前にこのブログで『サピエンス全史』の感想を書いたんだけれど、この本で私にとっていちばん衝撃的だったのは、「狩猟採集生活と農耕生活を比べたとき、必ずしも後者のほうが快適だったわけではない」っていうのがわかったこと。なんなら、そのままの狩猟採集生活を続けていたほうが人類は幸福だったのでは? なんて考えも浮かんでしまう。
とはいえ、農耕民族が生まれてからも、地球上のすべての人類が農耕を軸とする生活に移行したわけではない。そのままの狩猟採集生活を続けている民族は、なんなら今だって普通にいる(ヤノマミとか)。ただ、私たちはどうしても、彼らのことを「農耕を軸とした文明社会を〈選べなかった〉人たちである」と考えがちだ。山間部にいたとか、大陸の発見自体が遅かったとか、様々な地理的な事情により、文明が彼らのもとに届かなかったのだと。
しかしこの人たちは、文明社会を〈選べなかった〉のではなく〈選ばなかった〉のだとする説が、最近にわかに力を持って浮上しているらしい。
- 作者: 高野秀行,清水克行
- 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
- 発売日: 2018/04/05
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というわけで今日は、ノンフィクション作家の高野秀行さんと歴史家の清水克行さんの対談本、『ハードボイルド読書合戦』で印象に残った部分のメモ。
『ゾミア 脱国家の世界史』
- 作者: ジェームズ・C・スコット,佐藤仁,池田一人,今村真央,久保忠行,田崎郁子,内藤大輔,中井仙丈
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2013/10/04
- メディア: 単行本
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まず、『ハードボイルド読書合戦』は特定の本を題材に高野さんと清水さんが話し合う〈書評本〉なので、このエントリは〈書評本の書評〉というマトリョーシカみたいな構造になってしまうんだけど……まあいいや、とりあえず『ハードボイルド読書合戦』で最初に取り上げられるのは、『ゾミア 脱国家の世界史』である。この本で話題になるのは、中国西南部から東南アジア大陸部を経たインド北東部に広がる丘陵地帯だ。
(※このへんの地域の話)
このあたりの山間部に住む人々は今もなお原始的な生活を維持しているらしいんだけど、私たちはつい、前述したように「山間部だから、文明が届かなかったのかな?」と考えがちだ。しかし『ゾミア』は、様々な証拠をもとに、「彼らのもとに文明が届かなかったのではなく、むしろ彼らは文明を知っていて、あえてそれを放棄し山間部に〈逃げた〉のだ」という論を展開しているらしい。
『ゾミア』について高野さんと清水さんが語る際にあげる〈文明〉の主な要素は3つで、農耕、文字、そしてリーダー。
農耕生活のデメリットは『サピエンス全史』にも書かれているのだけど、『ゾミア』で新たに取り上げられるのは、その国家的な性格だ。水稲耕作は、収穫高が計算しやすく、何かと「管理」がしやすい。中国西南部やインド北東部の山間に住む人々は、この性格を理解した上で、水稲耕作を〈選べなかった〉のではなく、知っていて、〈選ばなかった〉。国家的なものに管理されたくないから。
さらに、彼らは「文字」や「リーダー」が存在しない社会に長らく生きていたらしいのだけど、これも文字を持てなかったのではなく、持たなかった。文字が書かれた餅を食べてしまったので文字を失ったとか、水牛の皮に書かれていた文字を食べてしまったので失ったとか、そういう伝承がいくつか残っているらしいのだけど、『ゾミア』の著者はこれを、文字を意図的に放棄した証拠ではないかと見ているらしい。
文字を持ってしまうと、顔を合わせたことがない相手との意思疎通も可能になる。でも、互いに顔を合わせられる範囲で、大事なことは顔を突き合わせて話せる関係を維持できる社会であれば、確かに文字は必要ない。
『ハードボイルド読書合戦』で取り上げられるもう1冊『ピダハン』も、歴史を持たない民族についての本だ。ピダハンは「直接体験したことしか話してはいけない」という究極の社会らしい。ソースが自分か、もしくは直接の知人でないといけない。こんな社会ならばデマもフェイクニュースも出回りようがない。
- 作者: ダニエル・L・エヴェレット,屋代通子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2012/03/23
- メディア: 単行本
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そして最後のほうで触れられるのが、リーダー。『ゾミア』で語られる社会は、リーダーを意図的に作らなかった。リーダーとは別の社会、チームと接触する際の「窓口」である。窓口をあえて作らない(誰と接触すればいいのか外部の人間にはわからない)状態であれば、他の社会に取り込まれることもない。
世界は無政府状態に近づいているのでは
今回はちょっとしたメモというか走り書きになってしまったんだけど、ここ数年の間で、「大きな政府」から逃れよう逃れようとしている話をよく耳にする気がしている。「農耕社会のデメリットを書いた本によくぶちあたる」のはその1つだ。農耕社会というのは管理社会だから、大きな政府からの管理を逃れて遊牧民的に生きようというメッセージを暗に感じる。
さらにそれをヒシヒシと感じるのは「お金」に関する分野で、今後100年くらいの間に、人類にとっての経済のあり方がガラッと変わったりしそうだ。なんとなく、世界は無政府状態に近づいているのでは、という気がしている。
それは今のところ私にとって耳に心地いい話のほうが多いが、実際はどうなんだろうな。
(※これはヴァチカン美術館の出口)