チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

アルゼンチンタンゴの体験レッスンに行った

日記です。

2019.3.23 トペに憧れて

トペといったら南米、南米といったらトペ。「こいつは何を言ってるんだ」と思われるかもしれないが、私にとってはとにかく、長らくそうだった。


トペとは何か。私は、トペなるものに書物の中で2回ほど出くわしたことがある。1冊目は村上春樹の『辺境・近境』で、2冊目は池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』だ。


辺境・近境 (新潮文庫)

辺境・近境 (新潮文庫)


トペとは、いってみれば強制減速帯である。道路にある突起物で、「この先にトペあり」とかっていう表示が、メキシコなんかだとそこらじゅうにあるらしい。なんでそんなものがそこらじゅうにあるのかというと、ラテンアメリカの方々はせっかちなのか、制限速度をまったく守らず容赦なく車をぶっ飛ばすからで、ときおり突起物という形で「強制」減速帯を設けないと、道路がやべえ事態になるらしいのである。メキシコの道路を車で走っていると、この「トペ」にどっすんばったんぶつかるので、非常にワイルドなドライブになるのだとか。フェラーリもベンツも高級車の類は決してメキシコの道路を走れない、なぜなら車がガッタガタになるからだ。


私は乗り物酔いをしやすいほうなので、本来であれば悪路は避けたいタイプである。だけど、村上春樹のエッセイに出てきて、さらに池澤夏樹がガルシア=マルケスの作品を解説するためにこの「トペ」の話をわざわざしている。きっと、この強制減速帯には、何か文学的なものがあるに違いない。マジックリアリズム的な何かが、シーツに包まれて昇天するような何かが、メタファーとして隠されているに違いない。トペのある悪路をワイルドにどっすんばったんドライブすれば、私にもラテンアメリカ文学のなんたるかがきっとわかる──そういうわけで、「南米でトペのある道路を(助手席か後部座席で)ドライブする」は私にとって長年の夢なのだ。


問題は、村上春樹池澤夏樹も南米といいつつメキシコのトペの話をしているので、私が来月行くアルゼンチンにはトペはあるのか!? ということなんだけど……池澤夏樹の本には「メキシコ以南の中南米の国にはみんなある」って書いてあるから、期待していいのだろうか。ラテンアメリカ文学のなんたるかが、私は知りたいのだ。


生き急ぐなかれ。人生には、ときに「強制」減速帯が必要だ──村上春樹は、エッセイにそう書いている。

2019.3.25 アルゼンチンタンゴの体験レッスンに行った

友人に連れられ、アルゼンチンタンゴの体験レッスンに行く。来月、本場ブエノスアイレスでタンゴショーを見るための、これはほんの予習である。簡単なステップが頭に入っているだけでも、きっと見るのが格段に楽しくなるはずだ。


練習したのはごくごく初級のステップ(歩き方とか)だけど、タンゴ他ダンスの経験がまったくない私、ただ歩くだけでも自分でもわかるくらい動きがカクカクしていた。あと目を離すと混乱するので足元をじーっと見てしまうから、ずっと顔が下向き。でもまあ初心者はこんなものだろう、私も図太くなった。自分が頭の悪い無様で気持ち悪いやつだってことはこの32年間で身に染みてわかったから、もう無様でもなんでもいいので、とにかくやってみたいことをやるのだ。



ど素人の私は問答無用で女性側の動きを教わったわけだけど、お相手になってくれた男先生が、「たまに異性側になって踊ってみると学びが多い」と言っていて、それはそうだろうなと思った。男性が女性側になればどのようにリードすれば踊りやすいのかわかるし、女性が男性側になれば、どうするとリードしやすいのかがきっとわかるのだろう。


上手な男先生と踊ると、女性はリードしてもらえるので、いい感じにくるくるっと回ることができる。だから、ど素人にもかかわらず「なんとなく踊れるような気がしてしまう」のだけど、なんていうか、これは何かの比喩のようだ。恋愛とか、コミュニケーションとか、そういう何かの比喩である。従来の男女観で生活していると、女性は、「なんとなく」できてしまうコミュニケーションの範囲が、おそらく男性より広いんじゃないか。


でもたぶん本当は、タンゴも日常生活も、それではだめなのだろう。タンゴであれば、経験さえ積めば「異性側になって踊ってみる」ことができるから、それに気付くことも可能だ。だけど日常生活では、異性側を体験してみることはできない。想像するしかできない。だから、どういうリードは嫌なのかも、どういう言動がリードを誤らせるのかも、私たちはお互いにわからないままである。


お手本に見せてもらった先生たちのダンスは、惚れ惚れするくらい美しかった。だからというわけじゃないけど、自分以外の人間にはなれないこと、誰とも入れ替わることのできないこの世界の肉体は、なんて不自由なんだろうと思った。タンゴみたいに、誰かとそっくり役割を代わってみることができたらいい。そうしたら、何が嫌な気持ちにさせるのかも、何が嫌な行動を促進させてしまうのかも、きっと今よりは少し、理解できるんじゃないか。



そのあと、引き続き友人と過ごしながら旅行の計画を立てる。中南米の地図を見ながら、「ここがウルグアイ、ここがパラグアイ、ジャマイカはここ、こっちに行くとホンジュラスが……」なんて話をする。


グアテマラがどこにあって、ニカラグアがどこにあるかなんてことは、きっとぼんやりしたままの人が多いんじゃないだろうか。もちろん私もそうだ。世界中の国の、何がどこにあるかなんて、正確には覚えていない。


だけど、一度そこに、あるいは近隣諸国に「行く」となれば、私たちは地図を見る。大陸ごとのっている広い範囲の地図も、地下鉄の駅が見えるくらいの狭い範囲の地図も見る。


あの、見知らぬ土地の地図を見ている時間は、実は私はとっても幸せだ。ずっと沈黙していた隣人が語りかけてくるような、頭の中の空白地帯が埋まっていくような、世界が拡張されていくような、立体感を増すような。なんだか上手くいえないけど、ふわっとした幸福感に包まれる。かなり大げさにいえば、私は地図が見たくて旅行に出かけているのかもしれないな、と思う。


一時期(2017年くらい)「もう海外旅行は飽きた」とか言っていたのに、性懲りもなくその後もなんだかんだで出かけているから、まあいいや、私はこれをずっとやるんだろう。「旅行が好きです」というよりは、「私は旅行をする、そういう人間なんです」と言ったほうが、今はなんだかしっくりくるな。