チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

◯◯論が好きなオタクが、注意すべきポイントとは?

映画論、美術論、写真論、マンガ論に始まり、ブログ論、お笑い論、恋愛論……

◯◯論が好きな人っていますよね。はいそうです、私です。

映画や美術、写真そのものはもちろん好きですが、それと同等に、それらについて語ることもまた好きなのです。ブログも同様で、ブログそのものも好きだけどブログ論も好き。書く人がそれぞれ、何を考え、どういうスタンスで文章を書いているのかわかると面白いじゃないですか。お笑いにいたっては、お笑いそれ自体には実はあまり興味がないんですけど、話がお笑い「論」になると、俄然前のめりで聞いてしまうところがあります。

一方、◯◯論が好きな人って、我ながらちょっとオタクっぽいよなぁとも思います。「オタク」の語源は、彼らが出現し始めたときに「で、おたくはどうなの?」と会話のなかで相手のことを「おたく」と呼んでいたことから……という話を聞いたことがありますが、この「で、おたくはどうなの?」と興味の対象について論じ合うこと、これはまさにオタクの精神のありようそのものではないかと思うんです。私はアニメをあまり観ませんし、ゲームはゲームボーイで歴史が止まってるくらいやらないですし、BLも読みません。でも、「で、おたくはどうなの?」の精神はすごく身近に感じるし、自分は表面上はともかく気質がオタクだよなー、と思います。このブログも、いってみれば膨大な「で、おたくはどうなの?」のカタマリなわけです。

良きオタクであるための努力

しかし、◯◯論が好きな人は、下手をすると対象と距離をとりすぎ・あるいは近すぎて、ものすごくかっこ悪い“小物”に成り下がってしまう危険性があります。私は自分が“小物”であること自体は間違いないと確信しているので別にいいのですが、どうせならかっこ悪い小物ではなくかっこいい小物になりたいとは常々思っていて、そのためにはどういう努力をすべきか、いろいろ考えて決めていることがあります。

それは、語る対象への敬意を忘れないこと。

たとえば、私は映画監督の岩井俊二の作る作品がすごく嫌いなんですね。その気になったら、たぶん岩井俊二についてボロクソに書くことができるでしょう。しかし、私はそれをしません。なぜかというと、「好きの反対は無関心」という言葉があるように、「嫌い」は「好き」と同等にパワーがある感情だからです。私の心が大きく揺れる作品を作っているという時点で、私は岩井俊二に敬意を表さずにはいられないのです。

もちろん、ボロクソに書くこと自体が悪いというわけではありません。大切なことは、ボロクソのなかにも「敬意」が感じられるかどうかです。書くことが上手な人は、ボロクソのなかにもきちんと作品への「敬意」があって、ファンが読んでもアンチが読んでもそんなにイヤな気分にならない、みたいな「名ボロクソ」を書くこともできます。私は下手なのであまりやりませんが、いつか「名ボロクソ」にも挑戦してみたいなぁとは思っています。待ってろ、岩井俊二

反対に、好きな作家・作品に対しては、私は意識して距離をとるようにしています。たとえば、私は村上春樹という作家が大好きですが、彼の近年の作品『1Q84』には、けっこう厳しい評価をしています。彼は『1Q84』に宗教的なテーマを盛り込もうとしたのだと思うんですけど、私にはあまりそれが成功しているようには感じられなかったんですよ。

※詳しくはこのへんに書いています。
カルト宗教とか、亡命とか 村上春樹『雑文集』の感想 - (チェコ好き)の日記

映画監督でいうと私はヤン・シュヴァンクマイエルが大好きなんですが、彼の現時点での最新作『サヴァイヴィングライフ』の評価には懐疑的です。テーマも撮影手法も、今までやったことの焼き直しだったというか、目新しいものがなかったなと思って。

しかし、です。素人である我々は、芸術家や作家というのは特別な存在で、出す作品出す作品すべてが傑作でなければならないみたいな幻想を抱きがちですが、実際は芸術家も作家もふつうの人間なわけです。だから当然、傑作もあれば駄作もある。でも駄作があるからといって、傑作の価値が変わるわけではありません。「これは駄作かも……」と思ってしまう作品が世に出ても、ファンだから信じているんです。次回作に期待しているんです。だからこそ、厳しい目で作品を観ることができるんです。「この人はもう、これ以上の作品は生み出せないだろうな」と思ったら、最新作を悪くいったりしません。


オタクが、ダサいオタクにならずかっこいいオタクであるためには、語る対象に対して適切な距離を保つ努力をすること。「好き」にも「嫌い」にも、敬意を忘れないこと。私と同じように、◯◯論が好きだという人には、こんなポイントに気を付けてみるのはどうかなと、ふと考えました。

この話はちょっと「作品論」に傾きがちだったかもしれませんが、ブログ論にも、お笑い論にも、恋愛論にも、応用はできると思います。批判してもボロクソにいってもいいけれど、そのなかに「敬意」というか、「あたたかみ」というか、「エール」があると、すごくかっこいい文章に思えます。それが感じられないただのボロクソは、かっこ悪いしダサいなって思っちゃうんですよね、私は。

批判をするときは、ファンにも納得して(あるいは笑って)もらえるように語る。賛意を表するときは、アンチにも納得してもらえるように語る。私もまだまだ未熟な身ですが、かっこいい小物であるために、今日も精進していきます。

村上春樹いじり

村上春樹いじり

ドリーさんの書く文章は、名ボロクソのお手本になりうるかもしれません!?