チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

AMの連載でとり上げた本のまとめ(No.11〜20)おすすめ優先度付き

AMでやっている連載がたまってきたので、紹介した本のまとめ。第1回から10回までは前に書いたので、今回は11〜20回分の連載をまとめます。


aniram-czech.hatenablog.com


ところで、私がAMで取り上げている本は、そのほとんどが「新規で読んだ本」です。昔から知っていた本を取り上げているのではなくて、いってみればこの連載のために、私も新しく読んでいるわけ。だから心境的には、読んでくれている方々と一緒に勉強している感覚です。


実は、私は個人では女性作家の本をほとんど読まない。もちろん意図的に避けているわけではなくて、気が付いたらそうなっていた、という話なんだけど……。まあ、私は根がマッチョ野郎だからな。でも、AMではなるべく女性作家を取り上げようと思っていて、私自身も今まで手に取ることのなかった本に触れる良いきっかけになっている。そういうわけで、「これをチェコ好きに読ませたい」と思う女性作家の小説・エッセイがあったらぜひお知らせください。

第11回 私が可愛くなれば世界は変わる? ルックスに関する真実とその対処法

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き

おすすめ優先度 ★★☆☆☆

今年はなんとなく、「ルッキズム」についてよく考えている。何かきっかけがあったのか? といわれると別にないんだけど。いわゆる外見的な美しさを持つことが人生にどの程度有利に働くのか、あるいはその美しさを後天的に作り出すことはどの程度可能なのか(美容・メイク・整形・ダイエット等で)。女性とルッキズムをめぐる問題については、下半期も引き続き考えていきたい。

ちなみに私自身は決して美人ではないんだけど、実は外見的なコンプレックスってあまりない。たぶんコンプレックスを感じないといけないようなシーンに、人生であまり巡り合わなかったのだと思う。幸運だ。でも、コンプレックスはないけど理想の顔はもちろんある……それはミス青山学院の山賀琴子ちゃんです。今世で徳を積んで来世であの顔になりたい。外国人ならキャリー・マリガンエリザベス・デビッキ

第12回 「私たちは知ってるけど男性は知らない女の子」に光を当てたヌードモデル

兎丸愛美 写真集 きっとぜんぶ大丈夫になる

兎丸愛美 写真集 きっとぜんぶ大丈夫になる

おすすめ優先度 ★★★★☆

ヌードモデルというとエロ系を思い浮かべてしまうけど、女性に人気のヌード写真を数多く世に送り出している兎丸愛美さんについて書いたもの。兎丸さんは、いわゆるわかりやすい美人ではないと思うんだけど、めちゃめちゃ雰囲気があってじーっと見ちゃう。今まで紹介した本の中では唯一の写真集なので、「文字量の多い本はちょっと」という人にもおすすめです。

第13回 弱さはむしろ寛容に繋がる。目指すは「完全ではない大人」

小泉放談 (宝島社文庫)

小泉放談 (宝島社文庫)

おすすめ優先度 ★★★☆☆

他人にぜんぜん興味を示さないため、相談を持ちかけられることがほとんどない徳無し人生を送っているわたくし。でも、昨年末くらいから状況は改善されつつあり、最近はたまに相談? 打ち明け話? をしてもらえるようになりました。人徳というものをようやく身につけたか……と一息つきましたが、単純に年の功かもしれません。

第14回 恋に惑わされるのはあと何年? 恋愛と性欲の関係について

米原万里の「愛の法則」 (集英社新書 406F)

米原万里の「愛の法則」 (集英社新書 406F)

おすすめ優先度 ★★☆☆☆

AMというメディアの性質なのかもしれないが、性欲やセックスの話はよく読まれるらしい。そういうのって下世話なものになりがちだけど(いや、下世話なやつも必要なんだけど)私は恋愛と性欲はけっこう真面目に考えてもいいテーマなんじゃないかと思っている。恋愛には性欲が必要だと思うんだけど、結婚に性欲は必要だと思いますか? なんてアンケートをもしとったらけっこう意見が割れそうですよね。

第15回 大騒ぎするか、静かに過ごすか。つらい時期の乗り越え方

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

おすすめ優先度 ★★★☆☆

落ち込むことがあったら、酒をみんなでわーっと飲んだりカラオケでわーっとはしゃいだり……するのも一興だと思うのだけど、酒が飲めない、少食、常時テンションが低い私は、落ち込んだらひたすら家でじっとしています。で、自己弁護のようだが、そういう過ごし方も悪くないらしいよという話。家でじっとしながら何しているのかというと、読書、Netflix、料理です。

読書とNetflixはまあ趣味もあるので置いとくとしても、料理はおすすめ。お金もかからず体にいいぞ。少し元気になったら、体を動かすのもいいかもしれないですね。

第16回 「結婚したいなら現実を見ろ」?──いえ、現実は見るのではなく変えるんですよ

勝手にふるえてろ (文春文庫)

勝手にふるえてろ (文春文庫)

おすすめ優先度 ★★★☆☆

女性向けファッション誌ってたまに見るぶんには楽しいんだけど、常時摂取していると息苦しくなってくるのは私だけでしょうか。恋愛至上主義、結婚至上主義、欲望の圧がすごい。子育てママ向けのVERYなんかはちょっと違うのかな? という気もするんだけど、基本的には新しい価値観を提示するよりは既定路線を強化する雑誌が多いですよね。

これはAMで書いた話からは少しずれるけど、もうしばらくするとファッションとライフスタイルは分化されるんじゃないかなって気もする。「CanCamみたいなファッションが好きなレズビアンの女の子」とかもどこかにはいるわけで、そうすると男性とデートすることしか書いていないCanCamの世界観はきっと息苦しいよね。なんか、どんな女の子でも(あるいは、もちろん男の子でも)受け入れてくれる雑誌がいいよなあと個人的に思います。

第17回 『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んで。大切な人にも伝えたい「それは違うと思うよ」

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

おすすめ優先度 ★★★★★

これは話題作だったこともあって、とてもたくさんの人に読んでもらえたようです。個人的にも、AMでこの本を取り上げることができて本当に良かった。AMは女性向けの恋愛やセックスのメディアであるわけだけど、恋愛やセックスの中には必ず、社会の権力構造の課題が潜んでいると思うから。

どういう本か? といわれると、かなり「フェミニズム」の色が強い小説であり、たぶん男性は読みたがらないだろう。でも、知らないうちにパートナーを傷つけていないか、女性から見る世界はどんなものなのか、そういうことを考えるために、男性にもめちゃくちゃ読んで欲しいな。ま、読まないだろうけど。

そういえば私、20代前半ではじめて彼氏ができたとき、「この構造はなんだ!?」と思って上野千鶴子とかフェミニズムの研究書をめちゃくちゃ読んだんだよね。今振り返ると変わり者だが、変わり者でも間違ってはいなかったと思う。私は、自分が女性だから女性の味方をしたいっていうよりは、単純にフェアでありたいんだよね。今の状況は、あまりフェアとは言いがたいだろう。

第18回 切っても切れない男女の関係。『死の棘』と『狂うひと』に学ぶ夫婦の真実

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

おすすめ優先度 ★★★★★

夫の浮気を、夫側から書いたのが『死の棘』、妻側から書いたのが『狂うひと』(書いたのはノンフィクションライターさんなので、島尾ミホ本人じゃないけど)。1冊だけでも人を萎縮させるボリュームなんだけど、2冊合わせることでさらに迫力のあるボリュームになります。内容的にも濃厚で、生クリームをふんだんに使ったカルボナーラを大量に食べたような読後感。ひとつの事実を、両側から見るとこうも違う。どちらも真実であり、同時にどちらにも嘘が混ざっています。

私はそれがどんなものであれ、人の話を無意識に「話半分で聞く」癖があるんですけど、それは生存者バイアスの問題とか、あとはやっぱり「あなたはそう言っても、あちらがどう言うかはわからんからね」と根底で考えている部分があるからだと思います。単純に意地悪なのかもしれないけど、これも私の「フェアネス」の思想と関連があるような気が(我ながら)する。

第19回 「ナチュラルメイクはモテる」と言うけど、化粧は一体誰のもの?

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

おすすめ優先度 ★★★★★

ルッキズムと関連して、メイクの問題。数年前、とある男性ブロガーが「男はすっぴんが好きなんだから化粧なんかしても無駄」という主旨の記事を書き集中砲火を喰らったことがあったけど、そうなんだよね、なぜ女性が「男に好かれるために」メイクしていると思ってしまうのか。同性のためにメイクしていることも、逆に男を避けるために強めのメイクしていることもあるわけです。あとは単純に面白いからとか。

「自分の顔を(鏡や写真などを使わずに)直接見ることは一生できない」は、私が好きでよく顔の話をするときに使うんですけど、「顔」は自分のものであるにも関わらず、常に他者に向けられている。その矛盾が面白いから、私は外見の問題に首を突っ込むのをやめられません。けっこうタブーというか、ナイーブな領域の話であることは自覚してるんだけど。

第20回 本当はあのことがすごく嫌だった――「いい子」をやめて、心の奥を見つめてみる

ファーストラヴ

ファーストラヴ

おすすめ優先度 ★★★★☆

島本理生さんの小説を読んだのは、実はこれが初めて。なのであまり詳しく語れないのだけど、「父と娘」を題材にした作品は他にもあるらしい。後半になるにつれ加速するように歪んだ父娘の関係が露わになっていくので、ミステリー小説として面白い。

                                  • -

というわけで、21回目以降もよろしくお願いします。なお、こちらのエントリは日本時間11日の22:00で予約投稿しているわけですが、私はそのとき飛行機に……乗っているはず。

DRESSに寄稿しました/百合短編集イベントの御礼「女を楽しんで生きる」とは

DRESSに寄稿しました

DRESSで「平成の終わりに捨てたいもの」をテーマにエッセイを寄稿しました。なお、サムネで風にそよいでいるジャケットはイメージ画像ではなく、編集部で撮っていただいたわたくしの私物です(ちょっとシワがよってますね、恥ずかし〜〜)。これを捨てるんです。


p-dress.jp


私は旅行の計画を立てるのだけは好きだが人生における計画を立てるのは苦手、というか「何歳までに出産したいから何歳までに結婚を、何歳までにうんぬんかんぬん」系の話を聞くとシンプルに「よし、死のう」という気分になってきます。もちろんそういう考え方が性に合ってる人もいると思うので全否定はしないけど、少なくとも私はめちゃくちゃ相性が悪いので、これからも目標から逆算してうんぬんかんぬんする思想には中指を立ててゆきたい。


そういうわけで相変わらず中学生みたいな思想で生きているため「私の人生の真似はするなよ」と言うために書いた(?)のが上のエッセイですが、「ゴミだと思っていたものが宝になり、宝だと思っていたものが塵になる」はこの中で伝えたいいちばんのメッセージです。これは希望であり皮肉です。ゴミでしかないと思っていたものが宝になり、でもその宝だって、またゴミに戻ることがないとは限りません。何がどうなるかは死ぬまでわからない。だったら、ゴミだろうが宝だろうが関係なく愛せるものに、時間を使いたいですよね。

百合短編集イベントの御礼「女を楽しんで生きる」とは

それから先週の金曜日は、百合短編集のイベントにお越しいただいた方ありがとうございました。実は下記のページで動画が配信されている。

堤方4306 - 女が語る魅力的な女の子〜“百合短編集”出版記念イベント〜 | Facebook


個人的には、「女の子との身体的距離」のトークテーマが面白かったように思います。「連絡する頻度は?」「会えないとき、不安にならない?」「どうしたら相手を信じられる?」と完全に恋愛トークのようだが、私たちは……女友達の話をしている……!


そしてイベント後に、Twitterで「女を楽しんで生きる」とは何か、という質問をいただきました。


「女を楽しむ」とは何か。それはメイクやファッションを楽しむことなのか、はたまた恋愛を楽しむことなのか。まあ、メイクやファッションや恋愛は確かに女性のほうが興味あるのかもしれないけど、メイクはともかく、私より美容やファッションや恋愛が好きな男性ならそこらへんに普通にいるしなー、と思います。私は、興味ないとは言わないけど、ファッションなんか完全に脳の容量の無駄だと思ってるんで、AIに着るもの考えて欲しいもんね*1。もちろん人に良く見られたい欲はあるので、それなりに(私なりに)おしゃれもしているんだけど。AIとまではいかなくてもなるべく考える手間を省きたいので、パーソナルカラー診断も骨格診断もそのために受けました。


私の考えでは、人生における楽しみ方に男も女もないんじゃないかなと思っている。女性だからって理由でメイクやファッションや恋愛を楽しむ必要はないし、逆にそういうのを男性が楽しんだっていい。あるのは性別差ではなく個人差でしかない、と思います。


ただ、総じて、女性のほうがコミュニケーション能力が高いよなーとわりと身近なところでいつも感じています。私は女性にしては気が利かなかったり、相手の気持ちを読み取れなかったり、相手の意に反したリアクションをとったりするので、コミュニケーションに関してはどちらかというと男性側の視点からものを言ってるんですけど。


男性は、盛り上がったりノリを合わせたりするコミュニケーションができる人は多いけど、弱音を吐いたり、自己開示したり、「わからない」って正直に言ったり、そういうのが苦手な人がけっこういますよね。私は会社で女性の多いチームで働いているんですが、「今日はあんまり元気ないんだ、ごめん」とか言い合える空気があって居心地がとてもいいです(もちろんなぜ元気がないのかなんて、そんな野暮なことはお互い聞きません。話したければ話せるけど)。


少年マンガとかの影響が強いのか、世間では「男の友情は強い、女の友情は脆い」みたいなイメージがあるけれど、一概にそうも言えないですよね。私がもし男だったら、自分が元気なときとかノリを合わせられるときはいいけど、あんまり元気がなくて、それでも一緒にいてほしいときとか、仲良くしてほしいときとかはどうしたらいいのかと思う。たぶん、彼女や奥さんがいる人は、そういうのを女性に託しちゃってる(率が高い)気がします。彼女か奥さんがいないと詰む人は少なくないんじゃないか。


(※たぶん「パーッと飲もうぜ!」みたいなのはあるんだろうけど、パーッと飲む元気がないレベルでしゅんとしてるとき、めっちゃ生きづらそう。私はパーッと飲む元気がないレベルでしゅんとしてるとき、けっこうあります。しかも酒が飲めない)


なので、私が「女を楽しんで生きる」とは何か、に答えるとしたら。「元気がなくても、ノリが悪くても、能力がなくても、そういうのをまるっと包括できる女同士のつながりを楽しんだり、あとは男性に"まるっと包括"の可能性やお手本を提示していけるといいかもね」みたいなことを考えました。どうでしょうか。まあ、とはいえこれも女性的な男性もいるし男性的な女性もいるしで、結局は性差なんてたいした話じゃないんだけど。



今週は以上です。そろそろ(私は)旅行の季節です。

*1:自分の体のサイズとパーソナルカラー診断と骨格診断の結果と好みの系統と予算を入力したら適当にトレンドを加味して購入した服を勝手に家に配送してくれるサービス、あるいはそれをもとにクローゼットの中身をすべてデータ化した上で気温と天気を考慮してその日着る服を選んでくれるAI、真面目に10年以内に実現しそう。それが普通になってもなお「ファッションなんて脳の容量の無駄」と私が言い切るかどうかは自分でもわからなくて、案外「やっぱり自分で服を選びたい」とか言い出すのかもしれない。そうなったときに改めて、私たちは「装いとは何か」を考えなければならない次のフェーズの時代に突入するのでしょうね。

アルゼンチンタンゴの体験レッスンに行った

日記です。

2019.3.23 トペに憧れて

トペといったら南米、南米といったらトペ。「こいつは何を言ってるんだ」と思われるかもしれないが、私にとってはとにかく、長らくそうだった。


トペとは何か。私は、トペなるものに書物の中で2回ほど出くわしたことがある。1冊目は村上春樹の『辺境・近境』で、2冊目は池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』だ。


辺境・近境 (新潮文庫)

辺境・近境 (新潮文庫)


トペとは、いってみれば強制減速帯である。道路にある突起物で、「この先にトペあり」とかっていう表示が、メキシコなんかだとそこらじゅうにあるらしい。なんでそんなものがそこらじゅうにあるのかというと、ラテンアメリカの方々はせっかちなのか、制限速度をまったく守らず容赦なく車をぶっ飛ばすからで、ときおり突起物という形で「強制」減速帯を設けないと、道路がやべえ事態になるらしいのである。メキシコの道路を車で走っていると、この「トペ」にどっすんばったんぶつかるので、非常にワイルドなドライブになるのだとか。フェラーリもベンツも高級車の類は決してメキシコの道路を走れない、なぜなら車がガッタガタになるからだ。


私は乗り物酔いをしやすいほうなので、本来であれば悪路は避けたいタイプである。だけど、村上春樹のエッセイに出てきて、さらに池澤夏樹がガルシア=マルケスの作品を解説するためにこの「トペ」の話をわざわざしている。きっと、この強制減速帯には、何か文学的なものがあるに違いない。マジックリアリズム的な何かが、シーツに包まれて昇天するような何かが、メタファーとして隠されているに違いない。トペのある悪路をワイルドにどっすんばったんドライブすれば、私にもラテンアメリカ文学のなんたるかがきっとわかる──そういうわけで、「南米でトペのある道路を(助手席か後部座席で)ドライブする」は私にとって長年の夢なのだ。


問題は、村上春樹池澤夏樹も南米といいつつメキシコのトペの話をしているので、私が来月行くアルゼンチンにはトペはあるのか!? ということなんだけど……池澤夏樹の本には「メキシコ以南の中南米の国にはみんなある」って書いてあるから、期待していいのだろうか。ラテンアメリカ文学のなんたるかが、私は知りたいのだ。


生き急ぐなかれ。人生には、ときに「強制」減速帯が必要だ──村上春樹は、エッセイにそう書いている。

2019.3.25 アルゼンチンタンゴの体験レッスンに行った

友人に連れられ、アルゼンチンタンゴの体験レッスンに行く。来月、本場ブエノスアイレスでタンゴショーを見るための、これはほんの予習である。簡単なステップが頭に入っているだけでも、きっと見るのが格段に楽しくなるはずだ。


練習したのはごくごく初級のステップ(歩き方とか)だけど、タンゴ他ダンスの経験がまったくない私、ただ歩くだけでも自分でもわかるくらい動きがカクカクしていた。あと目を離すと混乱するので足元をじーっと見てしまうから、ずっと顔が下向き。でもまあ初心者はこんなものだろう、私も図太くなった。自分が頭の悪い無様で気持ち悪いやつだってことはこの32年間で身に染みてわかったから、もう無様でもなんでもいいので、とにかくやってみたいことをやるのだ。



ど素人の私は問答無用で女性側の動きを教わったわけだけど、お相手になってくれた男先生が、「たまに異性側になって踊ってみると学びが多い」と言っていて、それはそうだろうなと思った。男性が女性側になればどのようにリードすれば踊りやすいのかわかるし、女性が男性側になれば、どうするとリードしやすいのかがきっとわかるのだろう。


上手な男先生と踊ると、女性はリードしてもらえるので、いい感じにくるくるっと回ることができる。だから、ど素人にもかかわらず「なんとなく踊れるような気がしてしまう」のだけど、なんていうか、これは何かの比喩のようだ。恋愛とか、コミュニケーションとか、そういう何かの比喩である。従来の男女観で生活していると、女性は、「なんとなく」できてしまうコミュニケーションの範囲が、おそらく男性より広いんじゃないか。


でもたぶん本当は、タンゴも日常生活も、それではだめなのだろう。タンゴであれば、経験さえ積めば「異性側になって踊ってみる」ことができるから、それに気付くことも可能だ。だけど日常生活では、異性側を体験してみることはできない。想像するしかできない。だから、どういうリードは嫌なのかも、どういう言動がリードを誤らせるのかも、私たちはお互いにわからないままである。


お手本に見せてもらった先生たちのダンスは、惚れ惚れするくらい美しかった。だからというわけじゃないけど、自分以外の人間にはなれないこと、誰とも入れ替わることのできないこの世界の肉体は、なんて不自由なんだろうと思った。タンゴみたいに、誰かとそっくり役割を代わってみることができたらいい。そうしたら、何が嫌な気持ちにさせるのかも、何が嫌な行動を促進させてしまうのかも、きっと今よりは少し、理解できるんじゃないか。



そのあと、引き続き友人と過ごしながら旅行の計画を立てる。中南米の地図を見ながら、「ここがウルグアイ、ここがパラグアイ、ジャマイカはここ、こっちに行くとホンジュラスが……」なんて話をする。


グアテマラがどこにあって、ニカラグアがどこにあるかなんてことは、きっとぼんやりしたままの人が多いんじゃないだろうか。もちろん私もそうだ。世界中の国の、何がどこにあるかなんて、正確には覚えていない。


だけど、一度そこに、あるいは近隣諸国に「行く」となれば、私たちは地図を見る。大陸ごとのっている広い範囲の地図も、地下鉄の駅が見えるくらいの狭い範囲の地図も見る。


あの、見知らぬ土地の地図を見ている時間は、実は私はとっても幸せだ。ずっと沈黙していた隣人が語りかけてくるような、頭の中の空白地帯が埋まっていくような、世界が拡張されていくような、立体感を増すような。なんだか上手くいえないけど、ふわっとした幸福感に包まれる。かなり大げさにいえば、私は地図が見たくて旅行に出かけているのかもしれないな、と思う。


一時期(2017年くらい)「もう海外旅行は飽きた」とか言っていたのに、性懲りもなくその後もなんだかんだで出かけているから、まあいいや、私はこれをずっとやるんだろう。「旅行が好きです」というよりは、「私は旅行をする、そういう人間なんです」と言ったほうが、今はなんだかしっくりくるな。

【3/29夜】女が語る魅力的な女の子 “百合短編集” 出版記念イベントをやります

百合短編集『Le cinq "S"』が先月のコミティアで無事に頒布できたことを記念して、創作メルティングポッドの東京メンバー(私、よぴこさん、オサナイさん)で、バーでしゃべるイベントをやります。詳細は以下。


note.mu


事前予約などは特にいらないので、当日の気分でふらっと来る感じで参加してくれたら嬉しいです。1人でも、お友達同士でも、カップルでも! 時間きっちりいなくても、途中参加・途中退場自由です。私は雑談が苦手なので、スケジュールにあるトークが終わったら1人で読書してるかもしれません……それくらいフリ〜ダムな感じでいこうかと思っています。3人でトークテーマについて話しているときも、興味ない話題のときは無視して本読んだりTwitterやったりしていただいて全然大丈夫です。あと『Le cinq "S"』もコミティアに引き続き販売しております。

トークテーマについて

『Le cinq "S"』は百合短編集なので、トークも「女の子」に関することです。

「リアルとフィクション、それぞれで魅力を感じる女の子」
「女の子との心地いい身体的距離」
「今後、創作でどんな女の子を描きたいか」

実は、昨年下半期からの個人的なテーマが「女の子ってなんなんだ!?」ということでもあったので、このテーマは私自身がどれも興味津々。(女の子っていうか、私の年齢的には「女性」だけど)


たとえば、私が『Le cinq "S"』で書いた『ミモザを』というタイトルの小説に出てくる女の子・真美と恵那は、男性のパートナーがいる、いわゆる"ノンケ”の女の子です。レズビアンバイセクシャルの女の子としては書かなかった。だけど、男性のパートナーがいる同士であるにも関わらず、互いへの執着がものすごいんです。彼女たちはキスもしていないし、セックスもしていないんだけど、精神的な繋がりという意味では、ある意味お互いのパートナーとの関係を越えている。彼女たちは女性同士だから側から見たら「友達」なんだけど、一般的な意味での「友達」の範疇におさまっていません。だけど、「友達」でも「恋人」でも「夫婦」でもない、もちろん「セフレ」でもない、そういう人間関係だってきっとあるのだろうと思って、私はこれを書きました。


それとは別に、私は女友達が少ないほうでは決してないと思うんだけど、振り返ると、「身体的距離」という意味ではわりと女性と距離を置きがちです。真美と恵那はお揃いのコスメを買ったり服の貸し借りをしたりするんだけど、私にはそういう女友達っていないんですよね。もう32歳なので、今さらそういう友達が欲しいというわけでもないんだけど、まあなんかちょっとした憧れはあるのかもしれません。小学生くらいまでは、私も女の子と手を繋いで下校したりしてたんだけどね。ノンケの私はいつの間にかそういうことを「男性とするもの」として生きてきてしまったけど、別に今でも女の子と手を繋いだっていいんだよなと小説を書きながら思いました。男性も、ゲイの人はもちろんだけど、ゲイじゃない男性同士だって手を繋いで歩くのいいと思うんだよね。


トークでは、よぴこさんや小山内さんの「身体的距離」についても聞いてみたいと思っています。お時間のある方は、ぜひ覗きに来てみてください。

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人に優しくすること

1.

最近になって、自分の書いたものを「優しい」と評価されることが増えた。バカだのアホだのサイコパスだの言われていた頃に比べると、す、すごい進歩だ。


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ただ、では私はバカでアホでサイコパスな人間から、人に優しくできる素晴らしい人間に成長を遂げたのか? と問われると、まったくそんなことはない。せいぜい、炎上したくないから言葉遣いに気を付けるようになったくらいだ。内実は、相変わらずのバカでアホなサイコパスである。あと煽り体質なのも直ってない。プライベートで仲が良い・悪いに関係なくTwitterですぐに喧嘩を売りたくなるし、相手が顔を真っ赤にして喧嘩を買ってくれると嬉しくなってしまう(人間関係に支障をきたすし不毛なので極力やらないけど)。


私は人と会話するのが苦手なんだけど、それは雑談したり場の空気を読んでノリを合わせたり共感したりするのが苦手なのであって、議論は大好きだ。お酒を飲んでまったりするよりは、コーヒーを飲みながら覚めた頭で血で血を洗う本気の議論がしたい。だけどそういう人間は社会ではノーウェルカムなので、私は仕方なく、こうやってブログにブツブツ独り言を書いているのだ。まあそれがきっかけでいろいろな楽しい仕事に関わらせてもらえたり、友達ができたりするんだから、神様インターネット様ありがとう。これからも、このルサンチマンをガソリンに仕事と友達を作る。

2.

「人に優しく」とか、「傷に寄り添う」といった表現に、長く窮屈な思いをしていた。特に女性の書き手には、そういう側面が強く求められている気がして、私は女なのにどうしてそういうものが書けないんだろう……と、悩み迷走していた時期が長かった。というか厳密にいうと、今もなお迷走の最中にいる。


だけど最近、そもそも「優しさ」とは何か、と考えるようになった。もちろん、一般的な意味での「人に優しく」「傷に寄り添う」書き手も、変わらず必要だし、求められ続けると思う。ただそれはもう、私の中では「not my job」かもしれないと、最近思ってきている。

3.

私にとって「優しさ」とは何か。それは、やっと言語化できたんだけど、「フェアであること」だ。


logmi.jp


上の記事では「正義」を「フェアネス」と(佐々木俊尚さんが)言い換えているけれど、私にとっては、「優しさ」が「フェアネス」だ。もちろん異論は認めるけど、それが今のところいちばんしっくりくる、私にとっての「人に優しく」なんだ。


トゲのある言い方をあえてしてしまうけど、「誰かの傷に寄り添う」ことは、一方で「寄り添わない誰かがいる」ということでもある*1

同じ物語を共有しなきゃいけないという話になっちゃうんだけど、それもやりすぎると僕はすごくネガティブな影響が大きいなと思っていて。例えば「アフリカの飢えた子どもがいます。助けなきゃいけない」。これは共感しますよね。「今目の前で死んでいく子どもを助けなきゃいけない」というふうになると、その子どもだけが助かるけど、ほかに苦労している人はみんないなくなってしまう。


例えばテロリズムの文脈で言うと、しばらく前にパリでテロがありました。爆発して人がたくさん死んで、「あんな素敵な美しい都のパリの人が死ぬなんて大変だ!」ということで、世界中で「想いはパリと一緒に」というようなことを言って、フランス人に対してみんなが共感するわけです。でも、その同じ時期にシリアとかで何万人も死んでいたりするわけでしょ。それはいいのかっていう。


共感を中心にしすぎてしまうと、共感されない人が置いていかれる問題というのが必ず起きるわけです。だから、共感だけで物語を語っちゃいけないっていうね。数字とか統計とか、あるいはさっき言ったように嫌いなものでも我慢するというような、そういう別の軸をちゃんと持つことのほうが実は大事であると。


(上の記事から引用。強調はワタシ)


繰り返すけど、一般的な意味の「人に優しく」「傷に寄り添う」書き手も、変わらず必要だし、求められ続けると思う。そういう一般的な意味の優しさは欺瞞だとか、間違ってるとかって言いたいわけじゃない。ただ、私の中では「not my job」であり、そういうことは他の人に任せていいんじゃないかと思った。ハンバーガー屋をやるとしたら、パテを焼く人も、レジを打つ人も、両方必要だ。私は「誰かに寄り添う」と、そこに「寄り添えなかった誰かがいる」ことが、すごく気になってしまう。


togetter.com
(※抽象的な話になっているかもしれないので具体例をあげると、たとえば「トイレで暴行を受けた6歳の女児が子宮全摘になった」という話が本当だったとしてもデマだったとしても、女児が一人でトイレに行くことに危険が伴うこと、また両親(特にたぶん母親)がそのことをすごく心配して不安に思っていることには寄り添わないといけないと思う。だけど、こういった本当かデマかわからない話が行き過ぎた場合、そういう犯罪を犯しそうな、たとえば昼間に一人で公園やスーパーをふらふらしている中高年の男性を排除・攻撃することに繋がらないだろうか。過剰な不安や「寄り添い」は攻撃に転じることがある……ということを私はすごく懸念するタイプの人間なのだ。)


なかなか言語化できずに迷走していたけど、こういう思想が根本にあったから、私は今まで誰の傷にも「寄り添う」ことができなかったんだなと自分で納得した。


私は、人に優しくしようと思う。でもそれは、「傷に寄り添う」というよりは、フェアな人間で居続けられるよう努力することだ。それはもしかしたら、私の書く言葉から温度を奪うし、また冷たくも見えると思う。ある角度から見たら私はやっぱり昔のままのサイコパスだろう。実際、私の人間性はひとつも変わっていない。


ただ、私事ですが、最近「優しいね」と言われることがホント〜〜に増えたんです。なんでかな、別に何も変わっちゃいないんだけど*2。言葉遣いに気を付けるようになったからかな……。「バカが金持ったって使い方知らねーからダメだね」とかそういうことはもう言いません!


もちろん課題はある。フェアネスとは何か。もしくは、フェアであることによる弊害は何か。人に優しくするために、私はそういうことをずっと考え続けなければならない。別にまわりの人に「優しいね」と言われたいわけじゃないから、私のことはこれからもバカでアホなサイコパス扱いでかまわない。


ただ、この世界がフェアであることを、私は強く望んでいる。


aniram-czech.hatenablog.com

*1:誰にも寄り添わないってことは、結局誰にも優しくできないってことでは? という反論もありそうなんだけど、それはちがう。詳しい説明は今回はしないけど、その辺が気になる人はリンク先の対談記事を読んで欲しい。まああと、「政治・思想的態度」とプライベートの人間関係での優しさがあると思うんだけど、私がここで話題にしているのは前者です

*2:私の理論はときに「強者の理論」になりがちで、そこが欠点であることは自覚している。実際、私の根本思想はめちゃくちゃマッチョだ。ただ、フェアな人間でありたいと思うようになってから、欠点を自覚した上で論理展開をするようになった。もしも私に「変わった」「成長した」ところがあるとすれば、この部分かもしれない。