チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「会いたい人」のいない生活

「面白い人に会いたい!」って、そういえば最近あんまり思わなくなったな、と気が付いた。



もともと、私はそこまで人に積極的に会いたがるタイプの人間ではないのだけれど。それでも、1年前くらいまでは、やっぱり「面白い人に会いたい!」って、けっこう思っていた気がする(あんまりちゃんと覚えてないけど)。


「面白い人」というのは、変わった経歴の持ち主であるとか、独特の意見や価値観の持ち主であるとか、好奇心や行動力が異常な人とか、特定のものに対する知識が膨大すぎる人とか、私の中でいろいろ定義があるんだけど、なんだろう、もうそういう人たちに会いに行きたいとはあんまり思わない。会いたくない、とはいわないけど。贅沢なことをいえば、もうそういう人には一通りぜんぶ会ってしまったのだ、と思う。


というと、いやいやお前ごときが何をいう、まだまだ世の中にはお前の知らない面白い人がいっぱいいるぞ! と思われるだろうけど。実際そうだけど。ただ、「この人と私が会ったらだいたいこういう話をするんだろう」というのがおおよそ予測できてしまうというか。これはひとえに、「私自身の会話スキルがそんなになく」かつ「私自身の引き出しもそんなになく」、つまり私自身がそんなに面白い人間ではないという点に起因しているのだけど、そういう人たちと渡り合えるさらなる面白い人間に私はなる! というつもりもあまりなく、どういうわけか、まあ、なんかもういいかな、という感じになっている。


今でもたぶん、「会いたい人に会える」というのは多くの場合、極上の体験のように語られるんだろう。「仕事を通じて憧れの人に会う方法」なんてタイトルで有料のnoteを書いたら、そこそこ売れそうだ。


まあ、とはいえ私も、神のような知人が村上春樹との会食を設定してくれるっていうんなら尻尾振ってどこへでも参りますけど……。でもそれって気分的には「記念会食」というか、墓場に持っていきたい思い出というか、いくら神のような知人が村上春樹との会食を設定してくれたとしても、私と村上春樹とはその1回きりで、その後に意気投合して友達になったりするのは無理だと思うんだよね。なぜなら私がそれに値しないつまらない人間だからさ。


……などというと、自虐ネガティブばら撒き野郎だと思われてしまうかもしれないが、私は今の状態が、実はけっこう好きなのだ。「面白い人に会いたい!」と渇望していた時期よりも、安定感や満足感がある。


私自身のことを離れて時代の流れ的なことをいうと、多動とか多拠点生活とかノマドとか、そういう「軸足を持たない生活」みたいなものへの憧れが1回落ち着いて、あまり動かないことであったり、1つの拠点で頑張ることだったり、オフィスの素晴らしさだったり、そういうものへの良さが見直されているフェーズなのかなと思う。私も、「オフィスって最高じゃない? 毎日同じ場所で、同じ人に会えるってマジ最高じゃない?」という超保守的な発言をしてしまった。



もうちょい人間味のあることをいうと、「横展開」に飽きたので「縦深堀」に集中したい、という話でもあるのかもしれない。毎日会うような人でも、すでに何年も付き合いがあるような人でも、お互いに知らないことってまだけっこうあるもんだ。そういう馴染みある人たちの話を聞いていたほうが、今はなんだか面白い。


とはいえ、繰り返しますが村上春樹との会食を設定してくれる神のような知人からのお誘いはいつでも首を長くしてお待ちしておりますので、村上春樹とコネクションができた方はぜひとも! 遠慮なくお声がけください。


冗談はさておき、「(新規の)会いたい人」がいない生活、けっこういいものだよ。まあ、新しい人・モノへの興味を失うことは「老い」と直結しているような気がしないでもないので、これが人にすすめられることかどうかはわからないが。


そんな感じで、今は日々を、噛みしめている。

わたしが見たいセカイだけを、見せて

この1週間、ブログのことをすっかり忘れてバタバタモタモタしていた。だからこの文章は、ただ更新を滞らせないためだけに、めっちゃ慌てて書いている。


そのため、誤字脱字、論旨の不明確な点などがあってもご容赦いただきたい……のだが、それだといつものエントリは誤字脱字もなく論旨も明確であるということになってしまうので、それはちがうけど、誤字脱字と論旨が不明確なのはいつもだけど、えーと、まあいいや。本題。


今年に入ってから、政治面で過激な思想を持っている人をよく見かけるようになった。「見かける」というのは主にネットでだけど、リアルでもたまにそういう人に遭遇する。


「過激な思想」というのは、直接的な言葉を使うと、いわゆる「嫌韓」「ネトウヨ」というワードでくくれるような人たちのことだ。


思想面でとやかくいうとややこしいことになるので控えるが、この人たちはとにかく、韓国に関わるニュースを見たくないらしい。韓流、K-POPなんてもってのほかだし、政治でも経済でも、とにかく韓国に関わるものを目に入れたくないようなのだ。


「それってどういうことなのかな?」と、ずっと疑問に思っていた。


私はいわゆる「過激な思想」の持ち主ではないのだけど(韓国のヒップホップなんて、今めちゃくちゃ面白いんだろう。調べたい。全然詳しくはないけど)、もし仮に韓国を本当に「敵国」だとするなら、むしろ敵状視察が必要では? 相手の国の政治経済はもちろん、音楽も文学もメディアも食文化も徹底的に調べ上げないといけないのでは? ソウルや釜山に何度も足を運んで、地元の人と会話をしつつ、現地を視察しないとダメでは? 韓国語も勉強しなきゃ話にならない。私がもし「過激な思想」の持ち主だったら、絶対にそうするけど……


「結局、戦うつもりなんてないんですよ」


その疑問を友人にぶつけたら、上の答えが返ってきて、「ああ、そっかー」と思った。


「わたしが見たいセカイだけを、見せて」なのだ。戦おうとも思っていないし、ぶつかろうとも思っていない。不快に感じるものを、視界に入れたくないだけなのだ。しかも、自分が「不快」に感じるその理由を、掘り下げようともしないままで。


なにもこれは、「過激な思想」の持ち主だけではない。よくわからないものについて、知ろうとしない。理解しようなんて思わない。ただ、目の前を行ったり来たりしないでほしい。


そういう空気を、いろいろな方面からひしひしと感じる。


「ちがうクラスタの人たちと、ぶつかろう、戦おうなんて発想は、そもそもないんです」


と、言っていたのは、「過激な思想」とはまったく関係ない子だけれど、20代前半の若者だ。そうね。戦わないという選択は、平和主義は、クールで合理的だ。


ここで、「でもさ……」なんて言い出したら私は老害かな。そもそも、「過激な思想」の持ち主さんたちと前途ある優秀な若者を結びつけるのは、それを言ってる文脈がちがうので、ちょっと強引かなって気もする。


あまり納得してもらえないかもしれないけど、私だって「いざ開戦!」なんて言いたいわけじゃないよ。これでも、けっこう平和主義だし、クールで合理的なつもりなんだ。ただ私は、よくわからないものを理解しようともしないで排除するセカイや、何かを不快に感じてしまったとき、「なぜ自分はこれを不快に感じるのか?」を掘り下げようともしないまま視界からシャットアウトするセカイには、住みたくないなっていうだけ。


それぞれが、それぞれの住みやすいセカイを実現するために、明日からもお互い、引き続き頑張ろうね。私はね、そりゃもう、めちゃめちゃ頑張る。


※このエントリは時間がないばっかりにいつもならオブラートに包んで包みまくることを直接的に書いてしまったので、ボヤが起きたら消しまーす! 

いろいろなお知らせと「Twitterでやれ」と思うこと

お知らせと日記です。

お知らせ① DiGITALISTで「旅」について考える連載を始めました

project.nikkeibp.co.jp

今ある「旅」のイメージって、娯楽であったり仕事と関連してるカッコイイやつだったり自分探しだったり……みたいなのが主だと思うのですが、私たちが想定しているようないわゆる「旅」が成立したのって、観光が産業として成立した19世紀以降。実はそんなに歴史が古いわけではないんだよね〜という部分からいろいろ考えたくて、始めさせてもらった連載です。月に1〜2回のペースで更新される予定。


公開されている第1回は、古代と中世の旅の様子について考えています。第2回は、江戸時代の旅と西洋近代のグランドツアーについて書きます。

お知らせ② noteで創作グループの活動記録を公開しています

note.mu

小説を……書いている……という話はブログでもしていたのですが、11月25日の文学フリマ東京会場でこちらの販売をする予定です。


きっかけは、今年の冬にWaseiの編集者ミキオサナイさんと、「実は小説を書いてみたかったんだよね……てゆーか、行き着く先は小説しかなくない……?」と告白しあったこと。


創作は、たった一人で孤独に行なうものです。だけど、我々は素人であるが故に編集者もお尻を叩いてくれる人もいない。なので、同志を募って、締め切りと目標を設けたら、もう少し活動がしやすくなるんじゃないか。創作という作業自体は超孤独なのだけど、グループでやったら意外と上手くいくかもしれないねと思って、5人が集まることになりました。


以下は日記です。

2018.9.25 「Twitterでやれ」と思うこと

とある有名な人のブログを見る。昨今目にするブログはだいたいコメント欄が閉鎖されているが、その人のブログは、そのエントリだけ? が質問を受け付けるために特別にコメント欄が解放されていて、たくさんの人のコメントがついていた。


「質問を受け付けるために」コメント欄を解放していると本文に書いてあるのだから、素直に著者への質問をするのが筋だと思うのだが、まあ、自分語りの多いこと多いこと。質問をするための前提情報として自分語りをせざるを得ないことはあるし、そういうのだったらいいんだけど、自分語りだけをガーーっと書いて、「え、で、質問は!?」と、聞きたいことが最終的に書かれていないケースも少なくない。私は図々しくも、こういうのにかなりイラっとしてしまうタチだ。


自分語りは楽しい。それは私も認める。だから、いついかなる場所でもやるなとは言わない。でも、それを有名人のブログのコメント欄でやらないで! Twitterでやれ! 自分の!!!


自分のTwitterとブログは、ある程度ナルシスト全開で「垂れ流し」になっていてもまあ許容していいと思う。なぜならTwitterにはミュート機能やフォローを外す機能がついていて、こちらからも「嫌なら見なければいい」と言えるからである。もちろん猥褻画像を流すとか、あきらかに度を超えたものはNGだけど、見ているのは見ている人の責任である。自分のブログも同様、ある程度は開いたほうの責任である。


でも有名人のブログのコメント欄とか、有名人のツイートへのリプライとかは、あなたの話が聞きたくて集まる人の場じゃないから……そこで自分語りをしないでくれ。イベントの質疑応答タイムとかで質問に見せかけた自分語りをする人も私は大嫌いだ。いや、質問に見せかけてくれるならまだいいんだけど、質問してないケースもあるからね、繰り返すけど。


……と、そんなどうでもいいことでクサクサしていた。みんな、自分の話がしたいんだな。でも、自分の話を聞いてくれる人を探すのって、めちゃくちゃ大変だ。誰もがアルファブロガーやアルファツイッタラーやエッセイストや小説家になれるわけじゃないし、居酒屋で話を聞いてくれる友人だって、そう簡単には手に入らない。


でも、夜のお店で金払って自分語りをするおっさんにだけはなりたくないな。まあこの人たちは、お金という対価を払っているんだから、ところかまわず自分語りを始める人たちよりはまだマトモともいえるけど。


話、聞いてほしいよね。それは知ってる。自分語りってなんであんなに気持ちがいいのかな。


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美容鍼を打ちに行ったが効果はあまり感じられなかった

直近1週間の日記です……が、掲題の日の日記が長くなってしまったので、3日分だけ。

2018.9.15 借りた本が面白い


借りた『エピソードで読む西洋哲学史 (PHP新書)』がすっごく面白いので、部屋で声を出して笑う(人に見られるとまずい姿)。扱ってる哲学者はデカルトスピノザ、ルソー、アダム・スミス、カント、ヘーゲルマルクスサルトル、他多数。


本当に、みんなしょーもないことで悩み(後輩への嫉妬とか)、しょーもないことをやらかし(主に色恋沙汰)、しょーもない感じで生きている。歴史に名を残した哲学者ですらそうなのだから、私たちがしょーもないのは当たり前である。思想のことでいうと、私はカントはきちっとしてて嫌いじゃないけどちょっとマッチョすぎる気がして、なんかハイデガーとかがお気に入りかな。親鸞とか(西洋哲学じゃないが)。


ポジティブに、いついかなるときも堂々と太陽の下を歩き、大好きな人たちと笑顔でいたいのはやまやまだが、人間は「しょーもない」のがデフォルトだからな。なかなかそういうわけにもいかないね。しょーもなくてもいいじゃん、そういうもんだし、と最近の私はよく思う(やっぱり親鸞ぽいな、これ)。

2018.9.18 美容鍼を打ちに行ったが効果はあまり感じられなかった

たまに雑誌とかテレビで、「顔に美容鍼を刺してみたビフォー/アフター」みたいな画像を目にすることがある。美容鍼じゃなくても、小顔マッサージの類とか。でもその度に私は思うんだ、「え、これビフォー/アフターそんな変わってなくない?」と……! 


しかし、みんな口々に「フェイスラインが引き締まった!」「目がはっきり、大きくなった!」などというので、そこに口を挟むのは「王様は裸だ〜〜!」級の空気の読めなさというか、勇気というか、野暮さというか、まあいろいろなアレが必要なわけである。


即席ビジンのつくりかた (ワイドKC)

即席ビジンのつくりかた (ワイドKC)

(※東村アキコさんのこのマンガは、マンガとしては面白かった。マンガとしては)


でもほら、写真だとよくわからないこともあるしネ。写真だと「気のせいでは?」レベルのちがいしかなくても、肉眼で実際に見ると本当にフェイスラインが引き締まったりしているのかもしれないし。何事も、やらずに/観ずに/読まずに批判するのは良くないって私はいつも思うんだよネ。だから行ってみたわけです、モデルさんとかも通っているらしい某有名キラキラ美容鍼サロンに。週末に友人の結婚式が控えているので、ここらでひとつ、顔をシュッとできるものならシュッとさせておくというのも得策なのではないかと。


私が行ったところは、鍼はもちろん刺してくれるんだけど、その前後にマッサージとかもしてくれる。施術自体はたしかにすごく気持ちよかった。でも、「ここの硬い部分は、みなさん骨だと思われてる人が多いんですけど、"コリ"なんですよ!」と集中的にグリグリやられた部分に関しては、「いや、そこは骨だよ」と心の中で突っ込んでしまった……。そこは、骨だよ!!!


そして気になる施術後の結果だけど、私もビフォー/アフターを写真に撮ってもらったし、目をかっぽじって鏡をよぉーく見てみたんですが、「うん、変わってない!」と思いました。これで長年の謎が解けた、やっぱりこれは気のせいだ! もちろん個人差があるものだろうし、「お前の目が節穴なだけだろ、どう見てもフェイスライン引き締まってるだろうが!」という意見もあるかもしれないし、こちらのサロンと私の相性が合わなかっただけで、他のサロンでは本当に効果が出るのかもしれない。


いろいろな可能性は考えられるけど、私はスッキリしたのでよかったです。フェイスラインがじゃなくて、長年の疑問がね! 上手いこと言っちゃったな!

2018.9.19 朝から胃が痛い

ジェンダーや政治思想に関する話題は、発信するのはもちろん、目にするだけで正直しんどいときもある。誰かが怒っている姿は、それが自分に向けられた怒りではなくても、あまり気持ちよく見ていられるものではない。もちろん、必要な怒りであり、誰かが声を上げなければいけないことであると十分に理解している。むしろ、何回か書いているけれど、私は基本的には「もっと怒るべき、声をあげるべき」という意見の持ち主なのだ。


それでも、この状況しんど……と思ってしまうことはある。ジェンダーと政治思想、触れたくねえ〜〜! この話題スルーしてえ〜〜! と、正直いつも思っている。思っているだけでなく、実際にスルーしている。大半は。なんか、体力が削られるんだよね……



しかし、今回の新潮45の件はちょっとスルーできず、新潮社出版部文芸のアカウントを応援したい気持ちが生まれた。私も何か言おうかなと思ったけど、Twitterはもはやチラ裏ではなく公共空間である。私は不用意な発言をしてみんなに怒られることがままあるので(本当にいつもすいませんね)、言いたいことはいろいろあるけど何をどう言おうかなと考えているうちに時間が過ぎてしまい、結局ブログに書くことにした。


声を上げることは必要だ。でもなんとなく、今のやり方じゃダメなんだろう、と私は思っている。新潮45からしたら、左派やリベラルを自称する人間は、今のところ「感情的になって不当な言論弾圧を加えてくる悪者」に見えているだろうから。悪者ではなく、対話できる者として見なされないといけない。「なんでこっちが折れなきゃいけないんだ!?」という意見もあるだろうし(折れる、というわけではないと思うんだけど)、私の考えはきっと、左派やリベラルの意識が強い人間からは不評だろう。でも、個人的には、保守層に届く言葉──というのを考えたい気持ちでいる。


まあ、私は文化系ブロガー・ライターなので、政治的な文章を書く予定はなく、考えたところでどこで使うんだよという話ではあるのだけど。個人的に。

名は体を表す不思議な話

「あなたのMarinaって名前は、本名? 日本人なのに、イタリア人みたいな名前ねえ!」


旅先のイタリアの宿で女主人に微笑まれ、私は苦笑いをして視線をそらす。


名前のことをヨーロッパで突っ込まれるのはすでに何回か経験しているが(アテネでは「ギリシャ人みたいな名前ねえ!」といわれた)、いつもなんて返したらいいかわからない。最初は「西洋にかぶれた意気がった東洋人だと思われてるのか!? 遠回しにウチの親がバカにされてるのか!?」と被害妄想でいっぱいになったが、向こうはいつもニコニコしているので、きっと悪気はないのだろう。


南イタリアを旅行中、Marina,Marina,Marinaと街中で何度も呼ばれ、そのたびにびっくりして振り返る。もちろん自分が呼ばれたと思ったのは私の勘違いで、彼らは私の背後にいる、別の「Marina」を呼んでいる。でも、そんな勘違いのたびに不思議な気分になって、私は前を向き直す。



大学4年生のとき、チェコ映画卒業論文のテーマにしようと思って、ヴェラ・ヒティロヴァの『ひなぎく』を観た。岡崎京子的なるものの代表(?)として今日もガールズムービーの金字塔として名高いこの作品、2人の女の子主人公の名前はともに「Marie」である。



ひなぎく


当時習い始めたチェコ語のレッスンで、何冊もチェコの絵本を読む羽目になったが、チェコでも「Marina」という名前は女性にとっても多い。遠い国の絵本に、自分と同じ名前の人物が登場しているのはやっぱり不思議な気持ちだ。私がチェコ映画を研究しようと思ったのはヤン・シュヴァンクマイエルという最近になって引退表明をしたおじいちゃん映画監督がきっかけで、ただの偶然である。でも、Marina,Marieという名前をたくさん目にしていると、これは何かの運命に引き寄せられた結果なんじゃないかと、おかしな思い込みにハマりかけてしまう。


私がチェコ映画を研究して、後年ほんの思いつきで「チェコ好き」というハンドルネームを名乗って文章を書く仕事を始めることになったのは、すべて運命だったのではないのかと。

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自分でも気になって、Marinaがどのあたりに分布している名前なのか、調べてみたことがある。すると、やっぱり東欧・南欧の女性に多い名前らしい。西欧にもいるっぽいが、あまりメジャーではないと見た。私は大学院時代に仏文ゼミに出入りしていた関係で西欧文化も好きなのだけど、あのシュッとしたオシャな感じよりも、ドロドロと仄暗くて、美しさと醜さと愛と憎しみとが入り乱れている東欧・南欧文化に、よりシンパシーを感じている。



まあでも、いちばん好きな作家はスコット・フィッツジェラルドだし、最近はアメリカ文学にご執心だから、やっぱり運命とかじゃなく偶然かな。しかし、私は旅と読書が好きだけれど、国内旅行には疎くて四国と九州にはまだ足を踏み入れたことがない(北海道は高校の修学旅行で行った)。国文学もほとんど読んでいない。いや、読んでるは読んでるが、なんか「私ね! これが好きで!!!」と熱く語りたくなるものがない。夏目漱石の『虞美人草』は例外的にめっちゃ好きなんだけど。ちなみに村上春樹は海外文学としてカウントしている。あれは国文学ではない(※異論は認める)。


すべてを名前に関連付けるのはいささか強引だけど、名前って、もしかしたら思った以上にその人の人生を左右しているのかもしれない。「主格決定論」といって、名前が性格や職業に大きく影響する可能生についてはすでにいくつかの研究結果があるらしい*1


東欧・南欧の旅で名前を突っ込まれるたびに、映画や小説で自分と同じ名前を見つけるたびに、私はきっとこの地方に縁があるように生まれついたのだ、と思うのだった。


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