「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とはよくいったものですが、人にとって最大の「語りえぬもの」とは何でしょう。私が思うに、それは「自分」です。生まれてから24時間、365日一緒にいるにも関わらず、永遠の謎であり、永遠のブラックボックスであるのが、「自分」なのです。
しかしこの世界と接触するためには、望む望まないに関わらず、「自分」の思考と肉体を媒介としないわけにはいきません。「自分語り」は時として多大な危険を孕みますが、今回はいつもより少し、「自分」に近い世界のことを書いてみようかな、と思いました。
人間は分類なんてできません
先日、湯山玲子氏の『文化系女子の生き方』という本を読んだんですね。感触としては、賛同できる部分が4割、同意しかねる部分が6割といった具合だったのですが、面白い本ではありました。
- 作者: 湯山玲子
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2014/08/29
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ちなみに、私は自分のことを「文化系女子」と自称したことはありません*1。大学院で芸術の勉強をしていたし、このブログでもアートや映画のことをたくさん扱ってはいますが、他人に「文化系女子」といわれると、私はちょっとムカッとしてしまいます。とはいえ、「お前が”文化系女子”ではない理由を説明しろ」といわれると正直困るわけで、これは何か明確な根拠があって否定しているのではなく、ただ単純に、自分がわかりやすい属性に分類されることに抵抗があるだけです。そしてこれはまあ、幼い反発心でしかないので、どうでもいいです。
しかし、分類されることを拒む私のような人間でも、自分に何らかの属性をあたえられることによって安心したり、また目の前のだれかを分類することで相手への理解を早めようとする、その「欲」はもちろんわかるのです。本書のタイトルには「文化系女子」とありますが、ページをめくると目次には「ドラッカー&サンデル女子」「アート大好き女子」「日本酒女子」「バーキン女子」など、様々な「文化系女子」の下位カテゴリーが並んでいます。「欲」はわかる。わかるけど、ずらりと並ぶこれらの言葉を見ると、私は「げげげ〜」って思っちゃいます。
くりかえしますが、「ナントカ系うんたら」ってつい分けたくなっちゃうその衝動ははすごく理解できるし、私もたぶんしょっちゅうやっています。だけど、人間とは基本的に”例外”のカタマリです。真面目な人間に魔がさすことだってあるし、捨て猫をひろう不良だっているのです。
ちょっと本の内容とはかけ離れた話をしているんですが、人間とは本来分類なんてできないものであるにも関わらず、そこをあえて分類してしまっているんだ、という大前提を、私たちはもう一度思い出すべきではないかと思いました。「ロールキャベツ系男子」って単語を初めて聞いたとき、「何だそりゃ」って思いましたよ、私は……。
だれかをわかりやすく分類して、相手への理解を早めようとする行為は、「理解する」という非常にめんどくさい階段を、ズルしてすっとばすような暴力性を持っています。あのね、階段すっとばしたら、途中でコケますよ。それが自分に向かっていても同じです。だから、なるべく「ナントカ系うんたら」に頼らずに互いを見ていきたいと思うのは、私だけでしょうか。
「好き」の表明は何も意味しない
さて、具体的に本書の内容に踏み込んでいくと、ここではtwitterなどのSNSで安易に「Aが好き」と語るくせに(プロフィールにも表示しているくせに)、実際話を聞いてみたらAのことも、そのAに影響を受けた/あたえた他のアーティストや背景知識のことも、なーんもわかっていない女子、みたいな例がたくさん出てきます。まあ、私もけっこう見栄っぱりなところがあるし、すぐ知ったかぶりするので、このあたりは耳が痛いやら何とやら、という話ではあります。
そこで思ったのは、もう現代において、「これが好き」と表明することは、ほとんど何も意味しないんだなあということです。「アンディ・ウォーホルの作品が好き」といったところで、ウォーホルの作品に関する表面的な知識は、インターネットを使えば数秒で手に入ります。一昔前ならそれなりの努力や苦労をしなければ手に入らなかったものが、今は一瞬で手に入る。ウォーホルに対して何の見識も持たない人でも、5分くらいの時間とスマホがあれば、それなりのことは語れるようになるでしょう。だから、twitterやら何やらのプロフィールは、血なまぐさい努力を一切しなくても、なんかそれなりに、自分が他人に見せたいように、いくらでも作れちゃうのです。
もう現代において、アートや映画、音楽や漫画などに対して、ただ「好き」と表明することはほとんど意味がない。では何に意味があるのかというと、「その作品によって何が語れるか、どのうよな自分の哲学を導き出せるか」です。
ちょっと人間性に浅いところがある私は、以前は「好きな漫画は?」という質問に『ONE PIECE』とか『スラムダンク』とか答えてくる人が苦手でしたが、そういえば最近は何も思わなくなりました。本当に聞きたいのは作品名ではなく、その作品からその人が得た「哲学」です。「哲学」にオリジナリティーや魅力がなければ、どんなマニアックな漫画を答えようと、それは自分という人間に、何の付加価値もあたえません。逆に、どんな王道な漫画を答えても、その背景に「その人なりの哲学」が見えれば、それはその人の魅力を底上げするでしょう。
本書はこのあたりのことを「文化系女子の生き方」として語っていますが、哲学が語れない人間に魅力をかんじることができないのは、性別も年齢も関係ありません。なので、これは「文化系女子の生き方」というよりは、もっと普遍的な「人間の生き方」の話だよな、と私は思ったのでした。
哲学があればなんでも切れる
また本書では、寺山修司の「シェークスピアを面白く読める人は、東京の電話帳だって面白く読めるわけだ」という言葉が、何度か引用されています。
シェークスピアとは文化・教養のことで、電話帳は「リアル」のことである、という解説が本書ではされていますが、これはもっと幅広い解釈ができそうでもあります。私は「シェークスピアを面白く読む」ということを、前述した「その人なりの哲学がある」ということに読みかえてもいいと思うんですよね。
その人なりの哲学や、何かを語るときに武器となるような自分の軸を持っておくと、東京の電話帳はもちろん、『ONE PIECE』のことも『スラムダンク』のことも、仕事のことも恋愛のことも日々のごはんのことも、たぶんなんでも面白く見ることができます。もちろん人によって、得意な領域・不得意な領域はあるでしょうが、1つの独自な視点、哲学を獲得すると、それでなんでもかんでもスパスパ切れちゃうみたいなところはあります。
問題は「その人なりの哲学」、それをどこでどうやって獲得するかという話ですが、本やアートなどの文化・教養から吸収して現場に応用するもよし、逆に現場で得たものを文化・教養の世界に応用するっていうのも私はできると思うんですよね。仕事で学んだ教訓を、シェークスピアを読むときに活かすみたいな。そしてそれは、文学部の教授が読むシェークスピアよりも、もしかしたら面白いかもしれません。
だから文化系女子、というか現代に生きる我々にできることは、とにかく自分の武器を徹底的に磨き上げること、そしてそれによって、シェークスピアから『ONE PIECE』からリアルの仕事や恋愛まで、なんでもぶった切れるようになることです。そしてそれが可能になれば、しばしば文化系女子にちょっかいを出すと噂されている「文化系説教オヤジ」を撃退する、もっと根本的な解決方法になると思うのです。自分の「哲学」と相容れないオヤジは、一瞬で見分けられますからね。
★★★
本当はもう少し「自分語り」を盛り込む予定でしたが、なんだか結局「語りえぬものについては沈黙しなければならない」を貫く形になってしまいました。私好きなんですけどね、この言葉。
さて、あなたはそのナイフで、今度は何を切りますか。
*1:それに似たことをいいたいときは、「サブカルクソ野郎」っていってます。自虐的な要素があればいいのかもしれない