チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

恋人の写真は、遺したい派ですか?@センチメンタルな旅

先日に引き続きまたアラーキーの写真展。東京都写真美術館にて9月24日まで。こちらの「荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-」は、アラーキーの妻である陽子さんに焦点を当てた展示らしい。

f:id:aniram-czech:20170805172849p:plain
〈センチメンタルな旅〉1971年 より 東京都写真美術館

恋人の写真は、遺したい派ですか?

いきなり話をすっ飛ばすが、奥さんと出会い、その奥さんの精神が狂い自殺してしまうその日まで、彼女の写真をフィルムに焼き続けた古屋誠一という写真家がいる。

Aus den Fugen

Aus den Fugen

この人の写真展に行ったのは学生時代なのでもうずいぶんと前だけど、展示されていた妻・クリスティーネさんの写真は時系列になっていた。もっとも新しいものから、もっとも古いものへ。頭を丸坊主にした奥さん。子供を抱えてこちらを睨みつける奥さん。そして最後は、古屋誠一と出会ったばかりの頃の、無邪気な笑顔が愛らしい奥さん。なんて残酷な展示だろうと思った。

時系列が逆だったのならたぶんまだ良かったのだけど*1、辛い結末を先に見せてから、何も知らなかった最初の頃の写真にもどるというのはなかなかショックで、写真展の会場を出た後の私は、強烈に落ち込んだ。

そして、「好きな人のことを作品として遺す意味がわからない」という話を友人とした。

私はなんとなく、2人の間のことは2人の秘密にしておきたい派なのである。なので、100歩譲って楽しいときの笑顔の写真とかならいいが、自殺をむかえるまでの妻の精神が蝕まれていく様子を記録し、作品にしてしまうなんてことは到底理解できなかった。

ちなみに話をした友人は、「私の好きな人がどんなに素敵な人だったか、みんなに見てもらいたいし知ってもらいたいから、遺したい」と言っていた。これは感性のちがい、価値観のちがいである。

で、今回の『センチメンタルな旅』も、古屋誠一とはまた毛色が異なるものの、そういった「好きな人記録系」である。

「好きな人記録系」の、見てはいけないものを見てしまった感が、私はやっぱり苦手だ。そこはあんたの胸の内にしまって墓場までしっかり持っていってよ、と思う。でも、苦手だといいつつ観に行くんだから、心のどこかではこういう表現が好きなんだろう。でも私は絶対にやらないし、身近な人にもやってほしくない。でも観る。たぶん今後も。


(……と、昔言っていた)

ごはんの写真がまずそう

今回の『センチメンタルな旅』には、「食事」と題された作品群がある。亡き妻の陽子さんが、生前に作っていた食事の写真だ。

で、この食事の写真がまずそうである。「まずそうはないだろうあんた」という指摘は甘んじて受けるが、料理が下手というわけではなく、アラーキーがわざとモノクロにしたり変にどアップにしたりしながら撮っているので、まずそうというか、ナマナマしい。エロティックですらある。アンチ・フォトジェニックである。

だけど、私はまずそうな食事の表現って実は大好きだ。チェコの映画監督、ヤン・シュヴァンクマイエルも、めっちゃまずそうな食事を映画の中に登場させる。彼は食べることが嫌いで、子供の頃は食事の時間が嫌だった、と語る。私も同じだったからすごくよくわかる。

小2のとき、給食を食べきれなくて残そうと思ったら担任に「残すな、食べろ」と言われたので、昼休みに遊びに行くのを我慢して一人で泣きながら給食を食べていたら、今度は「いつまで食べてるの」と怒られたことがあった。幼いながら「言ってることがめちゃめちゃじゃねえかよ」と思ったが、小2だったのでその後も泣きながら無理やり食べた。

別にトラウマとかではなくて、今は普通にランチタイムが楽しみなくらいには食べることが好きだけど、しかしあくまで幼少期に絞って食べ物の思い出をたどると、こんなことしか思い出せない。私は食べることが嫌いだった。まずそうな食事の写真や映像は、私にとって「食べる」とは何なのか、何だったのかを思い出させてくれるから好きだ。

アラーキーは、食事とは死への情事であると語る。それはちょっと、よくわからない……。

f:id:aniram-czech:20170805222309p:plain
〈食事〉1985-1989年 より 発色現像方式印画

いずれにせよ、「もしもあなたが芸術家だったとしたら、恋人や妻や夫との思い出を作品にしますか?」という問いはなかなか面白いのではないかと思う。今度だれかに会ったら、聞いてみよう。あなたもだれかに、聞いてみてほしい。

*1:これはある意味、離婚届を出すところから話が始まって、最後に2人が出会うところでラストシーンをむかえる、フランソワ・オゾンの『2人の5つの分かれ路』と同じ手法といえる。で、なぜかはわからないが私はこの手法を使われるとめちゃくちゃメンタルがやられる

おれのかんがえたさいきょうのワーク&ライフ

ネットや雑誌でたまに見かける情報商材みたいなやつの広告は、眺めてみるとけっこう面白い。わりと適切に、世相を反映している気がする。

一昔前、それは札束風呂に美女と入浴しているおっさんであった。あれは情報商材というよりパワーストーン系だった気もするが、「いいよねえ、札束風呂に美女と入浴、ほんといいよねえ」と見ると感心してしまう。しかし、最近はさすがに札束風呂のおっさんは下品だしギラギラしすぎと思われるようになったのか、そういった広告もあまり見かけなくなった。

ここ最近は、そんな札束風呂のおっさんよりも、もう少しスマートな広告が流行っている気がする。この前見かけたやつは、「世界を旅しながらネットで稼いじゃおう」というやつであった。青い空、青い海、白い砂浜、絶景、MacBook、そして俺。いいよねえ、ほんといいよねえ。「おばちゃんが入ったら以降、そのカフェはおしゃれではなくなり、廃れる」なんてひどい話もあるけれど、情報商材に使われるようになったらそのイメージはもう末期だ。末期というか、もう少しマイルドにいえば、「人口に膾炙した」と表現すればいいのだろうか。

f:id:aniram-czech:20170110213331j:plain

ステーキラーメン寿司付きセット、食べる?

「札束風呂に美女」でもいいし、「世界を旅しながらネットで稼いじゃおう」でもいいのだけど、基本的に、情報商材パワーストーンに目が行くような人は、想像力がないのだと思う。

札束が嫌いな人はいないし、美女が嫌いな人もいない。旅行はたまに嫌いな人がいるけれど海外はだいたいの人の憧れだし、ネットで稼ぐのも(イメージだけでふわっと考えれば)ラクそうだ。半年くらい前に羽田空港で「ステーキラーメン寿司付きセット」なる超カロリー高そうなメニューを見かけたのだけど、ようは情報商材の世界はステーキラーメン寿司付きセットの世界なのだと思う。みんなが大好きなものをとりあえず全部突っ込みました、という方式。情報商材パワーストーン系に感じるバカっぽさは、ステーキラーメン寿司付きセットを見たときに感じるバカっぽさと少し似ている。「おれのかんがえたさいきょうの食べ物」みたいになっているのだ。

ステーキとラーメンと寿司以外にも世の中には美味しいものがたっくさんあるけれど、想像力がなくて視野が狭いので、「さいきょうの食べ物」としてラーメンにステーキをのせて寿司を付けるくらいしか思い描けない。誰かが「美味しいよ〜」と出してくれたものに対して、疑いもなくとりあえず食らいつくくらいしか脳がない。

きつい書き方をしているが、これは私自身にも思い当たる節がアリアリである。さすがに「札束美女風呂」に入りたいとは思わないが、世界を旅しながらネットで稼いじゃおうは、ちょっと惹かれるものがある。旅行が好きだし、今現在、私も広い意味でいえば「ネットで稼いじゃおう」をやっている。だからこそ、この情報商材の広告を見つけたときはショックだったのだ。だって、「私のかんがえたさいきょうのワーク&ライフ」のイメージはもう末期だ、と宣告されたようなものだと思ったから。

おれのかんがえたさいきょうのワーク&ライフ

ステーキラーメン寿司付きセットを、美味しそうだと感じること自体は悪いことではないと思う。悪いことではないというか、人間として普通の、当たり前の思考回路だと思う。「最後の晩餐で食べたいものを考えろ」とたずねられたら、ステーキラーメン寿司付きセットを……いかないか。そこは、いかないか。でも、そこでステーキラーメン寿司付きセットを選ぶ人がいても、別におかしくはない。

だけど基本的に、自分と同じようなことを考えている人がいっぱいいたら、やばい。情報商材のイメージに使われるということは、「こういうのに憧れてる人がウン万人います」ということで、イメージはすでに飽和状態、氾濫しているといえる。私はいつも「人は自分オリジナルの願望なんて持てない。多かれ少なかれ他人の模倣になるのは構造上しょうがない」と口を酸っぱくして言っているが、さすがに情報商材まで行くと、それは自分が豊かで具体的な夢を思い描けていないことの証明になってしまう気がする。

……なんて思うのは、私がちょっと「自分内監査システム」を働かせすぎで、考えすぎなのかもしれないけど。おれのかんがえたさいきょうのワーク&ライフ、にならないように自分の欲望を微調整する必要性を感じて冷やっとした、という話だ。もし、「世界を旅しながら文章を書きたい」という夢を持っている方がいたら(私がまあまあそうなんだけど)、それがどこかで配られた無料ドーナツみたいにぐちゃぐちゃの砂糖にまみれていないかどうか、微に入り細に入りチェックしたほうがいいだろう。

夏なので、誰か一緒に冷やっとしてくれたらいいなと思い書きました。

こんな夢は二度と見たくない

人の夢の話ほど面白くないものはないという自覚はあるので、そういう場合は回れ右をしてもらえればいいのだが、以下は私が見た夢の話である。

f:id:aniram-czech:20160318125602j:plain

先日、朝7時頃目が覚めると、天気が悪かったせいか、頭痛がひどかった。

幸いその日は夜まで予定がなく、やらなければいけないこともそこまで切羽詰まっていなかったので、もう少しゆっくりしようと思い二度寝してしまった。しかし、次に目覚めたときに時計を見ると、あっという間に14時である。さすがにこれは怠けすぎだと思い、焦って飛び起きた。

が、起きると立ちくらみがし、頭がぼーっとする。まあでも、寝すぎも体に悪いし、何か作業してれば治るだろうと思い、そのまま着替えたり家事をしたりしていたら、もう17時になっている。なんか時計が進むのが早いなー、と思ったら、そこで意識がぷっつりと切れた。

次に目が覚めると、時計は朝の10時である。二度寝とはいえさすがに、気付いたら14時というのはひどい。つまりさっきのは夢だったんだなと解釈し、起き上がるとまた立ちくらみがする。だけどもう一度寝る気分でもなかったので、そのまま我慢して起き上がり、なぜかAmazonプライムビデオで『猿の惑星』を観ていた。あれ、なんで私『猿の惑星』観てるんだろ? この映画そんな好きだっけ? と思って時計を見たら、14時になっている。んんん!? やっぱりなんか、時計進むの早くない? と思ったら、またそこで意識がぷっつりと切れた。

その次にまた目が覚めると、時計が示す時刻は12時である。そして、起き上がろうとすると、立ちくらみがひどい。私は明晰夢をよく見るタイプなので、「あ、こりゃまだ夢の中だな」となんとなく判断し、思いつきで部屋の鏡の前に立ってみたら、そこに映っていたのは七福神の恵比寿さんであった。なんと、私は恵比寿さんだったのか。恵比寿さんといえば商売繁盛、縁起がよろしい。これはきっと吉夢だな〜と呑気に思っていたら、鏡の中の恵比寿さんがニタニタ笑い出したので、あ、やっぱ吉夢じゃないかも、気持ち悪いかも、と思ったら、そこでまた意識がぷっつりと切れた。

今度目が覚めて時計を見ると、次は12時半である。いい加減起きたいんだけど、と思って立ち上がると部屋がぐにゃぐにゃ曲がる。まだ夢の中なのかいと思い、夢の中で活動してもしょうがないので、私は布団の中に戻ってまた眠る。起きたいぞ。いい加減起きたいぞ。

その後、起きる→なんか変→夢か……→もう1回寝るというのをたぶん10回くらい繰り返し、永遠に夢の中から出られないのではと思いかなり焦った。途中で一度だけ「今度こそ現実だ〜!」と思って着替えて外出し、なぜか電車に乗って藤沢駅(神奈川県)まで行った。が、「あれ、なんで藤沢にいるんだっけ?」と思ったらそこで意識がぷっつりと切れた。その後目覚めたらやっぱり布団の中で、「やばい、出られない。夢の中から出られない」と私は戦慄した。


次に目覚めて時計を見ると、時刻は午前9時半である。んんん、もう夢なのか現実なのかわからない。しかし、夢なんだとしたら、せっかくだしなんかめちゃくちゃひどいことを書いて思いっきりブログを炎上させて遊ぼうかな、と思ってPCを開いた。

が、指でキーボードに触れると、いやに「くっきり」している。試しにTwitterなどを見てみても、これは夢にしては「出来すぎ」な気がする。私の脳みそにここまでの現実感構築能力はないはずだ。立ちくらみもひどくないし、今度こそ本当に目が覚めたらしい。これは現実だ。いやー、よかった。出られた出られた。

というわけで、遊びでブログを炎上させるわけにはいかなくなったので、今こうして、無難に夢の話などを書いている。原稿とかも書く。あああ本当によかった。一件落着、一安心だ。


ここでもし、「あれ、なんでブログなんて書いてるんだっけ?」などと考えてしまったら、また意識がぷっつりと切れて、夢の中に舞い戻ってしまいそうなので、それは問わないことにする。後ろで恵比寿さんがニタニタ笑っている。



こうして私の、平凡な日々は続く。

スマホからSNSアプリを消して4ヶ月

いつだったか、インターネットで「自分はTwitterのフォロワーが5000人に満たない人には新規で会わない」と公言しているらしい人を見かけたことがある(記述が曖昧なのはうろ覚えだからです、すいません)。

これは、いろいろと突っ込みどころがある意見ではあるけれど、考えようによってはそういう判断もまあ妥当ではあるかな、という理解も一応、私にはあるつもりだ。共感はできないが理解はできるというやつである。

会う目的にもよるけど、確かにフォロワーが5000人以上いる人であれば、何か面白いネタを持ってるとか、人脈が豊富であるとか、何かしらに秀でている人である可能性は高い。もちろんそれを承知の上であえて突っ込むのであれば、「フォロワー数という外部基準に頼るしかなく、自分自身でその人が面白いか面白くないか判断できないなんて、あなたの感性はなんて貧弱なの!」となるわけだけど、まあ忙しい人であれば致し方ないのかもしれない(ちなみにその人自身はもちろんフォロワーが5000人以上いるらしかったです)。

だけど、こういう「ハズレを引きたくない」「時間を無駄にしたくない」みたいな考え方、極めて現代的だけど厄介だよな〜と思う。だって、ハズレをたくさん引いて初めて良いものがわかるんだもの。

私は学生のとき映画批評をやっていたのだけど、古典映画から話題の作品からB級映画からカルト映画まで、なんでも観させられた。だけど、今も私の心の中に深く根付いていて、「大好き」だと言える作品は、そのうちの1/100にも満たない。でも、じゃあ残りの99/100の作品は観た時間が無駄だったのかというと、そんなことはない。99/100の記憶に残らなかった作品は、1/100の作品を語るための良き材料になっている。99/100を知っているからこそ1/100の輪郭はよりくっきりと浮かび上がってくるし、なぜ自分がその1/100を好きなのかわかる。

(人間と映画を一緒にするな、という声が聞こえてきそうですが、それはそれとして)

スマホからSNSアプリを消して4ヶ月

ところで、今年の3月にスマホからSNSアプリをすべて消して、そのまま気が付いたら4ヶ月経っていた。当初は、1週間くらい実験的に消してみて、すぐに再インストールするつもりだったので、この状態をここまで長引かせることは想定していなかった。消したアプリはTwitter、あとはSNSアプリとはちょっとちがうけれど、はてなブログとnote。Facebookはもとから入っていない。インスタは、私の場合直接の知人とは誰ともつながっておらず、「MoMAとガゴシアン・ギャラリーと料理系の投稿を見るための専用アカウント」と化しているので、そのまま入れている。

なぜ消したのかというと、これは「SNSをダラダラ見てる時間が嫌だったから」という超平凡な理由なのだけど、いざ消してみると思いのほか快適で、おそらくずっとこのまま行くのではないかと思う。モヤモヤしてないで初めからこうすれば良かったんだ、という感じだ。ちなみにSNSを見なくなった分何をするようになったかというと、読書と言いたいところだが、YouTubeポメラニアンの動画を見ている。疲れているのだろうか……。「結局ネット見てんのね」という感じであまりかっこいいことは言えないのだけど、しかし、平和ではある。ポメラニアン

これは雑な素人推測だけど、スマホは手の中に収めるものなので、「ながら時間」で見ることもあるし、身体的な距離が近い。だから、自分へ向けた批判も、他人への怒りも、けっこうダイレクトに響いてしまう。その点、PCは身体的な距離が遠く、接するときは机に向かっていたりして、姿勢がしゃんとしている。すると、同じような言葉でも響き方が全然ちがう。あの疲弊感みたいなやつは、接続する時間ではなくて、身体的な距離や姿勢がもたらしていたものでもあったのかな〜と思う。


先日青山ブックセンターに行ったら、「身体」のコーナーが拡大していた(気がする)。


これは、私の今の関心分野が「脳」「身体」「武術」「舞台芸術」などなのでそう見えたという、ただの認知の歪みかもしれないけれど、なんとなく、みんな似たようなこと考えてんのかなーと思った。

『夫のちんぽが入らない』ことはけっこうよくある

話題になってからだいぶ遅れてではあるけれど、こだまさんの『夫のちんぽが入らない』を読んだ。今回はその感想である。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

「普通のことができない」はけっこう普通

読み終わったあとに直感的に思ったのは、「これってけっこうよくある話なんだろうな」ということ。

もちろん、夫のちんぽが入らないことで困っている知人が私の身近にいるということではない。本当はいるのかもしれないけど、少なくとも私はそのことを打ち明けられていない。そうではなくて、「夫のちんぽが入る」=「世間で普通とされていることの象徴」だとすると、普通だとされていることができなくて悩んでいる人はけっこういっぱいいるんだろうな、ということだ。

たとえば、先日読んだこちらのコラム。

私は松居一代のことを笑えない<ハイスペック女子のため息>山口真由 - 幻冬舎plus


こちらでは、著者が恋人に手紙を書くのだけど、宛先と差出人を逆に書いてしまい、送った手紙が自分のところにもどってきてしまった、というエピソードが紹介されている。そしてそのことで著者は、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)と、落ち込む。

が、人を経歴で判断するのはいかなる場合であれ良くないかもしれないけれど、この著者は東大卒の弁護士、めちゃくちゃに優秀な人だ。

その優秀な人でさえ、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)と落ち込むことがあるのだから、もうこれはどうしようもない。(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)ってそういえばかなりよく聞く独白だし、逆にいえば、「普通のことをきちんとこなすことができない」という感覚はけっこう普通、ということさえできそうだ。できそうだ、というか実際そうなのだと思う。

お風呂に入れない、ゴミ捨てができない、電車に乗れないなどのけっこう大変なレベルのものから、いつも遅刻する、電話に出れない、人付き合いが悪いなどのその人の手腕次第でどうにか切り抜けられる(?)レベルのものまで程度の差はあるけれど、だいたい誰でも何かしら、世の中で普通だとされていることができない。むしろ、「私は普通のことはだいたい普通にこなせる」と言い張る人がいたら、そっちのほうがマイノリティだろう。マイノリティというか、その人はたぶんただのおニブちゃんである。

したがって、この本の感想をさっくりまとめると、「自分が普通だと思っていることはあんまり普通じゃない可能性があるのでやたらめったら人に押し付けちゃいけないよ」とか、「普通ってのはだいたいが幻想なのでそこから外れていると思っても必要以上に気にしなくていいよ」とか、そんな感じになりそうである。

ただ、後者はともかく、前者は本人は無意識でやっていることが多いので、あまりちくちくとは責められない。私もきっと、今までたくさんの「MY普通」を他人に押し付けてきたはずなので、気を付けようとは思うけれど、あまり大きい顔はできない。

「私は普通じゃない」という甘く美しい世界

『夫のちんぽが入らない』の感想はここまでで、以下は本を離れて勝手に私が考えたことなのだけど(なのでこだまさんがどうこうという話ではない)、「私は普通じゃない」という境地に、他人に追いやられるのではなく自分で突っ込んでっちゃうことってあるよな、ということを(自分の胸に手を当ててみて)思った。

どういうことかというと、(私は、普通のことをきちんとこなすことができない……)とは通常、「普通のことを普通にこなせるきちんとした人間になりたい」という願望とセットのはずである。だけどそこに、「私は普通じゃない」と言ってしまうことによって免責されたいみたいな、逆方向の願望が紛れていることもたまーにある。

普通じゃないということは、特別な人間だということだ。誰だって、「あんたは普通だよ」と言われるよりは、「あなたは特別な人だ」と言われるほうが嬉しい。なので、「私は普通じゃない」って自分で思うのは、けっこう甘美な響きを伴ってしまうことがある。でも、それは罠なので気を付けたほうがよい。他人に「あなたは普通じゃないよ」と言われても「うるせえわ!」と相手にしなきゃいいけれど、自分でそっちの世界に行ってしまうと、もどってくるのがなかなか難しい。

だから、「『私は普通じゃない』という感覚はけっこう普通だ」という上記の私の考えは、もちろん誰かの気持ちをラクにできればと思って書いたのだけど、逆にこの考えを「きっつー」と感じる場合もあるんだろうな、と思う。私も、状況によっては自分で自分の言葉に苦しめられそうである。まあでも、やっぱり私たちはどう考えても、だいたい普通の人間だ。普通じゃない人間というのは、アインシュタインとかレオナルド・ダ・ヴィンチくらいのレベルの人のことを言う。

『夫のちんぽが入らない』は評判どおり良い本だったので、夏休みとかに読まれてはいかがでしょうか。

絶望と希望は多くの場合、セットになっている。