夢野久作の『ドグラ・マグラ』は、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、中井英夫の『虚無への供物』とならんで、日本三大奇書の1つとされています。なんでも、「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす」のだとか。そういうこといわれるとワクワクしちゃいますよね。
自分が初めてこの小説を手にとったのは20歳の誕生日で、「私の20代が輝かしく呪われたものになりますように」という願いをこめて読んだのだけど、その割にはけっこう内容を忘れているな、と今回7年ぶりに再読して思いました。おそらく、途中の作中作のパートで力尽きて、後半は流し読みしてしまったのでしょう。
20歳のときは表紙におびえながら紙の本を買って読んだのだけれど、今回はKindleで読みました。無料でダウンロードできます。
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しかし、もはや名物である紙の本の表紙はやっぱりいいですね。
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- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1976/10
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以下は、7年ぶりに再読した『ドグラ・マグラ』の感想文です。ネタバレを含みますのでご注意ください。
もし次があるとしたら、日付に注意して読みたい
この『ドグラ・マグラ』の舞台は、大正15年頃の九州帝国大学医学部精神病科です。主人公は、様々な解釈があるみたいですが、一般的な読み方をすると、呉一郎という青年になるのでしょう。この呉一郎が精神病科の病室で目を覚ますところから小説は始まるわけですが、青年は自分に関する記憶が一切ありません。「呉一郎」という名前も、様々なまわりの状況や書物から判断して、「自分は呉一郎である可能性が高い」と青年が推測しただけです。
九州帝国大学には、小説の鍵となる2人の教授がいます。「狂人の解放治療」なる計画の発起人、精神病科の正木敬之と、その正木敬之の同級生である、法医学の若林鏡太郎です。呉一郎が病室で目を覚ました後、まず出会うことになるのがこの若林博士なんですが、彼の話によると、精神病科の正木博士は、ちょうど1カ月前の10月20日に自殺したといいます。つまり、呉一郎が病室で目を覚ましたのは、11月20日ということです。さらにその1年前の10月19日には、精神病科の前々主任教授の斎藤寿八が変死を遂げています。正木博士の研究室のカレンダーの日付は、自殺の前日である10月19日のままになっています。
若林博士にすすめられて、呉一郎は正木博士が遺した研究の原稿を読むことになるのですが(このパートが長い)、それらを読み終わった後、何と呉一郎の目の前には死んだはずの正木博士が現れます。正木博士がいうには、自分が1カ月前に自殺したというのは若林博士の嘘で、今日の日付はカレンダーの翌日、10月20日であると言います。その証拠に、自分が遺した遺言書のインクが、まだ青々としていると。
……と、ここまでは今この文章を書きながら何とか追えたのですが、読んでいる間はこの「日付」が、そこまで重要なものとは思わなかったんですね。物語がようやく終わりかけたところで初めて、「もしかして、これ日付をちゃんと追ったほうがよかったのでは?」と気が付いたのですが、後の祭り。結局、主人公が目を覚ましたのは何月何日だったのか? という仮説を自分のなかで立てられないまま終わってしまいました。
『ドグラ・マグラ』の1つの楽しみは、この複雑怪奇な物語に自分なりの筋道を見つけて、どうにかトリックを解明しようと試みるところにあると思うのです。もちろん絶対的な解釈は存在しないし、「どうとでも読めてしまう」小説ではあるのだけど、それでもどうにかやってみる、夢野久作に挑戦してみる。そのための1つの鍵となるのが「日付」かなー、と思ったので、次にこの小説を再読することがあるとしたら、〈「日付」を追う〉っていうのをやってみようかなと考えました。これから『ドグラ・マグラ』を読む人がいたらぜひ、「日付」に注意しながら読んでみて感想を聞かせてほしいです。
結局、呉一郎が目覚めたのは何月何日だったのでしょう……?
音読すると楽しい「キチガイ地獄外道祭文」
前回読んだときにいちばんキツかったのが、本書で“作中作パート”にあたるスチャラカチャカポコで有名な「キチガイ地獄外道祭文」だったんですね。でも、今回読んでみたらこのパートは、何だかいちばん純粋に楽しめた部分になりました。まず、リズムがとてもいい。電車のなかで読むときとかはできないですが、自宅で1人で読むときは、『ドグラ・マグラ』はなるべく音読してみることをおすすめします。「キチガイ地獄外道祭文」をはじめ、小説全体の「音」がとても楽しいんです。慣れない単語も多いので朗読しているとちょくちょく躓くんですが、ノってくると歌を歌っているみたいに読めます。リズムが楽しいので、私は途中で面白くてけらけら笑ってしまいました。「キチガイ地獄」を読んで笑ってるとこ、あまり(というか絶対)他人に見られたくないですが。
「キチガイ地獄外道祭文」は楽しいだけではもちろんなく、夜中に読んでいると薄ら寒くなってくる部分もあります。チャカポコチャカポコのリズムに合わせて、人間の歴史において「キチガイ」「精神病」がどう扱われてきたかを語っているパートだからです。読んでいて特につらかったのは、身内に精神病患者が出た場合、歴史上どのような対処がされてきたのかを唄っているところ。「すこし世間に知られた一家で。一度キの字を出したら最後じゃ。万劫末代血筋に障る。」—ここらへんのパートを読んでいるときは、本当に胸くそ悪かったです。『楢山節考』みたいな胸くそ悪さ。
- 作者: 深沢七郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
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「狂気」は古来、いわゆる〈神懸かり〉の状態だと考えられていて、それが〈病〉だと考えられるようになったのは近代以降だ、みたいな話を読むとどうしてもミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を連想してしまいます。『狂気の歴史』は学生時代に何度か挑戦したものの難しくてぜんぜん読めなかったので、もう少し深く読めるようになったら、この「キチガイ地獄外道祭文」と比べてみると面白いかもしれません。
- 作者: 中山元
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1996/06
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『ドグラ・マグラ』はエンターテイメント
この小説を読んでいて、ところどころで違和感があったのが、若林博士や正木博士からさまざまな説明を受けているときの、呉一郎の言動でした。
たとえば、呉家の男が見ると気が狂うという、曰く付きの絵巻物の奥付になっている由来記の写しを、正木博士が呉一郎に解説してやる場面があります。呉一郎は、「君は呉一郎ではない」という正木博士の言葉を信じてこの解説を聞くので当然といえば当然なのかもしれませんが、それにしても「これあ驚いた。トテモ覚え切れない。それもヤッパリ年代記ですか」とか、「ウワア。やわらか過ぎます。……それじゃア」とか、「……ヘエ。そんなもんですかね」とか、正木博士の解説の合間に入れる一言が、あまりにも“軽すぎる”ような気がしたんです。これまでの流れでいくと、自分が呉一郎である可能性はやっぱり残っているわけだし、自分に関する記憶が一切ないというこの異常事態で、よくそんな呑気な合いの手が入れられるもんだと私は思ったんですね。もちろん、冷や汗ダラダラかきながら「エッ……」とかいって深刻そうにしている場面もあるんですけど。
こういった不自然に“軽すぎる”呉一郎の言動から、夢野久作が、『ドグラ・マグラ』を一大奇書であると同時にしっかりと読者を楽しませるエンターテイメントとして作ろうとした意図が感じられます。読者はわけのわからない論文やら新聞記事やらを読まされて疲れきっているわけで、そこで呉一郎が終始深刻そうにしていると本当に“重く”なってしまう。正木博士の解説を呑気な合いの手を入れて聞いている呉一郎は、物語の主人公であることを一度離れて、『ドグラ・マグラ』を読んでいる我々と目線を重ね、“一読者”として正木博士の話を聞いている。だから、「ヘエ。そんなもんですかね」なんて他人事のようなことがいえたのではないかと思ったのです。
まとめ
小説を読むのは好きだし、読んでいる冊数も決して少なくはないほうなんではないかなーと思う私ですが、こういったかたちで7年ぶりに再読して、しかもきちんと感想文を書く、っていうのはそういえば初めてだったかもしれません。一度はどうにか読み通したものの、消化しきれていない作品ってすごくたくさんあるので、機会を見ていろいろ再読していこうかな、と思いました。
『ドグラ・マグラ』はやっぱり相当手強い作品で、「こうだからこう!」とはっきりと自分の仮説を打ち立てられないまま終わってしまいました。「?」と思ってページをいったりきたりしていると、また新たな「?」が出てきて、最初の「?」を忘れてしまうというようなことを何度もやりました。
10年後くらいに、自分のこのエントリを読みつつ再再読したら、きっと楽しいだろうな!
……ブウウ———ンン———ンンン…………。