チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「婚活でパワースポット巡り」なぜダメなの?

「これ、別に当たってなくない……?」と感じることのほうが多いので、基本的に占いを信じていない。とはいえ、美容院とかで雑誌を渡されるとなんだかんだでブツブツ言いながら最後のほうのページを見ているし、またネットの占いも文句を言いつつけっこう見ている。


アフリカの呪術師市場に行くとウィッチ・ドクターが使う用に猿の頭が売ってるんだってよとか、パプアニューギニアではいまだに黒魔術が信じられているんだってよとか聞くと、つい「ウワ〜」と思ってしまうけど、そんな彼らと私たちの間に、はたしてどれほどの違いがあるんだろうかとも考える。


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イタリアやアメリカやイギリスでは、昨今「エクソシスト」が増加傾向にあるらしい。

なぜ増加傾向にあるのかというと、もちろん需要が存在するためである。悪魔に取り憑かれてしまい、それを祓って欲しいという人がたくさんいるのだ。ブリッジで階段をドタドタ降りたり首がぐるんぐるん回転したりするやつはさすがにフィクションだとしても、「悪魔に取り憑かれた人」もそれを祓う「エクソシスト」も、2017年にしてなお実在する。『悪魔祓い、聖なる儀式』はイタリア・シチリア島のとあるエクソシストを追ったドキュメンタリーだが、この映画を観ると、アフリカだろうがパプアニューギニアだろうが日本だろうがイタリアだろうが、やっぱりどこもそんなに変わらないような気がしてくる。


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(※インドネシア・バリ島も呪術の島である。私が「(自称)サイババの弟子」という怪しさしかない人に占いをしてもらったときの話はこちら


イタリアやアメリカやイギリスでは、なぜ悪魔に憑かれる人が増えているのだろうか。これはもう、むっちゃ雑に言っていいのならば「社会不安が増してるから」なんだろうが、実際、ドキュメンタリーの舞台となったシチリア島は、大卒の若者でも就職がかなり難しいという。どこも大変である。


しかし、自分の友人や家族が突然奇声を上げるようになったり、または犬(猫?)のような唸り声を上げてゴロンゴロンするようになってしまったときどうするかを考えると、まず連れていくのは病院だ。アフリカやパプアニューギニアならともかく、シチリアの人は何で病院行かないんだろ? と疑問に思って映画を観ていたら、どうやら病院には行っているみたいで、でも医者に「原因がよくわからん」とお手上げされてしまったようである。まあ、そうなったら確かにエクソシストにでも頼み込むしかない。


医療では救うことが難しいような人のほか、シチリアではエクソシストは「島の何でも屋」みたいな扱いなんだそう。しかし、いわゆる「汚部屋」を悪魔の仕業として、神父が部屋に聖水をまいている場面はちょっと笑ってしまった。汚部屋は……頑張って掃除するしかないのではないだろうか。あれは悪魔の仕業だったのか……。


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日本人は宗教やスピリチュアルを嫌う。理由はおそらく1995年の「地下鉄サリン事件」が国民的トラウマになっているのと、あとは戦後に天皇人間宣言を行なったことも大きいのかもしれない。命まで投げ打って信じたものに「実は聖なる力とかありませんでした〜」などと言われたら「もう二度と何かを信じたりなんかするもんか!」って思うのは無理もない。婚活のためにパワースポットを巡る女子はバカにされるし、誰かが手首に数珠をつけたりしていると「おっ? おっ!?」と二度見してしまう。


ただし、いつも真実を正しく把握していることが幸せだとも限らない。これは別に宗教でもスピリチュアルでもないけど、たとえば悪徳商法に騙されて超高額な布団を買っちゃったおばあちゃんなんかは、事件が発覚したあとも騙されたなんて露ほども思っていないなんて話をたまに耳にする。孫くらいの年の子が親身になって話を聞いてくれて、しかも買った布団はちょっと高かったけどふかふかでよく眠れて、いったい何が悪かったのと言われると確かに言葉が見つからない。「エクソシスト」も、悪魔なんていないでしょとその存在をなくしてしまったら、はたして医療で救えない人々を誰がどうやって救うのだろうか。


映画では、神父がスマホで「立ち去れサタン……!」と通話しているシーンが笑いを誘うのだけど、おそらくどれだけテクノロジーが発達しようと、科学で解明できることが増えようと、宗教もスピリチュアルもオカルトもなくなりはしないのだろう。なぜなら、人間がそれを求め続けるからである。占いだって、偶然を偶然と片付けてしまう人より、偶然と偶然を結びつけてプラスの何かに解釈できる人のほうが、きっと楽しく生きられる。粗探しのようなことをしてケチをつけているより、それくらいまるっと信じていたほうが人間として賢いのかもな、などと私は我が身を振り返って思うのだった。


でも、占いやシチリアの悪魔祓いは許せるのに、婚活のためにパワースポットを巡ったり、子宮が元気になるセミナーに行ったり、ジェムリンガを膣に入れたりすることへの嫌悪感や軽蔑は、正直なところ消えない。


このOK(許容)とNG(嫌悪感)の境界線にあるものって何なんだろうと考えていて、結局答えが出なかった。そこに文化や伝統があるかどうか、とか? お金がかかるかどうか、とか?? 健康被害が出るかどうか、とか??? 「婚活でパワースポットなんて巡っても結果につながりませんよ!」と説教を垂れてみたとき、「じゃあシチリアで神父が汚部屋に聖水まくのもダメですよね?」となってしまい、けっこう世界のいろんなことを否定せざるを得なくなる。「占いは、上手く活用して付き合っていくのがベストですよね」っつう人がいるが(私もそう言ったが)、じゃあ、子宮のセミナーも上手く活用して付き合っていくぶんには文句は言えないはずだ。もしかしたら、結局、「アタシの信じていないものを信じるのは気持ち悪いからやめろ」って話だったのだろうか。シチリアエクソシストは遠すぎて嫌悪感すらわかないってだけで。


全財産を搾り取られるか、深刻な健康被害が出るか*1、命を落とすか、近しい者と縁を切り始めるか。そういうレベルまでいかないのであれば、もしかしたらある程度のことは許容すべきなのかもしれない。人間なんて世界中どこを見ても、そんなもんだからだ。結果なんて出なくてもいい、それで一時的にでも救われるのなら本望だろう。


『悪魔祓い、聖なる儀式』は渋谷のイメージフォーラムにて上映中です。

*1:だからジェムリンガはやっぱりダメなんですが

天皇にパチンコ玉、奥崎謙三を追う『ゆきゆきて、神軍』

先日、渋谷アップリンクにて原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』を鑑賞してきたので感想文を書く。実は初見だったのだけど、脳が沸騰するくらい面白かった。上映後には原監督と映画史研究家の春日太一さんのトークショーがあり、そこで原監督が「これ、30年前の映画だけど全然古くないでしょ?」とおっしゃっていて、「はい、全然古くありません!」と思った。

感想を書くからにはもちろんブログを読んでくれた人に鑑賞を勧めたいのだけど、連日満席らしいのでチケット取りづらいかもしれません。

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たったひとりの「神軍平等兵」奥崎謙三

そんな『ゆきゆきて、神軍』とは、アナーキスト奥崎謙三を追ったドキュメンタリー。マイケル・ムーアマーティン・スコセッシも絶賛しているらしく、日本のドキュメンタリー映画を代表する傑作であるといわれている。

問題はこの映画の主人公である奥崎謙三という人なのだけど、彼は言葉を選んでいえば「昨今なかなかお目にかかれない過激な人」だ。言葉を選ばずにいえば「狂人」かもしれない。天皇がバルコニーにいるときを狙ってパチンコ玉を撃ったという「昭和天皇パチンコ狙撃事件」、ポルノ写真に天皇の写真をコラージュしたものを銀座と渋谷と新宿のデパートの屋上からばらまいたという「皇室ポルノビラ事件」などを起こしており、いずれも逮捕されている。「田中角栄を殺す」という宣伝文句がでかでかと書かれた街宣車に乗り、『宇宙人の聖書!?』なる本を自費出版している。一言ではなかなか言い尽くせない人なのである。


ゆきゆきて、神軍』は、そんなふうにして「神軍平等兵」を自称し、自らの活動を進める奥崎謙三を追うのだけど、焦点が当てられるのは彼自身がかつて所属していたウェクワ残留隊の部下射殺事件。戦中パプアニューギニアに赴任していた部隊が、止むに止まれず人肉食を行なったというのだけど、帰国した元隊員たちは口を開かない。そこで奥崎謙三が遺族を連れ、元隊員たちの自宅を訪問しながら、ときに暴力を振るいつつ証言を力ずくで引き出していく。『ゆきゆきて、神軍』は一応〈反戦映画〉の括りに入れられなくもないと思うのだけど、何しろ奥崎謙三が過激すぎるので、「戦争とは」「人肉食とは」「正義とは」なんてことを考えている暇はなく、とにかくグイグイグイグイ映画の世界に引きずられ、観終わったあとは心身ともにぐったり。常識も理解も、何もかもを超えてしまうのだ。

最後のほうのシーンで、奥崎謙三が「私は戦争を許しません。そしてそのことを暴力によって追及し続けます」みたいなことをいう場面がある。暴力を暴力によって追及するというのは、明らかな矛盾だ。映画のテーマがブレるので、このシーンを入れるか入れないかで原監督と編集の鍋島惇さんは揉めたらしいのだけど、原監督たっての希望によりこのシーンはカットされなかったという。

映画のテーマはブレるかもしれない。だけど、「その主張は矛盾しているのではないか」なんて奥崎謙三に突っ込むことは、こちら側がナンセンスなんじゃないかと思わされてしまうくらい、奥崎さんの思想は周囲を圧倒するパワーがある。パワーがあるから何なんだよといってしまえばそれまでだけど、とにかく圧倒的ではある。このパワーは、ぜひ映画を鑑賞して体験していただきたいと思う。もちろん、決して快いものではないけれど。

奥崎さんの性の目覚め……? 幻のパプアニューギニア

ゆきゆきて、神軍』は、とにかく情報量が多すぎる。薄い部分がないんじゃないかというくらい、作品すべてがすべてにわたって全部濃い(ブログにあらすじを書くだけで疲れる映画なんてそうそうない)。だけど、上映後に行なわれた原監督のトークショーで、私は疲れた脳を癒す間もなくますます混乱させられてしまった。

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左が原監督、右は春日太一さん

まずは、奥崎謙三という人物の「何ともいえなさ」である。暴力を振るうし、とにかく過激な人なので、個人的に関わり合いたいと思う人はレアだろう。私も、故人ではあるが、生きておられてもあまり奥崎さんと個人的に親しくなりたくはない。

しかしそんな奥崎さん、映画ではあたかも「(殴るけど)論理的に元隊員を追及する人物」として描かれている。ところが原監督によると、実際は「私は天皇にパチンコ玉を撃った!」等々の自慢話がめちゃ多く、カメラを向けるとバシッとキメる俳優肌の部分も持ち合わせている。最初は協力的に付き合っていた遺族もそんな奥崎さんにあきれてしまったのか、後半はだんだん奥崎さんの単独行動になっていってしまう。「暴力は振るうし、過激ではあるけれど、純粋で人間的には魅力的な人物」なのかと思っていたら、「暴力は振るうし、過激な上、狡猾で人間的にも問題のある人物」だった。やっぱり、個人的に関わり合いたくはない。

だけど、原監督が奥崎さんについて語るところを見ていると、「ムカつくしノイローゼになるし何度も撮影をやめようと思ったけど、それでも心のどこかで奥崎さんのことがちょっとだけ好きだった」というのが伝わってきて、しかもその気持ちがちょっとだけわかるので、何ともいえない気分になった。人は人のどこに惹かれるのだろう。容姿でもお金でも性格でも人格でも思想でもない。たとえそれらがすべて破綻していたとしても、人を惹きつける人というのはいる。トラブルが続いて撮影をやめようかという話になったとき、スタッフの一人が「でも、そんな奥崎さんだから、映画にしたいと思ったんじゃないんですか?」という旨の発言をして思いとどまったというエピソードを監督の口から聞いて、じわっと来るものがあった。

それから、本作には「幻のパプアニューギニア編」があったという。奥崎謙三が西ニューギニアの集落を訪れるドキュメンタリーだったらしいのだけど、インドネシア情報省によりフィルムを没収され、今日まで陽の目を見ていない。獄中生活が長く禁欲主義でいなければならなかった奥崎さんが、インドネシアのホテルでマッサージをしてもらった人とふと情事におよび、それを原監督に告白してきたというのだけど……悲劇なのか喜劇なのかわからない。幻のパプアニューギニア編についてまで書いているといよいよ長くなるのでここらで終わりにするけれど、悲劇の本質は喜劇であり、喜劇の本質は悲劇なのかもしれない。

ゆきゆきて、神軍』はDVDも出ているので、気になった人は観てみてほしい。脳が沸騰してすごく疲れるので。

ゆきゆきて、神軍 [DVD]

ゆきゆきて、神軍 [DVD]

憧れのあの人に近づくために何をするか

ブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』は、映画史上で唯一、五大大陸のすべてでヒットした作品なのだそうだ。イスラム教圏の人も、キリスト教圏の人も、仏教圏の人も、みんなブルース・リーが大好き。理由はもちろん、映画の中で「アチョー!」という意味不明の叫び声をあげながら手足を振り回していたリーが、ものすごくカッコよかったからである。

とはいえ、『燃えよドラゴン』を冷静に観てしまうと、「その掛け声、いる?」と私などはところどころでツッコミを入れたくなる。

これは自分が野暮なのかと思っていたら、リアルタイムでこの映画を鑑賞していた少年たちもまた、「さすがに『アチョー!』はバカなのでは……?」という思いを少なからず抱えていたらしい。いや〜そうだよねえ。

しかし、「バカなのでは……?」という思いを抱えつつも、映画館を出ると、「アチョー!」と叫びながら友達に膝蹴りをくらわせてしまう。友達もまた、「アチョー!」と叫びながらやり返してくる。

ブルース・リーの身体の動きはそういう、思わず真似したくなってしまうある種の感染性を持っているらしい。イスラム教圏の人も、キリスト教圏の人も、仏教圏の人も、みんなブルース・リーの動きを真似る。「ブルース・リーがかっこいい」は、もう少し具体的に言い換えると、「動きを真似したくなる」ということらしいのだ。

燃えよドラゴン ディレクターズカット (字幕版)

何か運動を始めたいな〜と思ったとき、ジム通いでも水泳でもなく格闘技を選んでよかったと感じることは、「真似することの難しさ」を身を持って体感できたことである。

毎回の練習で、「次はこの技を覚えますよ〜」という感じで先生がお手本を実演して見せてくれるのだが、最初、それはいかにも簡単そうに見える。二、三回やったらすぐにできそうな気がする。

だけど、簡単そうに見えるというのは実はすごいことで、それは余計なところに余計な力が入っていないということなのだ。だから、簡単そうに見えた技ほど覚えるのに苦戦する。複雑そうに見えた技はそれはそれで難しいのでつまり全部難しいんじゃねえかよという話になってしまうのだが、そう、全部難しいのである……。

私がもともと運痴で物覚えが悪いというのはあるにしろ、練習場の鏡で自分の動きを見ていると、「なんつー『頭の悪い身体』だ!」と愕然とするのは初回からあまり変わっていない。頭の悪い身体というのは日本語としておかしいけれど、自分の感覚としてはぴったり。

憧れのあの人に近づくために何をするか

私はこれまでの人生で、「好きな人」や「尊敬する人」にはそれなりに出会ってきたけれど、「この人みたいになりたい!」「この人の一部を自分のものにしたい!」と思う人には、幸か不幸か(不幸だな)、出会って来なかった気がする。

だけど、もしも今後そういう人に巡りあったら、たぶん、その人の読んでいる本を読むより、その人が勧めていた映画を観るより、その人の動きを観察して、喋り方から言葉遣いから息遣いまで、身体的なものをそっくりそのまま真似してしまうのがいいのだと思う。その人の思想の根本や本質は、きっと、そういうところに出ているのだと思う。そしてそのほうが、その人の読んでいる本を読むより、その人が勧めていた映画を観るより、何十倍も労力が必要で、難しい。

話題の占い師しいたけさんが、テレビ番組で見た精神科医名越康文さんを見て「この人は何だ!?」と衝撃を受け、番組を録画して名越さんの喋り方や息遣いを研究し真似したという話は、私にとってなかなか面白い。

それから、ある人や集団と一緒にいることによって「喋り方が移る」という体験を誰もがしたことがあると思うけど、あれもなかなか面白い現象だ。思い返すと、いくら一緒にいる時間が長くても、嫌いな人や集団の喋り方は絶対に移らない。少なからず好意のある人間の喋り方しか、一緒にいても移らないのだ。


「身体の動きを真似したくなる」ということは、もしかしたら「好き」の最終形態なのではないかと思う。

参考

白人の支配する香港のスラム街で育った元不良少年のブルース・リーが目指していたのは、あくまでハリウッド、白人社会での成功だった。武術と哲学で己を鍛え上げた人だったが、本当は最後の最後まで心に平安は訪れず、孤独なまま亡くなった人だったのだと思う。

ブルース・リーが唯一教えを乞うたカンフーの師匠、葉問(イップマン)が主人公の映画。最後のほうでブルース・リーと思われる少年がちらっと出てくる。監督はウォン・カーウァイ

最後でなんだかすっごく笑う イエジー・スコリモフスキ『イレブン・ミニッツ』

イエジー・スコリモフスキというポーランドの映画監督が作った『イレブン・ミニッツ』という映画を観ました。『イレブン・ミニッツ』は今後全国で公開していくようなので、劇場情報などの詳細は公式サイトで確認してみてください。

スコリモフスキ(噛みそう)の作品は私、前に『アンナと過ごした4日間』を観たことがあって、それがけっこう好きでした。なお『アンナと過ごした4日間』は、中年男がある女性のストーカーになって部屋を監視するという話なのですが、気持ち悪さがなく悲しい気分になってくるという変な映画です……。

そんなわけで、以下は、『イレブン・ミニッツ』の感想です。

ポスター/スチール 写真 A4 パターン2 イレブン・ミニッツ 光沢プリント

これは4DXではない!

まずごく当たり前の確認なのですが、この映画は3Dでも、ましてや4DXでもない、普通の2Dの映画です。だけど、私にはなんだかこれが4DXに思えて仕方がありませんでした。というのは比喩ではなく、「あれ? 今椅子が動いた!?」と勘違いしたことが上映中何度かあったからです。普通の2Dの映画なので、椅子は動きません。あと、上映中に地震があったとかでもありません。


様々な人物の11分間を描く『イレブン・ミニッツ』予告編

なぜこんな勘違いを私がしたかというと、『イレブン・ミニッツ』の画面がものすごく計算されていて、どの映像がどんな効果をあたえるかを監督が全部ちゃんと考えているからだと思います。映像のなかにあるすべて、ホコリや壁のシミにもすべてに意味があって、ホコリや壁のシミが観客を襲ってくるみたいな映画です。ちなみに『イレブン・ミニッツ』のストーリーはというと、映画監督と女優とその夫、ホットドッグ売りのおじさん、ヤク中のバイク便男、とまったく関係のない登場人物たちがわらわら登場してきて、それがまったく関係のないまま物語が進んでいくというものです。感覚としては、ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』にちょっと似ているかもしれません。

確かに王道ではないけれど、こういうのはストーリーとしてまったく新しいかといわれるとそんなことはないし、「映像のすべてが計算されている!」といいつつも、それ自体もそこまで珍しいものだとは思いません。唯一いうことがあるとするなら、今はゴダールだって3D映画を作っていて、4DXの映画とかもある時代です。表現の幅がぐんと広がっているので、今まで問答無用で2Dだったところを「それはなぜ2Dなの?」という疑問にわざわざ答えてやらないといけない。そういう、やや面倒な仕事が発生しているのがたぶん今の時代です。

そんななかで、もし「これはなぜ2Dなの?」と聞かれたとき、『イレブン・ミニッツ』はおそらく「2Dでもここまでできるから」と答える気がします。なんか、そんな反骨精神をかんじる映画です。

最後でなんか笑う

あんまりいうとネタバレになっちゃうのですが、この映画はラストに向かってすべてが集約していきます。そして、最後でなんだかめっちゃ笑います。だけど、最後で何か面白おかしいことが起きるわけではありません。ただ、あまりにも情報量が多すぎて、脳が処理しきれないので、もう笑うしかないみたいな状況になるのです。

人間は、面白いことがあったとき、幸福な瞬間、楽しいときだけに笑うのではありません。物事を皮肉るとき、人に意地悪をするとき、そういうときにも笑います。私は大学と大学院でブラックユーモアの研究をしていたので、後者のタイプの笑いがすごく好き……というと私の人格が疑われますが、実際に好きなんだからしょうがないですね。ちなみに「ブラックユーモアが好き」って言いっぱなしだとやはり人格を疑われる気がするので念のため自分をフォローしておくと、好きなのはこういう理由があるからです。

『イレブン・ミニッツ』の最後の笑いはなんなんだろう……これもブラックユーモアの一種なのかもしれないし、何かもっと別の笑いかもしれません。ただ、ラストが本当に(笑えるという意味で)面白かったなー。あと、音楽がすごく良くて、この映画を観たあとずっとパヴェウ・ムィキェティンの音楽を聴いていました。しかし「ムィキェティン」って、ものすごく覚えづらい上に発音しにくいぞ。このカタカナ表記、なんとかならないのでしょうか。

とりあえず、『イレブン・ミニッツ』は面白かったのでおすすめです。欲をいうと、『アンナ』で牛の屍体が川をゆっくり流れていく荒廃した映像が好きだったので、ああいうのを私はもうちょっと観たかったですね。


アンナと過ごした4日間

青森で考えた『シン・ゴジラ』の感想

シン・ゴジラ』を8月の上旬に観てもう1ヶ月以上経っているんですが、観た直後は正直「これ感想とか書かなくてもいい系のやつだな」と思ってしまいました。それは決して「つまらなかった」というわけじゃなくて、むしろクソつまらなかったらクソつまらなかったが故に書きたいことが浮かぶんですけど、普通に面白かった(でも特に突出して面白いわけではない)と思ったので、「じゃあ別に何もいわなくていいや」と判断してしまいました。

そしてそのまま1ヶ月経ってしまったのですが、先日フラっと青森まで小旅行に行ったら突如書きたいことが思い浮かんだので、今回はそれを書きます。なお、結末に関して思いっきりネタバレをするので、嫌な人はこの先は読まないで下さい。

青森県立美術館成田亨

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まず、青森に着いてから真っ先に訪れたのが、奈良美智の作品で知られる青森県立美術館でした。上の写真は有名な「あおもり犬」。ここに雪が積もったりするとたぶんとても幻想的に見えると思われます。次は冬に訪れたい。

青森県立美術館、東京や都市部の美術館と何がちがうかというと、私は単純に箱の大きさがちがうと思いました。東京だと土地に限りがあるから、大きく見せようとしてもどうしてもこぢんまりしてしまうというか、いまいち迫力不足な点が否めません。だけど青森県立美術館は、最初のコレクション展のマルク・シャガールで度肝を抜かれました。マルク・シャガールの最初の3点、デカイのです。写真を載せられない(撮れない)のが残念ですが、高さ8メートルです。もう一度いいますが、8メートルです。横は14メートル。アホみたいなこといいますが、デカイってすごいと私は思います。圧倒的なデカさのものを見ると単純ですがすげー感動します。あとは、シャガール奈良美智以外の展示も、作品と作品の幅が広くて、人口密度が低い。都市部の美術館はどうしても人が密集していて鑑賞に集中できなかったりするのですが、青森県立美術館はほどよい人の入りで、終始ゆっくりのんびり自分のペースで見てまわることができました。

そして、このコレクション展のなかにあったのが、成田亨の「異形の神々」というシリーズ。成田亨とは、青森県出身のデザイナー・彫刻家で、初期の『ゴジラ』にアルバイトとして参加したり、あとは『ウルトラマン』のキャラクターデザインを手がけたことで知られています。

ジラース(未彩色組立キット)
※『ウルトラマン』の怪獣のデザインなどを手がけた成田亨

それでこの「異形の神々」シリーズを見て思ったのですが、『ウルトラマン』の奇抜な、だけど親しみやすいあの怪獣のデザインっていうのは、青森出身のデザイナーが生みだしたものなんだってことに私はなんだか納得してしまったのです。青森といったら私はずばり「恐山」(まだ行ったことない)なんですけど、東北地方って「人間以外の異形の者と共生する」という感覚が都市部よりもすごく長けているイメージがあります。『ウルトラマン』に出てくる怪獣や『ゴジラ』の一部が日本のこういう場所から生まれているという感覚が、私はすごくしっくり来ました。

シン・ゴジラ』のラストシーンについて

ここからいよいよネタバレゾーンに入るのですが、『シン・ゴジラ』では最後、暴れ狂うゴジラを凍結して映画は終わります。で、私もそうなんですが、少なくない人が「え、凍らせたゴジラどうすんの? 処分しないの? つーかこれで終わり?」みたいな感想をあそこで抱いたのではないかと思います。クソつまんなかったわけではないけど、なんか判然としないなー、所詮はエンタメだからなー、と私はブツブツいいながら映画館を出たのですが、今思うと、あそこでゴジラを凍らせたまま残したことにけっこう意味があったのではないかという気がしてきました。

「意味があった」というのは、監督の庵野秀明さんがそれを意図していたか意図していなかったかということとはあまり関係がありません。それはどっちでもいい。ただ、結果としてそういう印象を観た者にあたえた、ということに「意味があった」と私は考えます。

あのあと、凍ったままのゴジラはどうなったんだろう。処分したのか。どうやって? 動かすとなんかやばい物質が出てきたりするかもしれないし、ゴジラが目を覚ますかもしれない。それとも時限爆弾みたいに、ある種のモニュメントとして、凍ったままのゴジラは東京に君臨し続けるのだろうか。

私はなんだか、後者のような気がします。凍ったままのゴジラがそのままいる東京。もちろん万が一に備えて「ゴジラ管理部」みたいなのが政府のなかに出来て、凍結材を継ぎ足したり日々データを更新して怪獣が動き出さないように監視している。だけどゴジラは生きていて、生命活動は継続している。東京都民や日本国民は、普段はゴジラのことを忘れているけれど、ときどき上空を見上げて「大丈夫かな?」と不安になったりする。意外と観光名所になったりするかもしれません。外国人がやってきて、凍ったゴジラを背景にパシャパシャ写真を撮って喜んだりする。

怪獣映画とかパニック映画に詳しい人ならこのあたりをもっと上手く分析できるんでしょうが、たぶんこれは心理学的に読み解くと面白いんだと思います。「ゴジラ」というのは「異形の神」です。人智を超えた存在で、だけどそれと共生していかないといけない。我々の心のなかには、普段は忘れているけれど本当はいつも不安がある。科学を信じているけれど、科学を超える存在があることもちゃんとわかっている。ラストシーンでゴジラを処分していたら、あるいは凍結なんかせずにもっといい方法を見つけて爆破してゴジラをやっつけていたら、この「不安」や「モヤモヤ」は表現できません。ゴジラを完全にやっつけるラストのほうが観客としてはすっきりするんだけど、監督は意図してなのか意図せずにしてなのか、それをやらなかった。

青森で成田亨の展示を見て、私は「あのラストで良かったんだ」と思いました。今の東京に、日本に必要な物語は、おそらく「異形の神と共生する物語」です。ゴジラ原発のメタファーかもしれないし、地震のメタファーかもしれないし、あるいはもっと別のもののメタファーかもしれません。まあ、『シン・ゴジラ』がヒットしたのは単にエンタメとしてカッコ良かったからだと思いますが、「なんだかよくわからない不安なもの、怖いものと一緒に生きていかなくてはいけない」という物語がたくさんの人に受け止められて、やっぱり結果としてはすごく良かったのかもしれません。

おまけ

こちらは翌日に訪れた鯵ヶ沢の「白神の森」。白神山地の山系にある森らしいです。そこらじゅうの木にキノコが生えていたのですが、野生のキノコってグロい。最初にこれを食べようと思ったやつすげーなと思ってしまいました。

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途中で雨が降ってきてしまったのですが、雨のなか森を歩くのおばけが出てきそうですごく怖かったです。あとなんか、ときどきよくわからない音がするのもすごく怖い。クマが出ることもあるみたいです。
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「これは書くことないな」と思っていたものでも、別の場所に行くことでふとアイディアが思い浮かぶこともあるので、転地療養はやはりおすすめです。

※と、これを書いたあとにいろいろなレビューを見たら、ゴジラ原発のメタファーでもう決まりということで通ってるんですね。なんとなく3.11にこだわるのが変な気がして、それ以外のもっとふわっとした可能性を考えていました……。