チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

ノイエ・ザハリヒカイト 社会の「不安」が生み出す文化

わくわくする、どきどきする、うきうきする! 


そんな幸せな気分が、いついかなるときも素晴らしいものを生み出すとは限らず、かえってキッチュでくだらないものを生産してしまい、カルチャーの空白地帯になることがある。反対に、倦怠、不安、恐怖、嫉妬、絶望、一般的には好ましくないとされるそれらの感情から素晴らしい文化が生まれることもあり、これは個人であっても社会であっても同じことだ。神様は、つくづくこの世を厄介に設計したものだな、と思う。


「新しい(ノイエ)即物性(ザハリヒカイト)」、もしくは「魔術的リアリズム」。後者はガルシア・マルケスの文学作品を言い表すときに使う言葉でもあるが、前者は意味的には同じでも、1920〜30年代のドイツで生まれた芸術を指すことが多いらしい。そしてその頃のドイツ、あるいは周辺国であるベルギーやオランダをとり囲んでいたのは、「わくわく・どきどき・うきうき」というよりはむしろ、倦怠や不安や絶望のほうだったといえるだろう。いや、より正確には、その両者が複雑に混ざり合ったものだった、といったほうが正しいのかもしれない。


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フランツ・ラジヴィル 『ストライキ』 1931年


「ノイエ・ザハリヒカイト」を生んだ1920〜30年代のドイツはたぶん、真っ暗な闇の中を、わずかな灯りをたよりに手探りで、しかし超高速で進んでいかねばならぬような時代だった。西欧の工業化が進み、産業は発展するも、それらはどこか自分たちの本質を置いてきぼりにしていくような不安をともなうものだった。


不安をかき消すために、人々は歴史の中で初めて手に入れた人工の灯りを街灯にともし、大都会に輝く「夜の街」を作り出した。劇場に映画館、キャバレーにナイトクラブ。イルミネーションが彩る中で、人々は酒を飲み、歌をうたい、踊って、恋をして、時代の不安をかき消した。そしてもちろん、芸術は時代のムードに呼応する。


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A・カレル・ウィリンク 『悪い知らせ』 1932年


オランダ出身のカレル・ウィリンクは、「終末と没落の画家」とよばれる。廃墟、無人の都市、SF的幻想、悪夢、ギャグ、ブラックユーモア。陰鬱なのは絵の雰囲気だけではなく、ウィリンク自身の人生にも多分にそういうところがあったようで、絵のモデルにもしていた三番目の夫人が麻薬絡みの事件に関与し、惨死体で発見されたりしている。


この人の絵を観ているとすごく不安になるし、とてもじゃないが「いい気分」にはなれない。でも、吸い込まれるような魅力があって、ついずっとずっと眺めてしまう。まさしく、不安の時代が生んだ芸術家だ。ウィリンクがこの年代のオランダに生きていなかったらどんな作品を作っていたんだろうという疑問もわいてくるけれど、歴史に「もしも」は不要である。


明るかろうが暗かろうが、幸せだろうが絶望していようが、自由の身であろうが監獄の中であろうが、どんな環境であれ人間はおそろしいほどのクリエイティビティを発揮してしまう。明るくって、幸せなものだけが人を動かすわけではない。ノイエ・ザハリヒカイトやシュルレアリスム魔術的リアリズムの作品群を私が好きなのは、「どんな環境だって面白がってやるよ」という挑発を根底に垣間見るからかもしれない。


ところで、今って、「幸せに向かう明るい時代」なのか、「絶望に向かう不安な時代」なのか、どっちだろうな。前者のような気もするし、後者のような気もする。100年後に、今の時代に登場した作品を批評家たちが分析して、初めて答えがわかるのだろう。リアルタイムではよくわからなかったりする。たぶんそこまで生きられないし、生きたくもないけれど、答えが出るのが今からとっても楽しみだ。

「書いている」なんてレベルでは、まだまだ

私たちはだれでも、なんとなく、「ホンモノは、とても純粋だ」と思っている。お金が欲しいからとか、有名になりたいからとか、成功したいからとか、モテたいからとか、そういった感情のすべてを完全に否定するわけではない。でも、そういった感情はやっぱり不純物だと思っていて、有名になった人にかつてそういった感情があったことを知ると、ものすごく軽蔑したり幻滅したりする。


お金なんてなくてもいいし、有名になることなんて望んでいないし、成功もモテもいらないけれど、ひょんなことから人目について、話題になってしまった。全然、ねらってなんかいなかったんだけど。モデルや俳優の応募理由でよく「友達が勝手に応募しちゃって……」ってのがあるけれど、これもその典型だろう。なぜ私たちはお金や成功やモテにこんなにも否定的な感情を抱くのか、その理由を読み解くことは今回の主旨ではないので省略するけれど、いずれにせよそういった状況はある。ちなみに、私がブログを書いているのは、お金が欲しいわけでも、有名になりたいわけでも、成功したいわけでも、モテたいわけでもないよ。ホントだよ。


まあそれはいいとして、そんなふうに純粋な状況を究極的に求めるとなると、たどり着くのは「アウトサイダー・アート」になってしまうのではないかと思う。ピカソなんか、現世で金持ちになって女にモテまくってるから、レベルとしてはまだまだである。売れたかったけど現世では夢叶うことなく、死後にようやく評価されることとなったゴッホで「いいカンジ」だ。しかし、ホントのホンモノは、そもそも「金」「成功」「モテ」そういった邪心とは最初から完全に無関係なはずである。ただひたすらに、己の表現欲に突き動かされるまま描き、本人の死とともに危うくこの世から葬り去られそうになったそれを、知人が遺品の整理でたまたま発見して戦慄する。私たちはそんな、ヘンリー・ダーガーみたいなシチュエーションに、うっとりするような夢を見るのだ。


ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

だれから習うことも、だれから盗むこともなく、だれから強制されることもなく、だれから対価を支払われることもなく、ただ自分の内なる声の命ずるままに、なにかを生み出しつづける人々がいる。芸術という名の産業から遠く離れた地にあって、彼らはときに変人と呼ばれ、知的障害者と呼ばれ、霊能者と呼ばれながら、黙々と自分だけの閉じた宇宙を紡いできた。アウトサイダー・アーティスト。動くのではなく、動かされる者。作るのではなく、作らされる者。俗界のはるか彼岸と交感しつづける、孤高のアンテナ。


都築響一珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)』(p225)


Twitterやインスタグラムでフォロワーが何万人もいる人のことを「インフルエンサー」なんて言ったりするけれど、そういう人たちを前にして、私たちが頭を抱えることは少ない。「何のために毎日、ツイートや写真を発信してるんですか?」なんて疑問に思ったりしない。それが仕事だから、あるいは仕事に繋がる可能性があるから、である。フォロワーをお金で買ったり、Twitterでキラキラ女子を演じたり、インスタ映えだけを重視してかわいいスイーツを撮影後に捨ててしまったり、そういう人たちを軽蔑することはあっても、疑問を持ったりはしない。何のためにそんなことをするのか、動機は十分に理解できるし、むしろ自分の中にも少しだけそういう部分があるからこそ、あからさまな行動に出る人を糾弾するのではないだろうか。


だけど、いわゆる「アウトサイダー・アーティスト」を前にすると、私たちは悩む。上の引用で都築響一さんが言っているように、彼らは「俗界のはるか彼岸」と交感している。自分だけの閉じた宇宙を、生涯をかけて紡いでいる。フランスには「シュヴァルの理想宮」という建造物があるが、郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルがなぜこんな奇妙な宮殿を作り上げたのか、理解できる者は多くないだろう。「なんだそれ」と思った人はググって欲しいのだけど、彼は34年かけて、給料のほとんどをセメント購入にぶっこんで、周囲に変人扱いされながら理想の宮殿を作り上げた。これがホントの「好きなことして生きていく」だ、と私は思う。シュヴァルは自分の作りたいものを作るのに、だれからの評価も、対価も、名声もいらなかったのだから。


郵便配達夫シュヴァルの理想宮 (河出文庫)


19世紀後半、郵便配達夫のシュヴァルは43歳のとき、家路につく途中で小さな石に躓いた。その石を拾い上げて見てみると、なかなか面白い形をしている。石が気に入ったシュヴァルは、それを家に持ち帰る。以来、シュヴァルは石の収集がやめられなくなり、集めた石たちで自分の理想の宮殿を作ろうと思い立つ。郵便配達の仕事をしながら、勤務を終えたあとに、シュヴァルは暗闇の中でロウソクを灯しつつ、完成までの40年以上、宮殿作りをずっと続けたのである。もちろんインスタグラムなんてないので、「今日はここまで出来ました! #シュヴァルの理想宮 #めっちゃ疲れた #あと何年かかるの」なんて投稿できない。究極的に孤独な作業である。


だけど、きっとシュヴァルはこの作業が、毎日とても楽しかったにちがいない。楽しくなかったら40年以上も続かないだろう。「自分だけの閉じた宇宙」というと「無理!」と思う人も多くいそうだが、私は、それって理想的な世界だし羨ましいよな、とよく思う。動くのではなく、動かされる。作るのではなく、作らされる。自分のためでも、誰かのためでもなく。そういう流れの中で表現できているときが、たぶん人間はいちばん楽しい。


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(※都築響一さんの『珍世界紀行』の中で、私はラ・スペーコラとボマルツォの怪物庭園なら行ったことアリ)


シュヴァルが43歳デビューだったとはいえ、きっと私自身は、ヘンリー・ダーガーやシュヴァルのような作品を創造することは生涯できないだろう。だけど、市井に生きる一般人でも、ごくごくたまに、動くのではなく動かされる、作るのではなく作らされる、書いているのではなく書かされている、ような感覚に陥ることはある。そういうときは、名声を得たいという意志でもなく、他者から求められる需要でもなく、もっと別の何かが動いている。そして、完全なアウトサイダー・アーティストになることはできなくても、そういった瞬間が多く持てた人は、たぶん幸せだ。


自分の意志と他者からの需要の間で、私たちはたぶん今後も永遠に悩み続けることになるだろう。自分のやりたいと他者から求められるものの間で、妥協点を見出しつつ上手いやり方を模索するのは賢い生き方である。でもこの手の問いの本当の正解は、たぶん、自己でも他者でもない、もっと不思議な何かに動かされることだと思う。他者から「書かされる」のでも自分で「書いている」のでもなく、不思議な何かに「書かされている」。市井の人がごくたまにしか持てないその瞬間を常に保ち続けているように見えるから、アウトサイダー・アートは、やっぱり今日もすごく眩しい。

自分で「気付く」ために必要なこと

「ねえ、今すれ違った人、すごく美人だったね」。


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街を歩いているとき、一緒にいた知人にこんなことを話しかけられたとする。こういうとき、私はだいたい「えっ、そう? 見てなかった」と返す。「一緒にいた知人」というのが恋人で、ヤキモチを妬いているとかではない。女性と歩いているときでも、男友達や職場の人と歩いているときでも、だいたいこんな感じだ。ようは、街行く人なんか、私は全然見ちゃいないのである。


そんな私とは逆のタイプ、「そんな細かいとこよく見てましたね〜!?」っていう人もいる。いるだろう。ぜひ、あなたも身近な人のことを思い浮かべてみてほしい。あの場所に何があったとか、あのときあの人は体調が悪そうだったとか、もうホント、よく気付くなと思う。気付く人というのはだいたいすべてのことをよく見ていて、実は私とは目の総数がちがうんじゃないだろうか、なんて考える。私には目が二個しかついてないんだが、実はこういうタイプの人は目が六個くらいあるのかもしれない。しかし、本当にそうだったら諦めもつくんだけど、残念ながらどうもそういうわけではないらしい。


ただし、意識を向けることはできる。何も言われずにいつも通り街を歩かされたらそのままだが、「交差点を右に曲がったときポストの前にいる人に注目して」とか、「信号をわたった先にあるお店の屋根の色を見ておいて」とか、注文を入れてもらえれば反応はできる。こういうやつのことを、「焦点的意識」と言うらしい。多くの学校教育は、この「焦点的意識」を教えている。ここに注目すれば問題が解ける、ここを観察していると変化が見える、などなど。


「焦点的意識」を教えることは、もちろん意味がないことではない。ただし、学校教育であればそれでいいかもしれないが、たとえば私のような大人に「街をよく観察すること」を焦点的意識によって教え込もうとしても、キリがないし、そう上手くはいかないだろう。「これこれをちゃんと見ておきなさい」と言われたって、街の景色も自分も常に動いているから、「これこれ」のどこに着目していいのかよくわからなかったりする。

新しい視点をあたえられても世界は変わらない


1冊の本を読んで、あるいは印象に残る文章を読んで、まるで世界が変わってしまったかのような感覚に陥ることがある。「そういうふうに考えていいんだ!」という新しい視点は、世界を変えてくれる……と、私たちは思いがちだ。しかし、厳密にいうとこれはちょっと違っているらしく、ある視点をあたえられることによって一歩上の段階に行けるときというのは、すでに「学習」の段階にあるときのみに限定されるらしい。


何を言っているのかわからねーと思うので、順を追って説明すると、物事を習得する際には「発達」が必要な段階と、「学習」が必要な段階ってのがあるらしいのだ。


たとえば、あなたが唐突に、「チェコ語ができるようになりたい!」と思ったとする。なんとか教えてくれる先生を見つけて、週に一度、マンツーマンの授業を受けさせてほしいと頼み込む。すると、たぶん先生に最初にたずねられるのは、「あなた、ロシア語できる?」だ。チェコ語は文法がクソ難しく、日本語話者が習得する言語としては最難関レベルだと言われている。ただし、同じスラブ語圏の言語であるロシア語の素養があると、話がめちゃくちゃ早いのだ。私は結局「いや、ロシア語はできないっす……」と答えて当時の先生にため息を吐かせてしまったのだけど、ようは、「スラブ語圏の言語がまったくできない→1つだけでもスラブ語圏の言語を習得する」のが「発達」の段階で、「ロシア語はすでに習得している→チェコ語を習得する」というのが「学習」の段階だ。0を1にするのが「発達」で、1を2や3に増やすのが「学習」、と考えればいいのかもしれない*1


下記の本の著者である河本英夫さんによると、巷によくあるノウハウ本は「学習」の段階について書かれているものばかりらしい。確かに、ある技術について、本を読んだときは「おお、なるほど!」と思っても、いざ実践となると何も変化を起こせず、そのまま「おお、なるほど!」と思ったことすらも忘れて本は埃をかぶる……という体験をしたことのある人は多いはずだ。一方、この『哲学、脳を揺さぶる』という本は、そんな「学習」ではなく、「発達」の段階にある人を鍛えようという主旨で書かれている。


哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題

哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題


と、これが本当なら夢のような話だけど、読んでみたところまあそんな簡単ではない。言っていることはわかるんだけど、そして実際にいくつか練習問題を解いてみるのだけど、「こんなんでホントに大丈夫なのか!?」という感じである。ただ、他の人のレビューを読むと「できた、変わった、すごかった」と言っている人もいるので、私の頭が悪いだけかもしれない……。ちなみに、どういう練習問題(エクササイズ)があるのかというと、「限界まで息を吸う・限界まで息を吐くを繰り返す」とか、「俳句をつくる」とか、「スケッチをする」とか、である。


一つ「へぇー!」と思ったのは、「わかった」と思ったときに働くのは大脳皮質であり、「できた」という体験を通したときに働くのは脳幹から小脳、側頭連合野、頭頂連合野にわたる脳の広範囲だという話だ。つまり、何かを習得しようと思った際には、大脳皮質に働きかけるだけではいけない。脳幹から続く、脳の広範囲に働きかけるような何かをしなければいけない。そして、脳の広範囲に働きかける何か(体験)とは、「身体的なイメージ」のことである。そのため、この「身体的なイメージ」を拡張し、これまでの経験をリセットする、というのが本書の狙いであるわけだが、ま、難しいよね。私はそんなに上手にできませんでした。

三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために―荒川修作+マドリン・ギンズの死に抗する建築
面白いなと思ったのは、この本で触れられている荒川修作の建築「天命反転住宅」である。「天命反転住宅」では、上下が逆転している。床が頭の上にあり、天井が足元にある。キッチンや水道も上からぶら下がっており、そもそも床と壁と天井の区別がない球体の部屋とかがある。ここでしばらく過ごすと、何やらめちゃくちゃに疲れて筋肉痛になるらしい。確かに、聞いてるだけで頭が痛くなる。「水道とは自分のちょうど腕のあたりにあるもの」という経験を強制的にリセットされ、身体イメージの変化を迫られるからだろう。


子供の頃は、「経験」がないから、言ってみればこういうことの連続なんだと思う。初めてスマホの画面を触ってそれが動くとき、初めて自転車に乗るとき、初めてプールに入るとき。だけど、知識として知らないことはまだまだあっても、さすがに身体的イメージのほうは一通り経験してしまった大人にとっては、新たな身体的イメージを加えることはかなり意識的にやらないと難しい。最近は、暗室の中に入ったり自分もシールを貼ったりする参加型の現代アートをよく見かける気がするんだけど、これはたぶん、私たちの身体的イメージをどうにか更新させようと、アーティストが頑張って考えているのだろう。上手くいっているかいっていないかは別として。


最初の話にもどって、では私のような"お鈍チン"が街をよーく観察できる人になるためには何が必要なのかというと、身体的イメージに改変を加えろ、ということになる。そんなこと言われても……という気がしないでもないが、真面目な話、目が六個あると思えばいいのかもしれない。本書にも、「目の位置を変えろ」というエクササイズがある。自分は役者で街は劇場、そこに客席にいる観客の目線を足せるようになれば、確かに何かは変わるのかもしれない。


aniram-czech.hatenablog.com

*1:たぶん

恋人の写真は、遺したい派ですか?@センチメンタルな旅

先日に引き続きまたアラーキーの写真展。東京都写真美術館にて9月24日まで。こちらの「荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-」は、アラーキーの妻である陽子さんに焦点を当てた展示らしい。

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〈センチメンタルな旅〉1971年 より 東京都写真美術館

恋人の写真は、遺したい派ですか?

いきなり話をすっ飛ばすが、奥さんと出会い、その奥さんの精神が狂い自殺してしまうその日まで、彼女の写真をフィルムに焼き続けた古屋誠一という写真家がいる。

Aus den Fugen

Aus den Fugen

この人の写真展に行ったのは学生時代なのでもうずいぶんと前だけど、展示されていた妻・クリスティーネさんの写真は時系列になっていた。もっとも新しいものから、もっとも古いものへ。頭を丸坊主にした奥さん。子供を抱えてこちらを睨みつける奥さん。そして最後は、古屋誠一と出会ったばかりの頃の、無邪気な笑顔が愛らしい奥さん。なんて残酷な展示だろうと思った。

時系列が逆だったのならたぶんまだ良かったのだけど*1、辛い結末を先に見せてから、何も知らなかった最初の頃の写真にもどるというのはなかなかショックで、写真展の会場を出た後の私は、強烈に落ち込んだ。

そして、「好きな人のことを作品として遺す意味がわからない」という話を友人とした。

私はなんとなく、2人の間のことは2人の秘密にしておきたい派なのである。なので、100歩譲って楽しいときの笑顔の写真とかならいいが、自殺をむかえるまでの妻の精神が蝕まれていく様子を記録し、作品にしてしまうなんてことは到底理解できなかった。

ちなみに話をした友人は、「私の好きな人がどんなに素敵な人だったか、みんなに見てもらいたいし知ってもらいたいから、遺したい」と言っていた。これは感性のちがい、価値観のちがいである。

で、今回の『センチメンタルな旅』も、古屋誠一とはまた毛色が異なるものの、そういった「好きな人記録系」である。

「好きな人記録系」の、見てはいけないものを見てしまった感が、私はやっぱり苦手だ。そこはあんたの胸の内にしまって墓場までしっかり持っていってよ、と思う。でも、苦手だといいつつ観に行くんだから、心のどこかではこういう表現が好きなんだろう。でも私は絶対にやらないし、身近な人にもやってほしくない。でも観る。たぶん今後も。


(……と、昔言っていた)

ごはんの写真がまずそう

今回の『センチメンタルな旅』には、「食事」と題された作品群がある。亡き妻の陽子さんが、生前に作っていた食事の写真だ。

で、この食事の写真がまずそうである。「まずそうはないだろうあんた」という指摘は甘んじて受けるが、料理が下手というわけではなく、アラーキーがわざとモノクロにしたり変にどアップにしたりしながら撮っているので、まずそうというか、ナマナマしい。エロティックですらある。アンチ・フォトジェニックである。

だけど、私はまずそうな食事の表現って実は大好きだ。チェコの映画監督、ヤン・シュヴァンクマイエルも、めっちゃまずそうな食事を映画の中に登場させる。彼は食べることが嫌いで、子供の頃は食事の時間が嫌だった、と語る。私も同じだったからすごくよくわかる。

小2のとき、給食を食べきれなくて残そうと思ったら担任に「残すな、食べろ」と言われたので、昼休みに遊びに行くのを我慢して一人で泣きながら給食を食べていたら、今度は「いつまで食べてるの」と怒られたことがあった。幼いながら「言ってることがめちゃめちゃじゃねえかよ」と思ったが、小2だったのでその後も泣きながら無理やり食べた。

別にトラウマとかではなくて、今は普通にランチタイムが楽しみなくらいには食べることが好きだけど、しかしあくまで幼少期に絞って食べ物の思い出をたどると、こんなことしか思い出せない。私は食べることが嫌いだった。まずそうな食事の写真や映像は、私にとって「食べる」とは何なのか、何だったのかを思い出させてくれるから好きだ。

アラーキーは、食事とは死への情事であると語る。それはちょっと、よくわからない……。

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〈食事〉1985-1989年 より 発色現像方式印画

いずれにせよ、「もしもあなたが芸術家だったとしたら、恋人や妻や夫との思い出を作品にしますか?」という問いはなかなか面白いのではないかと思う。今度だれかに会ったら、聞いてみよう。あなたもだれかに、聞いてみてほしい。

*1:これはある意味、離婚届を出すところから話が始まって、最後に2人が出会うところでラストシーンをむかえる、フランソワ・オゾンの『2人の5つの分かれ路』と同じ手法といえる。で、なぜかはわからないが私はこの手法を使われるとめちゃくちゃメンタルがやられる

東京墓情

7月23日まで、銀座のシャネル・ネクサスホールにて荒木経惟の個展「東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館」が開催されている。私は学生時代、アラーキーの写真集を図書館でよく眺めていたけれど、そういえば個展に行ったことはなかった。

「東京墓情」は、大病を経験した氏の独自の死生観が反映されているとの触書きだったが、「生」とか「死」みたいなことは正直よくわからなかった。

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東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館 Nobuyoshi Araki, "Tombeau Tokyo", 2016, gelatin silver print © Nobuyoshi Araki / Courtesy of Taka Ishii Gallery

ポートレイト

私の中で最近(?)のアラーキーの仕事といえば、村上春樹である。この写真も、今回の個展で公開されている。『職業としての小説家』の表紙になっているポートレイトだ*1

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

この写真の村上春樹は、ずいぶん健康的というか、男性的というか、マッチョである。ハルキというえばマラソン、ハルキといえば健康、みたいな認識になっている現在の状況からかえりみれば、妥当なポートレイトかもしれない。

実は私、学生時代に写真論の授業のレポートを書かなきゃいけなくて、そこで「小説家の肖像写真」の分析を行なったことがある。文庫本の表紙をぺらっとめくると著者の写真が登場することがあるけれど、小説家の写真100枚分くらいを時代別に並べてみて、そこにパターン性は見いだせるのか、人々が小説家に求めるイメージはどう変遷しているのかということを考えてみたのである。結果、何を書いたかはあまり細かく覚えてないけど、全体的には「カメラ目線であることは稀」「頬杖ついてる率めっちゃ高い」みたいなことを書いて提出した気がする。

だけどそのとき確か、ある時期を境に「うつむき加減で頬杖をつく」みたいなTHE小説家っぽい写真が徐々に減っていて、近年はむしろカメラ目線でにっこり微笑むものが増えていることにも気が付いた。そして、この傾向が今後加速するかもしれない的な予測を最後に付け足した気がするんだよな。だとすると、このカメラ目線でバシッとキメている村上春樹の写真は、当時の私の分析がなかなか的を得ていたことの証明になるかもしれない。

イエス・キリストの肖像も、時代によってイメージが変わる。まさしく神のように迷いなくマッチョなイエス像が求められる時代もあれば、人間らしく悩み迷うイエス像が人気の時代もある。小説家の肖像写真が変化しているということは、私たちが小説家に求めるイメージが変化しているということだ。小説家に限らず、近年は「不健康でアル中のクリエイター」よりも「健康でアメリカの西海岸にいてApple製品使ってそうなクリエイター」が人気アリ、というのは全体的な傾向だろう。別に優劣はないけど、傾向はある。

傾向があるということは、いつか揺り戻しが来るということだ。

メッセージ

小規模な個展には、「来訪者による作家へ宛てたメッセージ帳」が置かれていることがある。今回の展示でいちばん面白かったの、アラーキーファンには申し訳ないがこれだったかもしれない……。

荒木様、東京はすっかり一面タマネギ畑になってしまいました」というメッセージを見たときは、私はまったくタマネギに類似するものは東京にはないと思っていたので、そうか、この人にとっては東京は一面タマネギ畑なのか〜と思ったし、「これから彼とセックスしてきます」というメッセージを見たときは、楽しそうで何より、と思った。「さみしさは肥やしになりますか?」というメッセージを見たときは、どうかな、ケースバイケースかな〜と思ったし、「恋は墓です」というメッセージを見たときは、一理ある、と思った。
(※一部改変してお送りしています。)

来訪者の平均年齢は特に高いようには見えなかったので、全体的に「こりゃ本当に2017年に書かれたものなんだろうか……?」という気がしてならなかったが、時代の空気を忘れさせてしまう、というのもまた作家の持つパワーなのだろう。私が何を書いたかは秘密です。

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晩ごはん

そういえば最近、街で落書きを見ていない。私がそういう場所に近づいていないのか、書く人が減ったのか、書いてもすぐに消されてしまうのかわからないけれど、壁やトイレの落書きの文言を時代別に分析したら面白そうだ。だけどそもそも落書き自体がないのでは、分析ができない。

人が語る言葉は、時代や場によって決まる。だからやっぱり、「自分の言葉」なんてないんだろうな、と思う。

*1:偉そうに書いているが、これを撮ったのがアラーキーだってこと最近まで知らなかった……。