かつてマザー・テレサは、「世界平和のために、私たちは何をするべきでしょうか?」と問われたのに対して、「家に帰って、家族を大切にしてあげなさい」と答えたという。実は私、この考え方にはけっこう前からあまり賛同できなかった。
これは屁理屈じゃないよ、じゃあさじゃあさ、たとえばだけど、たとえばだけど〜〜! 「家にナイフを持った強盗が入ってきたので、自分と家族の命を守るため、強盗を銃で撃ち殺しました」は「家族を大切にする」に含まれますか〜!?
みんな、それぞれの正義がある。でも、それぞれの正義を思い思いに貫き通すと矛盾が生じるから、今の世界は平和じゃないんだ。家に強盗*1が入ってきて自分と家族の命が危ういとき、どういう行動をとることが「家族を大切にする」ことになるのかなんて決められないだろう。家族を大切にするのもだいじだけれど、カート・ヴォネガット風に言うならば、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」。これが私の長年の考えである。
みんな家族を大切にしていないわけじゃない。むしろ、みんなそれぞれのやり方で家族を大切にしている。その結果が、「今」なんだ。保守派カトリックだったマザー・テレサは中絶手術に反対していたそうだけど、中絶手術に否定的な立場をとることが「家族(隣人)を大切に」なのか、肯定的な立場をとることが「家族(隣人)を大切に」なのか、誰にも決められないでしょ。だから世界はこうやって対立しているのでは〜〜?
「毒」の含有量
マザー・テレサはだたの話の枕なんだけど、つい鼻息が荒くなってしまった。本題はここからである。
最近の私が考えていたのは、〈心に混ぜておける「毒」の含有量は人によってちがう〉という、とてもとてもシンプルなこと。この場合の「毒」とは、皮肉だったり、ちょっと意地悪な気持ちだったり、あるいは誰かに対して怒りの感情を抱いたりすることをいう。
たとえば私自身は、心に混ぜておける毒の含有量がけっこう多くても大丈夫なようにできている。何しろ、卒業論文と修士論文のテーマが「チェコ映画におけるブラックユーモアの表現」だったのだ。私にとって、一定量の毒はむしろ薬である。悪意や怒りが活動のモチベーションになることがある。心に混ぜておける毒の含有量が少ない人は、たぶん私のことを「なんて邪悪な人間なんだ!」と思うんだろうけど……別にダークサイドに落ちてしまったわけではなくて、なんか、もともとこうなんだ。
「あなたは今、幸せですか?」と問われたとき、私はいつも言葉に窮した結果、「定義によりますが」とか言いながらはぐらかしている。でも最近考えたのだけど、おそらく「幸せ」のもっともわかりやすい定義は、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」ってことだ。「明日が来るのが超楽しみ!」まで行ったら毎日めちゃめちゃ楽しくて完璧かもしれないが、この手のヤツはあまりハードルを上げすぎないほうがいい。何かを手に入れられたらとか、何かになれたらとか、何かができるようになったらとかじゃなくて、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」ならば、私もあなたもひとつ幸せってことでいいだろう。(もちろん、これだって考えようによっては十分高いハードルで、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」って思うのが難しい状態にある人もいるってことはわかっている。)
ただ、この自分で決めた定義をガン無視すると、未だシリアでは「今世紀最大の人道危機」といわれる内戦が続いているわけで、自分が直接その被害を目にすることはなくても、シリアの人たちと同じ世界に生きていながら「幸せ」になんてなれるかコンチクショウ、という思いも私にはあるんだよな。まあだから、改まった機会でないと聞かれることもないが、「あなたは今、幸せですか?」なんていわれても困る。シリアのことも考えていいのなら私は幸せじゃない。
前述したように、私は長年、マザー・テレサの発言に賛同できなかった。「家族を大切に」する程度で平和になるんなら、もうとっくになっとるわい! と思っていた。でもなんか、「家族を大切に」をスローガンに日々を過ごすほうが「ハマる」人もいるんだろうなと、今は、想像だけど思う。心に混ぜておける毒の含有量が少ない人がいて、そういう人は、遠くの(自分と関係のない)世界の不幸まで抱え込んでいると、マジで病んでしまうらしいと最近ようやく知った。私は、遠くの世界の不幸を抱え込んでいても、怒ったり考えたりするだけで、あんまり「病む」ことはないんだけど……。それは心に混ぜておける毒の含有量がもともと多いせいだろう。マザー・テレサの発言を目にすると突っ込みたくてイライラしちゃうんだよな。それでそのイライラこそがエネルギーだったりもする。
どっちが良くてどっちが悪いという話ではもちろんない。こういうのは体質だ。私は肝臓がダメでお酒がほぼまったく飲めない。アルコールを分解する酵素をそんなに持っていないのだ。それと同じ話である。
まとめ
今週はそんなことを考えていたのだけど、特に結論はなし。ていうか、マザー・テレサはあくまで話の枕のつもりだったのだけど、結局こっちが本題だな!
どう思う? ねえどう思う? 私、こういう話どうしても突っ込みたくなっちゃうんだよね。
(※これはマルタ島で食べたごはん。)
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(※これは最近観たマシュー・ハイネマン監督のドキュメンタリー。シリアの市民ジャーナリズム団体RBSSがイスラム国に対しスマホ&SNSを武器に闘っている。今のところ私の中で2018年ベスト映画である。)
*1:ちなみにここでは、「もし仮に本当に世界中の人が家族を大切にしたならば、強盗は生まれないのでは? という反論への反論が出てくると思うのだけど、私の考えでは、「大切にする」の定義が人それぞれちがい、人と人との関係においてそうした行き違いをなくすことはほぼ不可能だと思っているので、これを反論への反論への反論とする。