チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

最後でなんだかすっごく笑う イエジー・スコリモフスキ『イレブン・ミニッツ』

イエジー・スコリモフスキというポーランドの映画監督が作った『イレブン・ミニッツ』という映画を観ました。『イレブン・ミニッツ』は今後全国で公開していくようなので、劇場情報などの詳細は公式サイトで確認してみてください。

スコリモフスキ(噛みそう)の作品は私、前に『アンナと過ごした4日間』を観たことがあって、それがけっこう好きでした。なお『アンナと過ごした4日間』は、中年男がある女性のストーカーになって部屋を監視するという話なのですが、気持ち悪さがなく悲しい気分になってくるという変な映画です……。

そんなわけで、以下は、『イレブン・ミニッツ』の感想です。

ポスター/スチール 写真 A4 パターン2 イレブン・ミニッツ 光沢プリント

これは4DXではない!

まずごく当たり前の確認なのですが、この映画は3Dでも、ましてや4DXでもない、普通の2Dの映画です。だけど、私にはなんだかこれが4DXに思えて仕方がありませんでした。というのは比喩ではなく、「あれ? 今椅子が動いた!?」と勘違いしたことが上映中何度かあったからです。普通の2Dの映画なので、椅子は動きません。あと、上映中に地震があったとかでもありません。


様々な人物の11分間を描く『イレブン・ミニッツ』予告編

なぜこんな勘違いを私がしたかというと、『イレブン・ミニッツ』の画面がものすごく計算されていて、どの映像がどんな効果をあたえるかを監督が全部ちゃんと考えているからだと思います。映像のなかにあるすべて、ホコリや壁のシミにもすべてに意味があって、ホコリや壁のシミが観客を襲ってくるみたいな映画です。ちなみに『イレブン・ミニッツ』のストーリーはというと、映画監督と女優とその夫、ホットドッグ売りのおじさん、ヤク中のバイク便男、とまったく関係のない登場人物たちがわらわら登場してきて、それがまったく関係のないまま物語が進んでいくというものです。感覚としては、ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』にちょっと似ているかもしれません。

確かに王道ではないけれど、こういうのはストーリーとしてまったく新しいかといわれるとそんなことはないし、「映像のすべてが計算されている!」といいつつも、それ自体もそこまで珍しいものだとは思いません。唯一いうことがあるとするなら、今はゴダールだって3D映画を作っていて、4DXの映画とかもある時代です。表現の幅がぐんと広がっているので、今まで問答無用で2Dだったところを「それはなぜ2Dなの?」という疑問にわざわざ答えてやらないといけない。そういう、やや面倒な仕事が発生しているのがたぶん今の時代です。

そんななかで、もし「これはなぜ2Dなの?」と聞かれたとき、『イレブン・ミニッツ』はおそらく「2Dでもここまでできるから」と答える気がします。なんか、そんな反骨精神をかんじる映画です。

最後でなんか笑う

あんまりいうとネタバレになっちゃうのですが、この映画はラストに向かってすべてが集約していきます。そして、最後でなんだかめっちゃ笑います。だけど、最後で何か面白おかしいことが起きるわけではありません。ただ、あまりにも情報量が多すぎて、脳が処理しきれないので、もう笑うしかないみたいな状況になるのです。

人間は、面白いことがあったとき、幸福な瞬間、楽しいときだけに笑うのではありません。物事を皮肉るとき、人に意地悪をするとき、そういうときにも笑います。私は大学と大学院でブラックユーモアの研究をしていたので、後者のタイプの笑いがすごく好き……というと私の人格が疑われますが、実際に好きなんだからしょうがないですね。ちなみに「ブラックユーモアが好き」って言いっぱなしだとやはり人格を疑われる気がするので念のため自分をフォローしておくと、好きなのはこういう理由があるからです。

『イレブン・ミニッツ』の最後の笑いはなんなんだろう……これもブラックユーモアの一種なのかもしれないし、何かもっと別の笑いかもしれません。ただ、ラストが本当に(笑えるという意味で)面白かったなー。あと、音楽がすごく良くて、この映画を観たあとずっとパヴェウ・ムィキェティンの音楽を聴いていました。しかし「ムィキェティン」って、ものすごく覚えづらい上に発音しにくいぞ。このカタカナ表記、なんとかならないのでしょうか。

とりあえず、『イレブン・ミニッツ』は面白かったのでおすすめです。欲をいうと、『アンナ』で牛の屍体が川をゆっくり流れていく荒廃した映像が好きだったので、ああいうのを私はもうちょっと観たかったですね。


アンナと過ごした4日間

青森で考えた『シン・ゴジラ』の感想

シン・ゴジラ』を8月の上旬に観てもう1ヶ月以上経っているんですが、観た直後は正直「これ感想とか書かなくてもいい系のやつだな」と思ってしまいました。それは決して「つまらなかった」というわけじゃなくて、むしろクソつまらなかったらクソつまらなかったが故に書きたいことが浮かぶんですけど、普通に面白かった(でも特に突出して面白いわけではない)と思ったので、「じゃあ別に何もいわなくていいや」と判断してしまいました。

そしてそのまま1ヶ月経ってしまったのですが、先日フラっと青森まで小旅行に行ったら突如書きたいことが思い浮かんだので、今回はそれを書きます。なお、結末に関して思いっきりネタバレをするので、嫌な人はこの先は読まないで下さい。

青森県立美術館成田亨

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まず、青森に着いてから真っ先に訪れたのが、奈良美智の作品で知られる青森県立美術館でした。上の写真は有名な「あおもり犬」。ここに雪が積もったりするとたぶんとても幻想的に見えると思われます。次は冬に訪れたい。

青森県立美術館、東京や都市部の美術館と何がちがうかというと、私は単純に箱の大きさがちがうと思いました。東京だと土地に限りがあるから、大きく見せようとしてもどうしてもこぢんまりしてしまうというか、いまいち迫力不足な点が否めません。だけど青森県立美術館は、最初のコレクション展のマルク・シャガールで度肝を抜かれました。マルク・シャガールの最初の3点、デカイのです。写真を載せられない(撮れない)のが残念ですが、高さ8メートルです。もう一度いいますが、8メートルです。横は14メートル。アホみたいなこといいますが、デカイってすごいと私は思います。圧倒的なデカさのものを見ると単純ですがすげー感動します。あとは、シャガール奈良美智以外の展示も、作品と作品の幅が広くて、人口密度が低い。都市部の美術館はどうしても人が密集していて鑑賞に集中できなかったりするのですが、青森県立美術館はほどよい人の入りで、終始ゆっくりのんびり自分のペースで見てまわることができました。

そして、このコレクション展のなかにあったのが、成田亨の「異形の神々」というシリーズ。成田亨とは、青森県出身のデザイナー・彫刻家で、初期の『ゴジラ』にアルバイトとして参加したり、あとは『ウルトラマン』のキャラクターデザインを手がけたことで知られています。

ジラース(未彩色組立キット)
※『ウルトラマン』の怪獣のデザインなどを手がけた成田亨

それでこの「異形の神々」シリーズを見て思ったのですが、『ウルトラマン』の奇抜な、だけど親しみやすいあの怪獣のデザインっていうのは、青森出身のデザイナーが生みだしたものなんだってことに私はなんだか納得してしまったのです。青森といったら私はずばり「恐山」(まだ行ったことない)なんですけど、東北地方って「人間以外の異形の者と共生する」という感覚が都市部よりもすごく長けているイメージがあります。『ウルトラマン』に出てくる怪獣や『ゴジラ』の一部が日本のこういう場所から生まれているという感覚が、私はすごくしっくり来ました。

シン・ゴジラ』のラストシーンについて

ここからいよいよネタバレゾーンに入るのですが、『シン・ゴジラ』では最後、暴れ狂うゴジラを凍結して映画は終わります。で、私もそうなんですが、少なくない人が「え、凍らせたゴジラどうすんの? 処分しないの? つーかこれで終わり?」みたいな感想をあそこで抱いたのではないかと思います。クソつまんなかったわけではないけど、なんか判然としないなー、所詮はエンタメだからなー、と私はブツブツいいながら映画館を出たのですが、今思うと、あそこでゴジラを凍らせたまま残したことにけっこう意味があったのではないかという気がしてきました。

「意味があった」というのは、監督の庵野秀明さんがそれを意図していたか意図していなかったかということとはあまり関係がありません。それはどっちでもいい。ただ、結果としてそういう印象を観た者にあたえた、ということに「意味があった」と私は考えます。

あのあと、凍ったままのゴジラはどうなったんだろう。処分したのか。どうやって? 動かすとなんかやばい物質が出てきたりするかもしれないし、ゴジラが目を覚ますかもしれない。それとも時限爆弾みたいに、ある種のモニュメントとして、凍ったままのゴジラは東京に君臨し続けるのだろうか。

私はなんだか、後者のような気がします。凍ったままのゴジラがそのままいる東京。もちろん万が一に備えて「ゴジラ管理部」みたいなのが政府のなかに出来て、凍結材を継ぎ足したり日々データを更新して怪獣が動き出さないように監視している。だけどゴジラは生きていて、生命活動は継続している。東京都民や日本国民は、普段はゴジラのことを忘れているけれど、ときどき上空を見上げて「大丈夫かな?」と不安になったりする。意外と観光名所になったりするかもしれません。外国人がやってきて、凍ったゴジラを背景にパシャパシャ写真を撮って喜んだりする。

怪獣映画とかパニック映画に詳しい人ならこのあたりをもっと上手く分析できるんでしょうが、たぶんこれは心理学的に読み解くと面白いんだと思います。「ゴジラ」というのは「異形の神」です。人智を超えた存在で、だけどそれと共生していかないといけない。我々の心のなかには、普段は忘れているけれど本当はいつも不安がある。科学を信じているけれど、科学を超える存在があることもちゃんとわかっている。ラストシーンでゴジラを処分していたら、あるいは凍結なんかせずにもっといい方法を見つけて爆破してゴジラをやっつけていたら、この「不安」や「モヤモヤ」は表現できません。ゴジラを完全にやっつけるラストのほうが観客としてはすっきりするんだけど、監督は意図してなのか意図せずにしてなのか、それをやらなかった。

青森で成田亨の展示を見て、私は「あのラストで良かったんだ」と思いました。今の東京に、日本に必要な物語は、おそらく「異形の神と共生する物語」です。ゴジラ原発のメタファーかもしれないし、地震のメタファーかもしれないし、あるいはもっと別のもののメタファーかもしれません。まあ、『シン・ゴジラ』がヒットしたのは単にエンタメとしてカッコ良かったからだと思いますが、「なんだかよくわからない不安なもの、怖いものと一緒に生きていかなくてはいけない」という物語がたくさんの人に受け止められて、やっぱり結果としてはすごく良かったのかもしれません。

おまけ

こちらは翌日に訪れた鯵ヶ沢の「白神の森」。白神山地の山系にある森らしいです。そこらじゅうの木にキノコが生えていたのですが、野生のキノコってグロい。最初にこれを食べようと思ったやつすげーなと思ってしまいました。

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途中で雨が降ってきてしまったのですが、雨のなか森を歩くのおばけが出てきそうですごく怖かったです。あとなんか、ときどきよくわからない音がするのもすごく怖い。クマが出ることもあるみたいです。
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「これは書くことないな」と思っていたものでも、別の場所に行くことでふとアイディアが思い浮かぶこともあるので、転地療養はやはりおすすめです。

※と、これを書いたあとにいろいろなレビューを見たら、ゴジラ原発のメタファーでもう決まりということで通ってるんですね。なんとなく3.11にこだわるのが変な気がして、それ以外のもっとふわっとした可能性を考えていました……。

自己啓発と婚活と腰痛病院

世の中には、他人のレビューや口コミがアテになるものと、アテにならないものがある。もちろん例外はいくらでもあるのだけど、たとえば、Amazonの本のレビューとか、飲食店のレビューとか、美容院の口コミとか、それらは〈比較的〉アテになる、と私は思っている。あくまで、以下で話すものに比べれば、〈比較的〉、という話にはなるのだけれど。

では他人のレビューや口コミがアテにならないものには何があるのかというと、1つは「病院」がある。それも、西洋医学でバリバリやるところよりは、東洋医学の要素が入ってくる病院……というか、整体やマッサージの店。そういうのは、どうやらあまり口コミがアテにならないと見た。

本や飲食店のレビューと、病院や整体のレビュー、両者のちがいは何か。

前者はまず、効果がわかるのが早い。本は読んですぐに面白いか面白くないかがわかるし、飲食店も、食べてすぐに美味しいかまずいかわかる。美容院も、1回行けば美容師との相性や店の雰囲気で、自分に合うか合わないかが判断できる。また、多少の差はあれど1回で使う金額がそれほど多くないから、1つ1つに対する依存心が少なくて済む。サンクコストに惑わされて、宗教のように信じてしまうこともない。

一方、病院や整体は、効果がわかるのが遅いことがある。私は幸いこれまで大病を経験したことがないので、それらの施設に定期的に通ったことがないのだけど、以下の本では高野秀行さんというノンフィクション作家が腰を本格的に痛めて、都内の病院や整体をわたり歩く様子がエッセイとして綴られている。

腰痛探検家 (集英社文庫)

腰痛探検家 (集英社文庫)

「でも、いったんよくなって痛みがぶり返すというのがよくわからないんですが……」
若先生は私の膝を押さえてゆっくり動かしながら笑顔を向ける。
「いえ、でもそれはいいことなんです」
「いいこと?」
「ええ。体が敏感になってきたという証拠です。前は痛みがあってもそれに気づかなかったんですよ」

上記の引用は、高野さんがとある整体へ通っていたときの、先生との会話だ。もし腰痛が、「痛みがぶり返すのもよくなっている証拠」なんていわれずに、右肩上がりのグラフのようにまっすぐに回復していってくれれば迷うこともないのだが、どうやらそういうものでもないらしい。今のこの「痛み」が、OKの証拠なのかNGの証拠なのかよくわからない。だから、本当はまったく効いていないかもしれないのに、ずっとずっと通い続けることになる。そうすると払った金額がかさんでいくから、中断するのが惜しくてますますやめられなくなる。なんだかパチンコみたいな話だ。

原因が特定できない

高野さんは上の整体に数ヶ月通ったのだけど、やはり腰に改善の兆しが見えず、諦めて自宅の近くの整骨院に切り替える。だけど、そこもやはりこれといった効き目がない。以降、知人や医師の紹介を経て、様々な病院、整体、鍼灸院、マッサージをわたり歩き、いわれるがままにストレッチや腹巻や瀉血や温泉などの健康法を試す。腰痛の原因も、背骨が歪んでるといわれたり、インナーマッスルが弱っているといわれたり、化学調味料が原因だといわれたり、椎間板ヘルニアだといわれたり、狭窄症だといわれたり、はては心因性だといわれて抗うつ剤まで飲む羽目になる。それでも、高野さんの腰痛は一向に良くならない。

だけど、最終的には、ある方法で高野さんの腰痛は劇的な回復を見せる。そのある方法とは……というのは本のネタバレになるから書かないけど、病院、整体、鍼灸院、マッサージ、高野さんは最終的にはそういった施設すべてと縁を切ることになるのだ。そして、劇的な回復を見せたのはいいものの、結局腰痛の原因は何だったのかは、最後までわからなかった。「なんか知らないけど良くなっちゃった」のだ。

自己啓発と婚活

『腰痛探検家』は、あくまで著者の高野さんが経験した「腰痛」にまつわるエッセイである。腰痛に始まって腰痛に終わる。それ以上でも以下でもない。だけど私は、『腰痛探検家』に「腰痛」以上のものを見てしまった、気がする。

たとえば、「腰痛」を「婚活」とか「恋愛」に変えてしまっても、ここに書かれていることと同じようなことが起こりそうな気がするのだ。婚活や恋愛が上手くいかない。きっとまわりに相談すれば、いろいろな人がいろいろなアドバイスをくれるだろう。だけどきっと、上手くいかない原因は最後まで特定できず、おぼろげに浮かび上がるだけで的を得ないだろう。また、だれかにとってテキメンに効く方法が自分にはまったく効果がなかったり、その逆も容易に起こりうる。そして、「もうどうでもいいや」と思ったときに、初めて希望の光が少しだけ見えたりする。

「腰痛」を「人生」とか「働き方」とかに変えてもいい。なんだか上手くいっていないような気がする。停滞している気がする。そんなとき、まわりに相談すれば、こちらもいろいろな人がいろいろな助言をくれるはずだ。だけど、たくさんの人がたくさんの「それらしき」ことをいっても、そのなかで本当に自分のためになるものはごくわずかである。考えてみれば人間、用意された環境も能力も性格も、だれ一人として同じではないのだ。たとえ助言をくれた人がどんなに社会的な成功をおさめている人であっても、その助言が自分にはいまいちしっくり来ない、なんてことはあって当然なのである。名医が束になってかかっても、最後まで高野さんの腰痛の原因を特定できなかったように。

私は何をいってるんだろう……ちょっと自分でもよくわからなくなってきてしまった。とりあえず、繰り返すけど、『腰痛探検家』は腰痛にまつわる痛快爆笑エッセイである。それ以上でも以下でもない。だけど、ここにはある種、世界の真実とでもいえるものが書かれている。それは何かというと、たとえ相手が名医でも、レベルちがいの成功者でも、プロフェッショナルでも、あなたのことはあなたにしかわからないし、あなたのことを決めるのはあなたしかいない、ということだ。

これはやっぱり、ちょっとした人生論の本である。純粋な高野秀行ファン以外に、今何かに悩んでいる人は読んでみるといいと思う。高野さんは「腰痛」に悩んでいるわけだけど、「腰痛」を「恋愛」に、「カイロプラクティック」を「占い」に、「鍼灸」を「ネット婚活サービス」に、適宜変換してしまえば、これはたちまちあなただけの人生論の本になる。

そんな読み方をしてるの、私だけかもしれないけど。

もう一度読む、村上春樹『1973年のピンボール』感想文

村上春樹の『1973年のピンボール』を読んだのは高校生のときだったので、もう10年以上も前です。

当時読んだ感想を覚えている限りで率直にいえば、この小説は正直何も面白くなかった。ただ私の読解力がなかったといえばそれまでですが、だってめちゃくちゃ読みにくいし、その読みにくさを我慢してまで読み解かなければいけない何かがあるようには、高校生の私には到底思えなかったのです。

が、「今読み返すとどうなんだろう?」とちょっとした好奇心を抱いてしまったので、10年経った今もう一度読んでみました。結論からいうと、面白いか面白くないかでいえば、やっぱりあんまり面白くなかった。だけどせっかく読み直したので、10年前にはできなかったこの小説における「謎解き」を今、やってみようと思います。

ちなみに、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を10年ぶりに読み返した感想も昔に書いています。

aniram-czech.hatenablog.com

時系列で考えるあらすじ

1973年のピンボール』を私が読みにくいとかんじる最大の要因は、まず時系列がぐちゃぐちゃってことです。1960年→1969年→1973年みたいに順繰りに話が進んでいってくれればいいものを、1973年の話が出てきたあとに1969年の話が出てきて、今度は1970年に飛んで、そしてまた1961年にもどって……みたいになっています。どの話がどの話の前なのか、あるいは後なのか、ぼーっと読んでいるとだんだんわからなくなってくる。話が盛り上がってきたところではぐらかされる。だから私にとってはすごく読みにくいし、つまらない小説です。

だけど、幸いなのはこの小説が「段落ごと」に場面が変わっているということです。つまり、時系列がぐちゃぐちゃでわかりにくいというなら、ブロックを解体して組み立て直すように、一度段落をバラバラにして時系列に並べればいいわけです。

まずこの小説は、大きく分けて「〈僕〉のパート」「〈鼠〉のパート」の2つがあり、それがだいたい交互に折り重なって進んでいきます。時系列がぐちゃぐちゃなだけでもわかりにくいのに、〈僕〉パートと〈鼠〉パートがあるもんだから余計わかりにくいのです。しかしとりあえず、2つのパートに分かれて話が進行していきます。

〈僕〉は現在、渋谷にある翻訳事務所に勤めながら仕事をしています。そして、〈僕〉はなぜか双子の女の子と共同生活を送っている。一方、〈鼠〉はジェイズ・バーという酒場に通い詰めて、なんだかごちゃごちゃやっています。

時系列順にあらすじを書くとするならば、まず1969年、〈僕〉はガールフレンドの直子と大学のラウンジでおしゃべりをしています。ところがその後、何か事情があったらしく、1970年に直子は自殺してしまいます。「直子が自殺した」とはっきり書かれているわけではないのがまたややこしいところなのですが、そう読み取れる描写が多いので、謎解き界のなかでは「1970年、直子自殺」が定説になっているみたい。そしてそのことに〈僕〉は大変ショックを受け、ゲームセンターにあった「スペースシップ」というピンボール・マシーンにハマってしまいます。だけど、1971年の2月、ゲームセンターが取り壊されたのと一緒に、その「スペースシップ」も姿を消してしまいます。

ピンボール・マシーン「スペースシップ」は直子の魂とつながっているらしく、〈僕〉がゲームをプレイしていると、「あなたのせいじゃない」「あなたは悪くなんかない」という声が聞こえてきます。なので、〈僕〉は直子の魂とつながったピンボール・マシーン「スペースシップ」を求めて、ピンボール・マニアの情報をもとに台を探しに行きます。そしてどうにか「スペースシップ」の台をとある倉庫のなかに見つけるのですが、直子との会話はそこで途切れています。

そして最後(本の順番的には冒頭なのですが)、1973年5月、〈僕〉は1969年に大学で直子と話していたとある駅を訪ねます。そして1973年の秋、〈鼠〉はジェイズ・バーでジェイと会話をしています。

〈僕〉と〈鼠〉、それから配電盤や双子

……というわけでここから意気揚々と謎解きに入ろうと思ったのですが、10年経った今でも、私は正直この小説全然わかんないです。まず中心に〈僕〉がいて、〈鼠〉はどうやら〈僕〉とまったく無関係の他人ではなく、ありえたかもしれない〈僕〉、パラレルワールドの〈僕〉のようです。だけど、なぜ〈僕〉の物語とは別軸で〈鼠〉の物語を進める必要があったのかよくわからないし、〈鼠〉を〈僕〉にドッキングさせて、構造をシンプルに、エピソードは時系列に並べるのではダメだったんだろうか? などと考えてしまいます。こんなに構造がぐちゃぐちゃしていることに意味があるのか、よくわかりません。あとは「配電盤」の意味は何かとか、「双子」の意味は何かとか、考えるべき題材はけっこうあるのだけど、謎解きはめんどいから私はあんまり好きじゃなくて、さっさと答えを出してくれ、という気分にもなってきます。

1973年のピンボール』は、その後の『羊をめぐる冒険』とか『ノルウェイの森』とかの準備をした小説であって、この作品単体ではあまり意味はないんじゃないかなんて思ってしまったのですが、はたして他のハルキスト──村上主義者はどう解釈しているんでしょう。私は村上春樹が好きだけど、「エッセイが面白い」とかいってる邪道ファンなので、そこらへんはよくわからないのでした。

しかし今、私のなかで〈再読ブーム〉が来ていまして、高校生や大学1・2年生のときに読んだ小説をいろいろ読み直しています。『カラマーゾフの兄弟』はKindleUnlimitedにあるので、ここぞとばかりに利用しています。

※村上主義者
村上さんのところ コンプリート版

村上さんのところ コンプリート版

なぜ松浦弥太郎さんは『オン・ザ・ロード』が好きなんだろう?

「なぜ松浦弥太郎さんは『オン・ザ・ロード』が好きなんだろう?」というタイトルを付けてしまったのですが、結論からいうと、個人の好みがすべてその人の作っているものや仕事に反映されているとは限らないし、この問いについて考えることに意味があるとは私はあんまり思っていません。だから、タイトルはただの話の枕くらいに考えてください。ちなみに松浦弥太郎さんは以下の本で、ケルアックの『路上(オン・ザ・ロード)』と、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』が好きだという話をしています。

日々の100 (集英社文庫)

日々の100 (集英社文庫)

今回はケルアックの『路上』についてのみ触れますが、『北回帰線』も私はそのうち読みたいです。『北回帰線』はミラーの自伝的小説らしいですが、性描写が過激すぎたらしく、当初は発禁処分になってしまったそうです。

※今回参照するのはこちらの本の訳です

幸福とは、安定した暮らしのこと

まず『路上』を書いたジャック・ケルアックですが、この人は「ヒッピーの父」と呼ばれていて、ヒッピーの前身のような存在「ビート・ジェネレーション」という言葉を作った人でもあります。余談ですが、Wikipediaの「ヒッピー」の項目を読んでもなんだかよくわからん! という人がもしいたら、以下の文章を読むとちょっとだけわかりやすくなるかもしれないよ〜と手前味噌ながら思います。

【日記/41】ヒッピーとバックパッカー|チェコ好き|note
【日記/42】ヒッピー文化、わかりました|チェコ好き|note

そんな『路上』のあらすじはというと、サルとディーンという2人の青年が、ニューヨークを起点にアメリカを何往復も横断するというものです。なぜそんなにたくさん横断するハメになったのかといっても、どうやらそこにあまり意味はない。どこか目的地があって、そこに到達するために移動していたのではなくて、移動自体が目的の移動だった、というのが『路上』における移動です。

この小説が発表されたのは、一九五七年のアメリカ。物語のなかでとにかく「移動」をしまくる『路上』に反して、当時のアメリカの人々は、安定した暮らしや定住生活こそが幸福である、と考えている人が大半だったらしいです*1。いちばん身近なメディアはテレビで、お茶の間で家族みんなでテレビを見ているのが幸せ。だけど『路上』は、当時アメリカで幸福と思われていたそれらの要素をすべて否定して、安定を放棄し、定住ではなく移動を求め、そこに幸福(というか快楽)を見出します。そしてその価値観が新しかったので、当時の若い人たちからの圧倒的な支持を受けたわけです。

「結婚したいんだよ」ぼくは言った。「ゆったりと心を落ち着かせてその子と暮らし、なかよくじいさんばあさんになりたい。こういうことはいつまでもつづけられないだろ──こういうムチャクチャをしてあちこちを飛び回るのは。どこかに辿り着いて、なにかを見つけなきゃいけないよな」
「ああ、そうかねえ」ディーンは言った。「何年も聞かされてきたよ、家庭とか結婚とか、心が落ち着くすばらしい暮らしとか。好きだよ、お前のそういう話」悲しい夜だった。また、楽しい夜でもあった。フィラデルフィアで入った食堂では、なんとか食費をひねりだしてハンバーガーを食べた。(p162)

上の引用にある「ぼく」とは主人公のサル・パラダイスのことで、彼は「こういう飛び回る生活もいいけど、最終的には何かを見つけて、結婚して落ち着いて暮らしたい」といいます。今でもこういうことをいう若い人はいますね。そして、それを半端に聞き流す相棒のディーン。だけど、彼らは結局そこで止まることなく、その後も車での移動を繰り返し、行く先々で女の子と仲良くなったり、マリファナをやったり、トラブルを起こしたりします。そして最終的にはもといた場所、ニューヨークへもどってくる。

「定住か移動か」という問いは、当時は新しかったかもしれないけど、現代にそれを考えることにあんまり意味はないと思います。なぜなら、どちらかで満足できない人は両方やればよくて、それが十分実現可能な世の中になったからです。ずっと一箇所に腰を落ち着けて安定した暮らしを送りたい人はそうすればいいし、世界中を飛び回りながら仕事をしたい人はそうすればいい。両方やりたい人はそれらを交互に繰り返しながら、両方やればいい。ちなみに、自分は両方やりたい人です。もっと世界のいろんなところを旅行したいと思うけど、私は本を読むのが好きなので、読書は一箇所でじっと腰を据えながらやるほうが向いてるなと思うんですよね。

だけどそれは「選べる人」の話で

で、現代日本に生きる人の大半は「両方できる人」「どちらでも選択できる人」です。両方なんてできないと思っている人もいるかもしれないけど、それは本人の心がけの問題です。だけど、そういう心がけとかのレベルじゃなくて、絶対にどちらかしか選べない、という人もいます。選べないというか、異なる選択肢があることを知らない人です。たとえば、アマゾン川の源流域で暮らす原住民、イゾラドと呼ばれる人たち。あの方々たちは、今後どうなるかわからないけど、基本的にはあのブラジルとペルーの国境でしか生きられません。文明社会と未だ接触していない彼らは、自分たちが暮らしているのは南米大陸というところで、海を渡ると他の大陸があって、そこには自分たちと異なる顔付き、異なる言語、異なる文化を持った人間たちが暮らしている……なんてことは知らないはずです。だから、現状イゾラドはイゾラドの世界以外で暮らす選択肢を持ちません。知らないからです。
note.mu

『路上』のなかにも、こんな場面があるんです。

藁葺き小屋の前の庭で、三歳の小さなインディオの女の子が指をくわえて大きな茶色い目でぼくらをじっと見ていた。「きっと、生まれてこのかた、ここに車が停まるのなんて見たことないんだろう!」ディーンはささやくように言った。「ハロー、お嬢ちゃん、お元気? おれたちのこと、好きかい?」
(中略)
「いいか、おい、この子は岩棚に生まれてここで生きる──この岩棚が人生のすべてになるんだよ。たぶんおやじがロープで絶壁を下りて洞穴からパイナップルを取ってきたり、はるか下まで行って八〇度の斜面から木を切ってきたりするんだろう。この子はずっとここから出られない、外の世界について知ることもない。」
(中略)
ディーンは苦しそうに顔をしかめて指さした。「おれたちがかく汗とはちがう。べとっとしていていつもそこにある。一年中いつも暑いんだから、汗をかいていない状態を知らないんだよ。汗といっしょに生まれて汗といっしょに死ぬ」小さなおでこの上の汗は重たそうでどろっとしていて、流れていなかった。止まったまま、上質のオリーブオイルのように光っている。「こういうふうだと魂はどういうふうになるんだよ! 悩みも、価値観も、したいことも、おれらのとはまるでちがうぞ!」(p414-415)

移動を繰り返すサルとディーンは、道中で小さなインディオの女の子に出会って、「定住か移動か」を選べる自分たちと、「定住一択」の女の子とを比べてみて、そのちがいに愕然とします。私は実は、この場面が『路上』のなかでいちばん好きです。

選択肢が多いことが必ずしも幸福につながるとは限らない──という考え方には多くの人が納得してくれるだろうと思いますが、イゾラドやインディオの女の子はその最たるものです。彼らは選択肢が極限にまでない人生を送っているけれど、彼らはそのことによって不幸なわけではない。ただ、我々とは〈ちがう〉。悩みも、価値観も、したいことも。こういうふうだと魂はどういうふうになるんだよ! と私はディーンとまったく同じことを思います。私自身の経験でいえば、自分はカンボジアを旅行していて、赤ちゃんを抱えた真っ黒なストリートチルドレンに物乞いされたとき、これを強くかんじました。

「定住か移動か」なんてのはたぶん些細なことでしかなくて、もっと根源的な問題は「選択肢があることと、ないことは何がちがうのか」みたいなことなんだろう、と私は思います。

というわけで、松浦弥太郎さんは本気で話の枕に登場してもらっただけで、やっぱりあまり関係ありませんでした。しかし最後に無理やりまとめると、「暮らしの手帖」前編集長でずっと「よりよい定住」を考えてきたはずの松浦さんの好きな小説が、「アンチ定住」「移動」をテーマにしているって、話としてなかなか興味深いと思いませんか? 「無い物ねだり」っていってしまうといろいろなことが矮小化されてしまいますが、定住する者は移動に憧れ、移動する者は定住に憧れる。これはおそらく、「選択肢がある者」の宿命です。

では、選択肢がない者は……つまり、自分が選ばなかったどちらかへの憧れを持たないということです。だけど現代日本に生まれてしまった私はそんな人生を知らないから、彼らの魂がどういうふうなのか、上手く想像できません。そして、「選択肢のない人生」を選択できなかったという意味で、私もやはり彼らと同様に不自由なのではないか、などと考えたりもします。

選択肢がある者もない者も、同様に不自由で同様に不幸である(あるいは同様に自由で同様に幸福である)──『路上』はそういう小説だ、と思うと私のなかではけっこうしっくりくるんですが、どうでしょう。

北回帰線 (新潮文庫)

北回帰線 (新潮文庫)

※これもそのうち読む

*1:池澤夏樹「ものすごく非生産的な人生」