チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

コミュニティに執着しない

これはちょっとした思考実験だ。

少し考えてみてほしいのだけど、たとえばあなたが、明日から「日本」について研究しなければならないという職務を負ったとする。ただし場所はどこでもよろしい、費用は使い放題だ、という条件つきである(いいなそれ)。そういう職務を負ったとき、さてあなたは研究の地としてどの場所を選ぶだろうか。

ある人は、「京都」と答えるかもしれない。確かに、神社仏閣に事欠かず、日本の歴史を考える上でもっとも色濃いものが彼の地にはありそうである。またある人は、「東京」と答えるかもしれない。確かに、今の日本において最先端の情報や興味深い人が集まってくるのは何だかんだいいつつ東京だから、これも妥当な判断だろう。またある人は、そういうオーソドックスな日本ではなく、もっと周縁から攻めちゃるというアイディアで、「沖縄」と答えるかもしれない。これも、一味ちがった研究ができそうでなかなか面白そうである。他、日本の孤島に行くぜとか、四国でやるぜとか、青森でやるぜとか、それぞれの答えに不正解はない。

私もご多分に漏れず、きっとつい最近までだったら、「京都」と言ってたかなという気がする。もしくは引っ越しがめんどくさいので、このまま関東周辺に引きこもり、必要に応じて沖縄や四国に短期滞在するとかを考えたかもしれない。

しかし、つい先日思いついたのは、これらがすべて不正解──とはいわないまでも、「日本」を研究するために日本人の私が選ばなくてはいけない土地は、実は日本の中のどこにもないのではないか、ということだ。今の私がもし、上記のような職務をあたえられたら、私はおそらく東南アジアのどこかの都市を答えるだろう。それはプノンペンでもいいし、ハノイでもいいし、バンコクでもいいし、ジャカルタでもいいのだけど。「日本」を考える上で、日本を今よりもくっきりと意識の上に浮かび上がらせるためには、実は日本を離れるのがもっとも有効なのではないか。今日はそんな話から始まるつれづれです。

コミュニティに執着しない

私自身もそうなのだけど、私のまわりにいる人たちは、「コミュニティに執着がない」と言う人が多い。そして、自惚れではあるのだけど、私自身も含め、こういうことを言える人々は自立心が高いのだと思っていた。まあ確かに、いいオトナがいつも同じメンバーでつるんでいたらカッコ悪いし、地元や出身大学にいつまでもこだわり続けるのも見栄えがいいと思えない。現代は何といっても個人の時代なのだし、地域や会社をこえて、プロジェクトごとに個人がゆるやかに集まり、そしてプロジェクトが終われば未練なく散っていく……というのは、クールで合理的である。

と、思っていたのだけど、「コミュニティに執着がない」とは実は、「コミュニティに守られている」ことと裏表の関係なのではないか? と考え込んでしまったのは、米原万里さんの本を読んだからである。

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

既読の人はご存知のとおり、こちらの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は、著者の米原さんが、チェコスロバキアプラハソビエト大使館付属の国際学校に通っていた頃の学友について書いたノンフィクションである。話に出てくるのは、ギリシャ人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。それぞれの詳しい話は今回は割愛するけれど、印象的だったのは、ソビエト国際学校に通っている子供たちの、愛国心がものすごく高いことだ。リッツァはギリシャの空がいかに青く美しいかを滔々と語って米原さんに聞かせ、アーニャはルーマニアの料理がいかに美味しいかを証明するためにクラスメイトたちを自宅に招く。文中に出てくるけれど、この学校に通う子供たちの愛国心が高いのはそれがスタンダードのようで、むしろ自国に誇りを持てないやつのほうがおかしいと、そういう風潮があったらしい。

自国にいないはずのソビエト国際学校に通う子供たちの愛国心が、逆にこんなに高いのはなぜか? というのは説明するまでもない話で、人は周縁に追いやられるとアイデンティティが揺らぐのだ。

本の学校に通い日本語を話す日本人よりも、外国の学校に通い外国語を話す日本人のほうが、きっと日本に対する思いは強い。前者はコミュニティの中心にいて、コミュニティに守られているからこそ、コミュニティの存在に気づかない。周縁に追いやられて初めて、コミュニティの存在に気づき、その中に自分の居場所を作ることに執着する。冒頭の話につなげると、だから私は、日本のことを研究したいなら東南アジアのどこかの都市に行くのがいいのではないか、と考えたのである。京都や東京にいてはすっぽり覆われて見えなかったものが、バンコクジャカルタでは「何でこんなことに気づかなかったんだろう?」と浮かび上がるだろう。推測だけど。


「個人の時代」と言い切れる人は確かに強い。

だけどそう言える人って、「何かに守られている人」なのかもしれない。何にどんなふうに守られているのかは、中心にいるからこそ、見えにくいのだけど。