チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

もうすぐ絶滅するという芸術の未来について

岡田斗司夫さんのメルマガがけっこう好きで、毎朝配信されるたびに読むのが日課になっているんですけど、今回はそのメルマガと、最近読んだ本の感想です。私が考えた「芸術」というものの未来について、ぐだぐだと語ってみようかなと思います。

というわけで本題ですが、以下は、「好きな美術作品はありますか?」という質問に対して、岡田さんがメルマガ内で回答した内容です。強調部分は私が勝手に太字にしています。

ニューヨークも行ったときに、メトロポリタン美術館へ行ったんだよ。まあ本当に退屈で、一直線に入って、グーグルマップで見たら、メトロポリタン美術館の真ん中辺まで行ったから、一直線に帰ってきたんだよね。それぐらい、何の興味もない。


「上手な絵に何の価値があるの?」って思っちゃう。そんなものより、あるアーティストや工芸家たちが考えて、「こうやれば早く飛ぶんじゃないか?」「いっぱい人を乗せれるんじゃないか」「いっぱい武器を乗せれるんじゃないか」「敵の攻撃をかいくぐるんじゃないか」「旋回半径を小さくできるんじゃないか」という結晶として、現実にあるエンジン、ガソリン、いろんな制約の中で組み上げていった飛行機の曲線はすっげー美しいと思うんだ。
 
でも、そこらのおっさんが「なんて自然はビューティフル!」とか思った絵なんて、「何の意味もねえや!」と。本当に思った(笑)。

 
ちょうどメトロポリタン美術館ピカソ展に行って、キュービズム展やってたから、ザーッと行って見たら、「ピカソの初期はデッサンが上手いわ」って思ったんだけども、それだったら俺、「貞本君の絵の方が良いや」とかって思って(笑)。

 
まあ、何の感慨も興味も湧かなかったよね。それは僕のもちろん情緒的な欠陥だと思うんだけども。アートや芸術にもうすでに価値はなくなってる。本当に俺、そう思うんだよ。
 
人類文化として芸術というものにそんなにバリューはなくなってるのに、旧世代の価値があるからと思って、価値を持ち込みすぎてると思うんだよね。それは僕自身すごい偏見のある人間だから。単なる国際運動会なのに価値を持ち込みすぎてるオリンピックとか、単なる貧乏国がサッカー一生懸命やってるだけなのに、それを世界中で見てるワールドカップとか。俺もうそういう偏見の塊でしか見てない、自分の興味がない(笑)。
岡田斗司夫の毎日メルマガ~解決!ズバッと

ちなみに、ニューヨークのメトロポリタン美術館は私も行ったことがあるんですけど、ブログ上にちょうど感想文があるので、そちらも合わせて置いておきますね。

【NYひとり旅/2】メトロポリタン美術館の珍品と、「何でそれ作ろうと思ったんスか?」の問い - (チェコ好き)の日記

ようこそ、アウラなき世界へ

岡田斗司夫さんのメルマガと合わせて語りたい私が最近読んだ本とは、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』の精読本です。『ベンヤミン・コレクション』も同じタイミングで購入して持っているのですが、こちらは後半の一部しか読んでないです。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

上記の2冊は恥ずかしながら私にとっては読解が容易ではない本で、現時点では内容を十分に理解しているとは言い難いです。が、上記の2冊は今後も何回も読むことになると思うので、ブログに書いているうちに見えてくるものもあるだろうと甘えつつ、今回のはさきほどの岡田斗司夫さんのメルマガの内容と合わせて、第1回目の読書メモということにしようと思います。


で、『複製技術時代の芸術作品』なんですけど、この論文の概要をざっくりいうと、今まで(近代以前)は礼拝の対象だった芸術が、複製技術(ベンヤミンの時代でいう、写真や映画などの技術)の登場によって礼拝というよりは展示の対象になり、結果的に大衆化が進んだ、みたいなことが書いてあるんですね。ここでベンヤミンの著作のなかでいちばん有名な言葉かもしれない「アウラ」が出てくるんですけど、「アウラ」とは事物の権威、事物に伝えられている重み、のことだそうです。絵画や彫刻などの複製不可能な芸術に比べると、写真や映画などの技術によって作られた芸術からは、この「アウラ」が消える、みたいな話をしています。

芸術が礼拝される対象から展示して鑑賞されるものへと変わったときに何が起きたかというと、「芸術作品を観る場所」が変わった、といえます。「複製技術時代」をむかえる前、芸術作品、つまり絵画や彫刻はどこにあったかというと、教会やお寺や王様のお城にありました。それが、近代以降、芸術作品を鑑賞する場所として真っ先に思い浮かべられるようになったのは、財を成した個人が所有しているケースもありますが、何といっても「美術館」ですよね。「芸術」とよばれているものを、だれが、どこが所有するようになっていったかというのは、つまり「権威」がどこからどこへ移っていったかという話と同じです。

しかし2014年、時代はさらに進んで、現代はもう「複製技術」どころの話じゃなくなってるわけですよね。Twitterとかで面白いツイートが何万とかいう単位でリツイートされていくのを見ると私はちょっと頭がクラクラしちゃうんですけども、昔むかしそのまた昔、まだ印刷技術というものが発明されていない頃、人々は聖書の言葉を一字一句手書きで書き写して、それを配布していったというじゃないですか。そういう時代の人々からすると現代の私たちがやっていることというのは当たり前だけどありえないことで、芸術的なものに対する価値観だって変わってきて当然、と思うんです。私たちが生きる世界で、ベンヤミンのいう「アウラ」はもうほとんど消えかかっています。

芸術作品が礼拝される対象から展示される対象になり、教会やお寺の所有から美術館の所有へと変わっていった。ではこの後、何が起こるかというと、芸術以外のいろんな文脈でもいわれていることですけど、私はこれからは”個人の時代”がやってくるのかなぁなんて考えました。

芸術という「概念」は、もうすぐ死ぬかも

メルマガで岡田さんはメトロポリタン美術館に行った話をしていますが、興味がなかったから、退屈だったから、「一直線に入ってそのまま帰ってきた」といっています。もう現代はグーグルマップストリートビューとかでお散歩気分も味わえるし、わざわざその場に行かなくてもいいじゃん、行っても面白くなかったら別にUターンして帰ってきてもいいじゃん、というのはまぁそうかなと思うんですよね。私はもちろん芸術脳なので、「いや、ストリートビューじゃダメなんだよ、なぜなら……」ということを3000字くらいで暑苦しく語ることもできなくはないですが、実際そういう話も「【NYひとり旅/8】MoMA 身体を拘束し、移動すると感動する。 - (チェコ好き)の日記」でしてますが、「ストリートビューでいいじゃん」と考える人たちの勢いを止める自信は正直なところ、なかったりもします。

で、そんな岡田さんの話を読んだとき、芸術作品が展示される場所としての「美術館」は、100年後には消えてなくなってるかもしれないなぁ、なんて思ったんですよね。美術館という場所は、確かに退屈といえば退屈だし、興味ないから帰りたいといわれたら、それ以上引き止めることはできません。そんな退屈で面白くないところを、人間がずっと保っていられるわけがないです。そして、美術館が消えるということは、今私たちが想定しているような「芸術」という概念が死ぬ、あるいは大きく変わるということです。

ただし当たり前だけれど、美術館という場所や芸術という概念が死んでも、これまでに作られてきたフェルメールピカソの絵画そのものが消えるわけではないし、どんなに技術が発達したとしても、人は何かを描き、石膏を削ることをやめないでしょう。私が何となくこうなるんじゃないかなーと思っているのは、かつて教会やお寺にあった芸術作品が美術館へその設置場所を変えたように、今度は美術館から個人へ、所有が流れるんじゃないかなということです。個人が所有するようになったら、おそらく権威も何もない。あくまで私の妄想ですが、ここへきて芸術は、初めて「権威」から解放される時代がくるんじゃないかと、そんなことを考えました。

個人所有といっても、お金持ちが現代アートをコレクションするみたいなのとはちょっとちがくて、あれですよ、今流行りの「シェア」。あれが芸術分野で起きても何もおかしくないと私は思っていて、というかもしかしたらすでにあるのかもしれないですけど、1億円する絵画の所有権を1000人でシェアするみたいな、そういうことがそのうち起こりそうだなと思いました。もしそうなったら私はルドンとモローの絵画の所有権を買いたい。で、観たいときに海外のどこかの倉庫へ会いにいって、どこかの雑誌でその絵画の特集を組みたいとかいわれたら1000人でガチャガチャ相談して貸してあげて、みたいな、そういうことがありうるなと。

今の私の稼ぎではどう考えてもフェルメールやらピカソやらの絵画をたった1人で所有することは一生叶わなそうなのですが、1000人でシェアの1人にだったらなれるかもしれないです。で、たとえ1/1000でも、所有権を持っているんだったら、その絵画について何か一言いいたくなるのが人情というやつだと思うんですよね。これまでは超お金持ちか、美術館しか所有できなかった芸術作品を、一介の個人が所有できるようになる。すると、これまで芸術作品が纏ってきたような「アウラ」とか「権威」とかが、おそらく一気に剥がれ落ちるんじゃないかと、そんなことを考えました。

たとえば、このブログをここまで読んでくれている人に、「ラッセンフェルメールどっちが好き?」って聞いたとすると、だいたいの人は試されているようで嫌な顔をしながらも「フェルメール」っていうと思うんですよね。私も、ラッセンフェルメールだったらフェルメールのほうが好きです。でもそれは、本当にラッセンの描く海のブルーよりも、フェルメールの描くラピスラズリのブルーのほうが美しいと思っていってるのかというと、そうだとは言い切れないところがあって、フェルメールのほうが権威があって美術史的に「正しい」とされているから、っていう部分も絶対にあるはずなんですよね。でもそれが剥がれ落ちて、純粋に「どちらが美しいか」という話になると、これはちょっとどっちに転ぶんだろう、みたいなワクワクがありませんか。

2016ベリースモールピース ラッセン パズルの超達人 ミラクル オブ ライフIII(50cmx75cm)
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何層にも積み重ねられた歴史とコンテクストを読まなければならない「芸術」は、もうすぐ終わるかもしれない。ベンヤミンのテクストあんまり関係ないじゃんという話でもあるし(そもそも理解できなかった部分がたくさんありますからね)、論理的に破綻しているところもあるしで、季節的に忘年会で聞いちゃった与太話だとでも思ってもらいたいのですが、何となくそんなことを私は考えたのでした。

しかし繰り返しますが、「芸術」という概念が消えても、人間は何かを創り出すことを絶対にやめません。私は「芸術作品」が好きというよりかは「人間の創り出すもの」が好きで、なぜかというとそれらには愛と憎しみと欲望がつまっているからです。こんなにわかりやすく愛と憎しみと欲望がつまっているものは他にないので、私はたまたま「芸術作品」が好きなだけなのです。

……と、何の話をしているかわからなくなってきたところで5000字をこえてしまったので、今回はこのへんで。

人類がある限り、愛と憎しみと欲望はなくなりません。

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