直近1週間の日記です。
2018.8.31 子宮教
ウェブで熱心に「子宮教」関係の記事を読んでしまう。子宮教とは、子宮を温めたり子宮の声(???)に耳を傾けるようにすると、美容にも健康にもよくお金もガッポガポでパートナーにも恵まれ人生ハッピーになるという教えである。
冷えとりとか過激な自然派信仰とか妙な自己啓発とか、この手のやつは枚挙に暇がない。でも大量に記事を読みあさった後に思ったことは、「生きるのって大変だなあ」というシンプルな事実であった。我慢に我慢を重ねてきた人ほど、「もっと自分の魂の声に正直になってごらん!」みたいな言葉は響くのだろうし、今まで抑圧されてきたぶん極端な行動に出てしまうのだろう。
たぶんだけど、人生はちょっとずつやるのがいい。1回我慢したら2回我慢しない。でも3回好きにやってみたら次の1回は我慢する。溜めて溜めて溜めて大爆発より、ぷすぷすガス抜きしながらぬるっと生きるのがいいんだと思う。ま、そんなこたぁわかっているが、その「ぷすぷす」の加減が難しいんだよというのが現代人である。
2018.9.1 よしもとばなな
子宮教で思い出したが、私は20代前半の一時期、よしもとばななが大好きだった。たぶん長編小説はほとんど読んだと思う。でもあるとき、確か『どんぐり姉妹 (新潮文庫)』だったかな、なんかの小説に出てきたあるシーンで、夢から醒めるようにしてよしもとばななが嫌いになってしまった。
そのあるシーンでは、「女性には本能的に子供を育てる能力が備わっているが、男性にその能力はない」みたいなセリフが交わされていたのだけど、私はそういう女性信仰には抵抗がある。「あ、根底にこういう思想があるんだったら無理!」と思って、以来ばなな的スピリチュアルは全部だめになってしまったのだけど、まあでも好きだったんだよな、そのシーンに巡り合うまでは。
ちなみによしもとばななで一番好きな小説は『チエちゃんと私 (文春文庫)』、次点が『まぼろしハワイ (幻冬舎文庫)』である。院の研究で疲れたときによく読んでいた。
2018.9.2 アブサロム、アブサロム!
7月から読んでいたフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』を31日に読み切り、数日間のうちにちょっと調べ物。『アブサロム、アブサロム!』は正直、あまり読みやすい小説ではなかった。ただ、フォークナーは私の中で今もっとも掘り進めたい作家なので、次は彼の出世作であり過激な暴力描写で有名な『サンクチュアリ (新潮文庫)』に挑戦する予定(ポチり済)。
1ヶ月半かけてフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』を読み切った、語り手がころころ変わるので超読みにくかった
— チェコ好き (@aniram_czech) 2018年8月31日
フォークナーってフィッツジェラルドの1歳下だと知らなかったんだけど、作風が対照的だ。どこまでも軽く儚いフィッツジェラルドと、濃密で重く血と暴力に呪われたフォークナー。 pic.twitter.com/2Ptb6xyRbQ
『アブサロム、アブサロム!』始め、フォークナーの小説の舞台はいつも、ヨクナパトーファ郡ジェファーソンという架空の土地である。この土地のモデルは、ミシシッピ州ラファイエット郡だといわれている。『アブサロム〜』は、白人貧困層出身のトマス・サトペンという男が、このジェファーソンに大農園を築き上げる……という話だ。が、かなり筋がこんがらがっているので、巻末付録の年表とか人物相関図とかを都度都度確認しながら読まなくてはいけなかった。
2018.9.3 北部と南部
『アブサロム、アブサロム!』を読んでいるうちに知ったが、フォークナーは私がもっとも敬愛する作家スコット・フィッツジェラルドの1歳下である。バリバリの同世代だ。『グレート・ギャツビー』はアメリカの禁酒法時代の話だったけれど、私が次に挑戦する予定の『サンクチュアリ』も、なんと同じ禁酒法時代が舞台らしい。
『グレート・ギャツビー』のギャツビーはニューヨークで酒の密輸をやっていたわけだが、『サンクチュアリ』のポパイは、南部アメリカでその酒を密造している。つまり考えようによっては、この2つの物語はつながっているわけだ。
同時代のアメリカを北部ニューヨーク、南部ヨクナパトーファ郡の両視点から考えられると思うと、めちゃめちゃ面白そうじゃありません? わくわく。20代半ば頃までの私はポーリーヌ・レアージュとかマルキ・ド・サドとかユイスマンスとかフランス文学ばっかり読んでいたのだけど、アラサーになってからはもっぱらアメリカ文学だな。
2018.9.4 品川
台風の中、仕事で品川に行く。品川は学生の頃もっともよく通った場所なので、久々に来るとなんだか妙な気分になってしまう。過去に触れられそうで触れられない。もどかしい気持ちになる。
学生時代に良くない思い出があるわけではないのだが、ノスタルジーはときに人を殺す。なので、できることなら記憶を上書きしてしまいたい、と思う。
2018.9.5 そんないいもんじゃない生活
「一生遊んで暮らせる大金を稼ぐ方法教えます!」みたいなアカウントにフォローされたのでふと「一生遊んで暮らせる大金稼げたらどうしようかな?」と考えたのですが、本を読んで文章書いて、たまに旅行して、自由な会社にちょっとだけ出入りして働きたいな…と思ったので、あまり今と変わらなかった
— チェコ好き (@aniram_czech) 2018年9月4日
数年前の手帳に書いた日記をふと読み返してみると、当時「こうなったらいいのになあ」と思っていたことが今まさに現実のものになっていたりして、人間の思念みたいなものの強さにぞっとする。しかしそんな中でした上のツイートは、「私は好きなことして生きてますドヤァ!」という主旨の発言ではもちろんない。むしろどちらかというとペシミスティックな諦念に基づくもので、「私の思い描いた理想の生活なんて所詮この程度のもんですよ、そんないいもんじゃないですよ」みたいなつもりで言った。いや、理想は理想なんだからいいもんではあるのだが、理想が現実になっても100%にはならないんだよね、みたいな感じ。
どうすれば100%になるのかというと、生きている限り無理だ。先週も書いたけど、私は、というか人間は、永遠に何をしても満たされない。これからも、ずっとずっと足りないパーツを探して、そして満たされないままいつか死ぬんだろう。
だから、私は「満たされないなあ」と思うとき、「生きてるなあ」と思うのだ。