チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

ネットの活動は実名でやるべき? 論

私は現在、このブログの活動を、(チェコ好き)という仮名で行なっています。

なぜ実名ではなく仮名でやっているのかというと、詳しい説明は省きますが、職業上の理由です。
万が一、顧客となる方々にプライベートな情報が流れると、よろしくないとされている仕事をしているからです。

では、もし職が変わったら、実名でブログをやるのか? と聞かれると……
やってもいいかなとも思いますが、いろいろ悩んだ末、けっきょく実名ではやらない気がします。

ここに書いていることを、中学や高校時代の友達にもし見られたら……やっぱりちょっと恥ずかしいからです。(笑)

★★★

ネット上の活動を実名でやるべきか匿名でもいいかという議論は、私の知らないところでも、いろいろと行われているようです。

実名制をとるべき! というスタンスで運営されているのは、ご存じのとおりFacebook
創始者のマーク・ザッカーバーグ氏は、「自分の本名が明らかになっているほうが、人は行儀よくふるまう。なので、実名制のほうがよりよいネットワークを築ける」
というような主張をしているそうです。

確かに、実名のほうが人は行儀よくふるまうでしょう。でも、Facebookやってないからよくわかんないけど、
「行儀よくなりすぎてしまう」→「おもしろくない」、という方向に動く可能性も十分にある。

少なくとも私にとっては、他人が聴いた音楽とか、食べたご飯とか、行った場所とかは、「どーでもいい」情報です。
なぜその音楽を聴いたのか、そのご飯を食べてどう思ったのか、その場所に行ってどう感じたのかとかになら興味ありますが、
そこまで書いてくれる人はあまりいません。

そこまで書くのはめんどくさいし、何より「恥ずかしい」から。
でも、その「恥ずかしい」部分を公開してくれないと、見ているほうはつまんない……


ところで、この「恥ずかしい」という感情は、どこからくるのでしょうか?
その問いに答えてくれるのが、最近読んだこの本です。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

この本では、「個人」という言葉に対して、「分人」という言葉を使っています。
「分人」とは、「個人」をさらに細かく分けたもの。

「個人」は1人の人間なので、もうこれ以上分解できないように思いますが、実は分解できるのです。
中学の友達といるときの「私」と、高校の友達といるときの「私」と、家族といるときの「私」と、会社での「私」、といったように。
この分解した「私」を、著者の平野啓一郎氏は「分人」とよんでいます。

もちろんどの「分人」も同じ比率というわけではなく、その人の価値観や人生のタイミングによって、どの「私」が大きくなって、どの「私」が小さくなるかが変わってきます。

そして、この分解された「分人」が、ふとした拍子に混ざってしまうとき、人は「恥ずかしさ」を感じるというのです。
恋人といるときの「私」と、会社で仕事をしているときの「私」が混ざったら恥ずかしい、というのは多くの人が共感するところだと思います。

SNSの欠点は、「分人」であるそれぞれの「私」が1つの名前によって、「個人」に統合されてしまうところ。

友達に見せてもOK、恋人に見せてもOK、会社の上司に見せてもOKな「私」だと、

こんくらいしか見せるとこなくないですか?

★★★

ネットでの活動を実名でやるか匿名でもいいか議論は、けっきょくのところ、その人がどういうかたちで「分人」を大切にしたいのかを考えて決めればいいと思います。
というか、そこまで考えなくとも、みんな何となく感覚で、どう「分人」を大切にしたいかをすでに決めて、行動に移している気がする。

自分の「分人」が「個人」に統合されてもかまわない場合は実名で活動すればよいし、
「個人」に統合されない「分人」をもっていたい場合は匿名で活動すればいい。
もちろん、ネット上に両方が存在してもいい。

ちなみに私は、「個人」に統合されない「分人」をもっていたいです。

★★★

平野啓一郎氏は小説家です。大学のとき課題で彼の小説を読みましたが、いまいちよくわかんなかった……

滴り落ちる時計たちの波紋 (文春文庫)

滴り落ちる時計たちの波紋 (文春文庫)

再読してみる?