チェコ好きの日記

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いる?いらない? “文学部”ってどうなのよ?

大学には、いろいろな学部・学科がそろっています。

そして、その多くの学部・学科は、理系文系に大別されます。


理系に属する医療や生命工学の学問は、高齢化する日本社会で必須なのはもちろん、世界中で、その進歩を競っています。同じく理系に属する環境やエネルギー関連の学問も、現代に生きる私たちにとって、なくてはならないものです。また、今後も情報技術やIT関連の分野は発展を続けていくでしょうから、もちろんそれらの知識を体系的に身に付けている若者には、仕事の需要が集まります。


一方、文系はどうでしょうか。
経済学は、グローバル化していく世界のなかで、やはりなくてはならない学問であると思います。法学部も、複雑化する社会の倫理や思想、適切なルールを考えていくために、必要な学問でしょう。社会学部や国際学部も、多様化する個人のライフスタイルの確立や、各国の相互理解のために役立ったりと、理系に比べるとやや具体性に欠けますが……なんだかんだ言いつつ、出番はそれなりにありそうです。


では本日のテーマ、文系のなかの文系、“文学部”は、いったい社会のどのあたりで、出番があるのでしょうか?

文学部と一言でいっても、英文学からフランス文学、ドイツ文学に国文学、芸術や歴史、哲学も文学部に含まれる場合があるのですけど、ようは、ある「作品」や「出来事」などの、解釈をめぐる学問を学ぶ学部です。


「文学部なんて、役に立たないからいらない!」という意見の方にも、たまに出くわします。



ちなみに管理人の私は、文学部芸術学科の出身であります。

「文学部なんていらないよ!」という意見の方に出会うと、私の大学時代を否定されたような気がして、ちょっと涙ぐんでしまうのですが……しくしく。しかし、そういう方に対して上手に反論できないのも、これまた事実。


というわけで、本日は“文学部”の意義について、ちょっと考えてみました。


あなたは、文学部いる派? いらない派?


★★★

◆文学なんて趣味でよくない? への反論

「大学は就職予備校じゃなくて、学問をするところなのだから、役に立つ立たないは関係ないんだよ」

というのが、文学部いる派の、一般的な回答でしょうか?

しかし、上記のような論調で話を進めると、「そもそも大学とは……」的な、“文学部”ではなくて“大学”の意義を考えることになってしまいそうなので、今日はちょっと、この主張は脇に置いておきます。

「文学は、“人間とは何か”という重要な命題を考える学問なのだから、文学部がなければ世の中はとても殺風景になってしまうよ」

というのも、文学部いる派の、よくある回答の1つです。
私の心情も、どちらかというとこれに近いです。


でも、それだと、「じゃ、わざわざ大学へ行かずに、趣味でやりなよ!」という主張に、うまく反論できません。

社会人になって、働きながら、週に1度くらい地元の「文学カルチャースクール」的なものに通ってもいいでしょう。あるいは理学部や経済学部や情報学部の学生が、一般教養として、授業のコマの1つとして“文学”を学んだっていいわけですし、そうしている学生も実際にいるはずです。

文学が、趣味としてではなく、“文学部”という大学の学部として存在する意味はあるのでしょうか?

その場の環境や雰囲気にもよるかもしれませんが、社会人になると、「○○大学の理系or文系出身です」と自己紹介することはあっても、「△△学部の××学科でした」まで付け加えることは、あまりありません。そこまで明かす必要はないと、誰しもが心のどこかで思っているからでしょうか。

しかし、何かのきっかけで「実は△△学部の××学科で、卒論ではかくかくしかじかを研究したんですよー」みたいな話になると、なるほど、だからこの人はこういう考え方をするんだなぁ~と、妙に納得してしまうことがあります。
(ありますよね?)

本人が望む望まないに関わらず、授業にマジメに出ていたか否かもあまり関係なく――とりあえず“卒業”できるくらいだけでも、その学部で4年間以上学んでいれば、その学問は、その人の思考形態に、少なくない影響をあたえていると私は思うのです。

すなわち、経済学部の人は、経済学の思考に。
理学部の人は、理学部の思考に。
商学部の人は、商学部の思考に。

そして、文学部の人は、文学部の思考に。


「じゃ、わざわざ大学へ行かずに、趣味でやりなよ!」

という人たちに反論するとすれば、“趣味”程度では、その学部の思考形態が、脳みそに染みわたらない、ということです。4年間、たっぷりと時間をお金を投入するからこそ、そして誰かに(教授に)論文をけなされて怒鳴られて泣いてこそ、脳みそが“文学部の思考”に染まっていくのです。

また、一度でも自分が“文学部”の人間であるという看板を背負うことによって、他の学部の学生たちが「一般教養」として身に付ける文学の知識とはちがう重みが、そこに生まれます。なかにはもちろん、受験で他の学部に落ちてしまって、仕方なく文学部に来た……という学生もいるかもしれませんが、それでもやはりその学部を卒業した以上は、文学的なものが他のどの学問より、その人にとっては「重い」わけです。


なので、文学部が大学の学部として存在する意味は、一応あると思います。「文学部の思考形態を脳みそに染みわたらすことができる」、という意味において。

ただし、その「文学部の思考形態が染みこんだ人」を世の中が必要としているかどうかは、また別の話ですが。


◆文学部は有用なのか、無用なのかという議論

文学部出身の私としては、本音では何としても文学部の擁護にまわりたいのですが、「こういうところでこういうふうに役に立つんだよ!」という、スパッとした答えが、なかなか見つかりません。

出身の人間がこういうんですから、あんまり世の中にとって、文学部的な思考は必要ないんでしょう。つまりは、無用ということです。……悲しいな!


しかし、世の中には無用なものがあってもいい、と私は考えています。
この論調が、そもそも“文学部いらない派”の人にとっては、理解しにくいみたいなのですが。


何というか、文学部はこのまま他の学部の人たち(“いらない派”の人たち)から、白い目で、「君たちって何のためにいるの?」と言われつづけて、ずっーと肩身の狭い思いをしてればいいと思うんです。

文学部は世の中にとって無用の存在ですが、唯一有用であるといえるのは、この「君たちって何なの?」という問いを、問われつづけることにあるんじゃないかと。


他の学部の学生たちが、世の中に役に立つ知識を着々と身に付けていくなかで、世の中にあまり役に立たなそうな知識を黙々と詰め込んでいく、文学部の学生。


人は、自分たちと異なる行動をとっている人間がやっぱり気になるし、目障りなんだと思います。


繰り返しになりますが、この「あいつら何か変!」という“よくわかんない部分”があるからこそ、文学部の存在は、有用なのです。


……ちがうかな?


◆文学部出身の人の役割

最後に、そんな「世の中にとって役に立つ知識を持たない人たち=文学部出身の人たち」は、大学を卒業したあと、この世界にどう貢献していくべきなのかを、考えてみたいと思います。


私は、文学部出身の人間が果たすべき役割は、「誘惑すること」だと思っています。


世の中に役に立つことをしっかりと学び、世界に貢献している人たちに対して、私たちは、感謝の気持ちを忘れてはなりません。でも、言い方によっては非常に失礼なのですが、


「何でそんなことやってるの? こっちにおいでよ、楽しいよ~!」


と、マジメに頑張ってくれている人たちを誘惑し、脱線させ、混乱させ、邪魔をするのが、文学部出身の人間の役割なんじゃないかと、私は思っています。


ようは、世の中のトリックスターです。
トリックスター - Wikipedia


秩序を作る人間も必要ですが、それを乱す人間も(あんまり数はいらないけど、ちょっとだけ)必要だと思うんです。


「文学部なんていらないんじゃない?」


という白い目こそが、文学部の存在を際立たせる。


なので、文学部出身のみなさま、在籍中のみなさま、一緒に隅っこで、肩の狭い思いをしてましょう。



それこそが、私たちの、唯一の“役割”なのですから。


★★★

文学部いる派の人も、いらない派の人も、出身の人も、そうでない人も、何かいろいろごめんなさい……。

よ、よくわからない主張だと我ながら思います。

ちなみに、文学部時代の私の愛読書。

ハイスクール・ブッキッシュライフ

ハイスクール・ブッキッシュライフ