もちろんカルト宗教の教義か何かに惹きつけられているというわけではなく (あの伊勢神宮に行っても「ふーーん」としか思わなかった超俗世の人間ですので!)、カルト宗教にはまってしまう人のメンタリティというか、社会で弱っている人を吸収してしまう構造とか、そういうものに興味があります。
そこで、本の整理をしていたら、こんな本が出てきました。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2001/07
- メディア: 文庫
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副題が「underground2」となっていますが、地下鉄サリン事件の被害者の証言をまとめた『アンダーグラウンド』の続編です。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1999/02/03
- メディア: 文庫
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村上春樹は地下鉄サリン事件・オウム真理教を被害者・加害者(サリンを撒いたのはインタビューに答えているこの人たちではないので、直接的な加害者ではないけれど)の両面から考えていた、というわけです。
『約束された場所で』は確か大学3〜4年のときに購入したのだと思うのですが、当時の私にはまだ<カルト宗教>という存在をうまく消化できなかったのか、とりあえず読了はしたものの感想など何も書かず放置していました。『アンダーグラウンド』は同じく大学3〜4年の頃、近所の図書館で借りて読みました。今回は、このうち手元にある『約束された場所で』のほうの内容を改めてまとめておこうと思います。
目次は以下。
まえがき
インタビュー
狩野浩之「ひょっとしてこれは本当にオウムがやったのかもしれない」
波村秋生「ノストラダムスの大予言にあわせて人生のスケジュールを組んでいます」
寺畑多聞「僕にとって尊師は、疑問を最終的に解いてくれるはずの人でした」
増谷始「これはもう人体実験に近かったですね」
神田美由紀「実を言いますと、私の前生は男性だったんです」
細井真一「ここに残っていたら死ぬなと、そのとき思いました」
岩倉晴美「麻原さんに性的な関係を迫られたことがあります」
高橋英利「裁判で麻原の言動を見ていると、吐き気がしてきます」
河合隼雄氏との対話
『アンダーグラウンド』をめぐって
「悪」を抱えて生きる
あとがき
<彼ら>と<我々>のちがい
私がオウム真理教をはじめとするカルト宗教について、いちばん気になるのはこれだったりします。
オウム真理教にハマってしまった<彼ら>と、今のところ宗教のお世話にはなっていない<我々>との間に、何か決定的なちがいはあるのか。あるいは、ないのか。カルト宗教は、私たちのすぐ隣にあるものなのか。
村上さんは後半の河合隼雄氏との対談で、オウムの人は話を聞く限りだと、幼い頃の家庭環境に何かしら問題があった人が多い、というようなことを述べられています。幼い頃、両親あるいは祖父母でも何でも、とにかく「無条件に愛してくれる人」の存在が人間の人格形成にものすごい影響をあたえる、というのはまぁわかります。
でも、『毒婦。』のエントリ『毒婦。』木嶋佳苗被告の裁判傍聴記 - チェコ好きの日記にも書いたように、「幼い頃の家庭環境に何も問題がなかった」人なんているのかなー、とちょっと思うのです。多かれ少なかれ、何か問題はあっただろうと。
この人たちだって、「俗世を捨てて出家する」って宣言したとき、「行かないでくれ」って親が泣くわけですよ。子供が、そんな得体の知れない宗教にハマるのが心配で泣くわけですよね。こんなご両親がいるなら、たとえ少なからず問題がある家庭だったとしても、「愛のない家庭で育ちました」なんて言えないと思う。
となると、やっぱり結論としては、<彼ら>と<我々>の間にある壁はものすごく薄くて、脆いものなのだと思います。オウム真理教にハマってしまった人と、とりあえず宗教なしで何とか生きている我々に、本質的なちがいは実はないんじゃないかと思うのです。
インタビューを読んで共通していたのは、この人たち全員が「社会における矛盾」や「自分の人生に意味はあるのか?」などについて悩み、虚しさを抱えていたということ。わかりやすく「ひきこもり」みたいな形でその社会不適合っぷりが表面上に出ている人もいれば、普段はごく普通に友達や彼氏と遊ぶOLだったり、生徒からの信頼篤い教師だったりで、表面上に出ていない人もいる。そのへんはバラバラです。
でもとにかく、「自分」や「社会」について皆さんものすごく真剣に悩まれています。
こういったことに悩むことは、現代であればごく普通のことだと思います。むしろ、まったく悩まない人のほうがどうかしてる。もし仮に「悩んでない」なんて人がいたら、本当は悩んでいるのに気付いていないか、気付いてるけど気付いてないフリをしているかのどっちかでしょう。しかし、私はそんな人とは友達になりたくない(笑)。
では、オウムやカルト宗教にハマる人は我々とまったくちがいのない人で、そういう団体に関わってしまったのは単なる偶然だったのか、というと、そうでもなくて。
村上さんは、インタビューする信者の方に何度か同じような質問をしています。
――そういう本質的な疑問に悩む人には、若い頃から様々な本を読んで、様々な思想に触れて、検証を重ねて、その集積の中から何らかの思想体系を選んでいく、というパターンがあると思うんですが、あなたはそうじゃなかった。どちらかというとムード先行みたいな感じで、すうっとオウムに入っちゃった、というふうに見えますね。
「自分」や「人生」について迷ったとき、ある人は本を読みます。ある人は旅に出ます。ある人は仕事を頑張ったり、奥さんや子供をものすごく大切にするかもしれない。そのなかで、「自分の信条」みたいなものを見つけていくしかない。でもオウムにハマってしまったこの人たちは、それができなかった。「自分の信条」を、麻原という男に預けてしまった。
ある女性信者は、
指示が出たらみんなでさっと動くとか、そういうのってあるじゃないですか。こういうの楽だなあって思いました。自分で何も考えなくていいわけですからね。言われたことをそのままやっていればいい。自分の人生がどうのこうのなんて、いちいち考える必要がないんです。
と語っています。完全なる思考の放棄。
「自分」や「人生」について迷うことがあるのは、誰でも同じです。では、なぜこの人たちはその先を自分で考えることができなかったのでしょう。「自分で自分の信条を探す」のは、確かにすごい大変です。時間もかかります。それをするだけの体力がなかったのか、あるいは考えすぎて疲れてしまったのか…。
このあたりはやっぱりまだわからないです。
さて、後編に続きます。(え〜!) 後編予告↓
・セーフティーネットのない社会
・結局、何が<悪>だったのか? 村上春樹が1Q84で描いたもの