まだ旅行記が続いています。
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チェルシーにてマシュー・マークス、ガゴシアンなどなど有名ギャラリーをめぐった後は、地下鉄に乗ってミッドタウンまでもどり、ニューヨークに来たならまぁここは行くよねということで、MoMA(ニューヨーク近代美術館)へ。
……とその前に、MoMAのお隣にあったセント・トーマス教会も面白そうだったので入ってみました。青が印象的な、美しい教会でした。
気を取り直して、MoMAへ入場です。
MoMAは、4〜5階の常設展のコレクションが凄まじいです。20世紀美術を代表するあれやこれが所狭しと並んでおり、美術ファンとしては鼻血レベル。
まず、キュビズムを予告したといわれているピカソの『アヴィニョンの娘たち』がありますでしょ。
アンリ・ルソーの『夢』もあります。この絵画は、原田マハさんの『楽園のカンヴァス (新潮文庫)』にも出てきますね。
ゴッホもあるし、ロイ・リキテンシュタインも、もちろんウォーホルもあります。
身体を拘束し、移動すると感動する。
そんな名作中の名作がそろうMoMAのなかで、私がいちばん「これ、やばいヤツや」と固まってしまったのが、ジャクソン・ポロックでした。
ポロックは抽象表現主義の画家であり、彼の画法はアクション・ペインティングと呼ばれ……とかっていうのはまぁどうでもいいんですが、私はMoMAで現物を観るまで、正直このポロックって人の作品、どこらへんに価値があるのか全然わからなかったんですよね。ただ絵の具がどば〜ってなってるだけじゃんっていう。
実際観ても、確かに絵の具がどば〜ってなってるだけなんですけど、現実的な話として、現物だからサイズがあるわけです。ようは、デカいんですよ。絵の具どば〜を画集で観ても「ふーん」だけど、それを壁一面のサイズでやられると、「げっ」となる。
この「サイズ」の話、私は去年ロンドンのナショナル・ギャラリーやテート・モダンを訪れたときも同じことをいっていて、「またか」というかんじでもあるんですけど。
今年、この「サイズ」に加えてもう1つ、「なぜ画集で観ても何とも思わなかった作品を、現物で観ると感動するのか」という問いに対する解を付け加えましょう。それはたぶん、「その絵画を観るために、わざわざその場所まで足を運んだから」です。
これはもう完全に東浩紀さんの『弱いつながり 検索ワードを探す旅』の話なんですけど、私はこのMoMAに来るまでに、自宅から成田空港へ、成田空港からニューアーク・リバティ空港へ、そしてマンハッタンへと、ものすごい移動時間をかけて、身体を「拘束」されています。自宅で、巨大モニターか何かに(そんなの持ってないけど)原寸大のジャクソン・ポロックの作品を映し出したら、はたして同じように感動できたでしょうか。
身体を一定時間非日常のなかに「拘束」すること。そして新しい欲望が芽生えてくるのをゆっくり待つこと。これこそが旅の目的であり、別に目的地にある「情報」はなんでもいい。
『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(p84)
まさにその通りで、今はもう本もあるしインターネットもあるしで、「情報」自体はどこにいても手に入るし、いくらでも複製可能です。でも、「その絵画に会いに行く時間」は、絶対に複製できません。すぐに日常にもどることが許されず、非日常のなかに身体を「拘束」され、その絵画とじっくり向き合わざるを得なくなる。だからこそ、画集や巨大モニターでは見えない「何か」を、そこに見ることができるのです。
旅行から帰ってきた後、私はこのジャクソン・ポロックという今までまったく興味のなかった画家にハマってしまい、今あれこれ本を読み始めているところなんですけど、たぶんこれが「新しい欲望に出会う」っていうことなんでしょう。旅に出ても「知らなかった、新しい自分」なんて見つからないけど、「新しい欲望」には出会えます。それを「世界観が〜」とか言い出すと、また話がごちゃごちゃするのでやめておきますけどね。
ウォーホルに、リキテンシュタインに、ポロック。MoMAで観ることができてよかったなと思ったのはこの3名の画家の作品で、その理由は、彼らがみなニューヨークと深い関係にあったアーティストだからです。「ああ、だからここでこの作品が生まれたんだな」と、都市の空気を体感しながらわかっちゃうのです。
そんなわけで、旅行記はもうちょっと続きます。