先日に引き続きまたアラーキーの写真展。東京都写真美術館にて9月24日まで。こちらの「荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-」は、アラーキーの妻である陽子さんに焦点を当てた展示らしい。
〈センチメンタルな旅〉1971年 より 東京都写真美術館蔵
恋人の写真は、遺したい派ですか?
いきなり話をすっ飛ばすが、奥さんと出会い、その奥さんの精神が狂い自殺してしまうその日まで、彼女の写真をフィルムに焼き続けた古屋誠一という写真家がいる。
- 作者: 古屋誠一
- 出版社/メーカー: 赤々舎
- 発売日: 2007/03/01
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この人の写真展に行ったのは学生時代なのでもうずいぶんと前だけど、展示されていた妻・クリスティーネさんの写真は時系列になっていた。もっとも新しいものから、もっとも古いものへ。頭を丸坊主にした奥さん。子供を抱えてこちらを睨みつける奥さん。そして最後は、古屋誠一と出会ったばかりの頃の、無邪気な笑顔が愛らしい奥さん。なんて残酷な展示だろうと思った。
時系列が逆だったのならたぶんまだ良かったのだけど*1、辛い結末を先に見せてから、何も知らなかった最初の頃の写真にもどるというのはなかなかショックで、写真展の会場を出た後の私は、強烈に落ち込んだ。
そして、「好きな人のことを作品として遺す意味がわからない」という話を友人とした。
私はなんとなく、2人の間のことは2人の秘密にしておきたい派なのである。なので、100歩譲って楽しいときの笑顔の写真とかならいいが、自殺をむかえるまでの妻の精神が蝕まれていく様子を記録し、作品にしてしまうなんてことは到底理解できなかった。
ちなみに話をした友人は、「私の好きな人がどんなに素敵な人だったか、みんなに見てもらいたいし知ってもらいたいから、遺したい」と言っていた。これは感性のちがい、価値観のちがいである。
で、今回の『センチメンタルな旅』も、古屋誠一とはまた毛色が異なるものの、そういった「好きな人記録系」である。
「好きな人記録系」の、見てはいけないものを見てしまった感が、私はやっぱり苦手だ。そこはあんたの胸の内にしまって墓場までしっかり持っていってよ、と思う。でも、苦手だといいつつ観に行くんだから、心のどこかではこういう表現が好きなんだろう。でも私は絶対にやらないし、身近な人にもやってほしくない。でも観る。たぶん今後も。
一人旅は絶対に旅行記書きたいしむしろ旅行記書くために出かけてるみたいなとこあるけど、だれかと行った旅行はあんまり文字にはしたくないな。前者は言葉にしないと失われ、後者は言葉にすることによって失われる気がする。
— チェコ好き (@aniram_czech) 2015年3月24日
(……と、昔言っていた)
ごはんの写真がまずそう
今回の『センチメンタルな旅』には、「食事」と題された作品群がある。亡き妻の陽子さんが、生前に作っていた食事の写真だ。
で、この食事の写真がまずそうである。「まずそうはないだろうあんた」という指摘は甘んじて受けるが、料理が下手というわけではなく、アラーキーがわざとモノクロにしたり変にどアップにしたりしながら撮っているので、まずそうというか、ナマナマしい。エロティックですらある。アンチ・フォトジェニックである。
だけど、私はまずそうな食事の表現って実は大好きだ。チェコの映画監督、ヤン・シュヴァンクマイエルも、めっちゃまずそうな食事を映画の中に登場させる。彼は食べることが嫌いで、子供の頃は食事の時間が嫌だった、と語る。私も同じだったからすごくよくわかる。
小2のとき、給食を食べきれなくて残そうと思ったら担任に「残すな、食べろ」と言われたので、昼休みに遊びに行くのを我慢して一人で泣きながら給食を食べていたら、今度は「いつまで食べてるの」と怒られたことがあった。幼いながら「言ってることがめちゃめちゃじゃねえかよ」と思ったが、小2だったのでその後も泣きながら無理やり食べた。
別にトラウマとかではなくて、今は普通にランチタイムが楽しみなくらいには食べることが好きだけど、しかしあくまで幼少期に絞って食べ物の思い出をたどると、こんなことしか思い出せない。私は食べることが嫌いだった。まずそうな食事の写真や映像は、私にとって「食べる」とは何なのか、何だったのかを思い出させてくれるから好きだ。
アラーキーは、食事とは死への情事であると語る。それはちょっと、よくわからない……。
〈食事〉1985-1989年 より 発色現像方式印画
いずれにせよ、「もしもあなたが芸術家だったとしたら、恋人や妻や夫との思い出を作品にしますか?」という問いはなかなか面白いのではないかと思う。今度だれかに会ったら、聞いてみよう。あなたもだれかに、聞いてみてほしい。