7月23日まで、銀座のシャネル・ネクサスホールにて荒木経惟の個展「東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館」が開催されている。私は学生時代、アラーキーの写真集を図書館でよく眺めていたけれど、そういえば個展に行ったことはなかった。
「東京墓情」は、大病を経験した氏の独自の死生観が反映されているとの触書きだったが、「生」とか「死」みたいなことは正直よくわからなかった。
東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館 Nobuyoshi Araki, "Tombeau Tokyo", 2016, gelatin silver print © Nobuyoshi Araki / Courtesy of Taka Ishii Gallery
ポートレイト
私の中で最近(?)のアラーキーの仕事といえば、村上春樹である。この写真も、今回の個展で公開されている。『職業としての小説家』の表紙になっているポートレイトだ*1。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/09/28
- メディア: 文庫
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この写真の村上春樹は、ずいぶん健康的というか、男性的というか、マッチョである。ハルキというえばマラソン、ハルキといえば健康、みたいな認識になっている現在の状況からかえりみれば、妥当なポートレイトかもしれない。
実は私、学生時代に写真論の授業のレポートを書かなきゃいけなくて、そこで「小説家の肖像写真」の分析を行なったことがある。文庫本の表紙をぺらっとめくると著者の写真が登場することがあるけれど、小説家の写真100枚分くらいを時代別に並べてみて、そこにパターン性は見いだせるのか、人々が小説家に求めるイメージはどう変遷しているのかということを考えてみたのである。結果、何を書いたかはあまり細かく覚えてないけど、全体的には「カメラ目線であることは稀」「頬杖ついてる率めっちゃ高い」みたいなことを書いて提出した気がする。
だけどそのとき確か、ある時期を境に「うつむき加減で頬杖をつく」みたいなTHE小説家っぽい写真が徐々に減っていて、近年はむしろカメラ目線でにっこり微笑むものが増えていることにも気が付いた。そして、この傾向が今後加速するかもしれない的な予測を最後に付け足した気がするんだよな。だとすると、このカメラ目線でバシッとキメている村上春樹の写真は、当時の私の分析がなかなか的を得ていたことの証明になるかもしれない。
イエス・キリストの肖像も、時代によってイメージが変わる。まさしく神のように迷いなくマッチョなイエス像が求められる時代もあれば、人間らしく悩み迷うイエス像が人気の時代もある。小説家の肖像写真が変化しているということは、私たちが小説家に求めるイメージが変化しているということだ。小説家に限らず、近年は「不健康でアル中のクリエイター」よりも「健康でアメリカの西海岸にいてApple製品使ってそうなクリエイター」が人気アリ、というのは全体的な傾向だろう。別に優劣はないけど、傾向はある。
傾向があるということは、いつか揺り戻しが来るということだ。
メッセージ
小規模な個展には、「来訪者による作家へ宛てたメッセージ帳」が置かれていることがある。今回の展示でいちばん面白かったの、アラーキーファンには申し訳ないがこれだったかもしれない……。
「荒木様、東京はすっかり一面タマネギ畑になってしまいました」というメッセージを見たときは、私はまったくタマネギに類似するものは東京にはないと思っていたので、そうか、この人にとっては東京は一面タマネギ畑なのか〜と思ったし、「これから彼とセックスしてきます」というメッセージを見たときは、楽しそうで何より、と思った。「さみしさは肥やしになりますか?」というメッセージを見たときは、どうかな、ケースバイケースかな〜と思ったし、「恋は墓です」というメッセージを見たときは、一理ある、と思った。
(※一部改変してお送りしています。)
来訪者の平均年齢は特に高いようには見えなかったので、全体的に「こりゃ本当に2017年に書かれたものなんだろうか……?」という気がしてならなかったが、時代の空気を忘れさせてしまう、というのもまた作家の持つパワーなのだろう。私が何を書いたかは秘密です。
晩ごはん
そういえば最近、街で落書きを見ていない。私がそういう場所に近づいていないのか、書く人が減ったのか、書いてもすぐに消されてしまうのかわからないけれど、壁やトイレの落書きの文言を時代別に分析したら面白そうだ。だけどそもそも落書き自体がないのでは、分析ができない。
人が語る言葉は、時代や場によって決まる。だからやっぱり、「自分の言葉」なんてないんだろうな、と思う。