「サリンジャーは隠れる。ピンチョンは逃げる」。
と、どこかの批評家がいっていたらしいですが、実は正体はあのJ・D・サリンジャーなんじゃないか? なんて噂が(冗談まじりにしろ)立ったこともある謎の作家、トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』が映画化されたというので、早速観てきました。映画のタイトルは『インヒアレント・ヴァイス』。監督はポール・トーマス・アンダーソンです。今回は、この映画の感想を書きます。
映画『インヒアレント・ヴァイス』予告編【HD】2015年4月18日公開 - YouTube
ピンチョンとパラノイア
原作『LAヴァイス』を書いた作家トマス・ピンチョンは、1937年ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。ただしこの人、メディアから逃げ回ってめったに姿を現さないことで有名で、そのせいで「謎の作家」なんていわれているようです。私はこの人の作品、『競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)』と『スロー・ラーナー (ちくま文庫)』に挑戦したことがあるんですが、恥ずかしながらどちらも読み切れず挫折しています。まわりの人に聞いても挫折組がめちゃくちゃ多いので、ちょっと一筋縄ではいかない作家なのかなあと思います。素人の読者が読んで楽しむというよりは、玄人ウケする作家っていうんですかね、作品が発表されるや否や世界中の批評家や研究者が飛びついて、一斉に解読と議論が行なわれる、というタイプの人みたいです*1。まあ私はサブカルクソ野郎なので、そういう事情で、読めてないクセに昔からずっとこのトマス・ピンチョンという人には興味をそそられ続けています。世界中の研究者が夢中になる謎の作家、かっこいいでしょ(浅い認識)。
というわけで小説はちゃんと読めてないのですが、少しでもピンチョンの書いている内容が知りたくて、批評文はいくつか目を通したことがあります。いちばんわかりやすかったのは池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』の最終章。20世紀を代表する文学として、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』とともに『競売ナンバー49の叫び』が紹介されています。
- 作者: 池澤夏樹
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こちらや他の批評文で読んだことを私なりに統合すると、ピンチョンの作品は「エントロピー」「陰謀」「パラノイア」などのキーワードを思い浮かべながら読み進めていくのがよいらしいです。
「エントロピー」というのは熱力学の用語で、「お湯と水を混ぜるとぬるま湯ができるけど、ぬるま湯をお湯と水に分離することはできない」みたいなやつですが、これはピンチョンの描く「世界は秩序から無秩序へ向かう、逆はありえない」という世界観を表しているそうです。
そして「陰謀」というのは、9.11の陰謀説とかありますが、アメリカという国家に巣食うパラノイアですね。みんなが疑心暗鬼になるような、大きな謎があるように見える。でもその謎は幻想かもしれない、私だけの妄想かもしれない……といっても、一人で思い悩んでいるうちはまだかわいいもんですが、アメリカは「イラクには大量破壊兵器がある、それで本土を攻撃しようとしている」と思って実際に戦争を始めてしまったりするので、ぜんぜん笑えないわけです。あと私が挫折した『競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)』では、主婦たちがタッパーウェア・パーティーを行なっている様子が描かれてたりしますが、密閉容器のタッパーを売る目的で開かれるこのパーティー、日本でも有名人たちを巻き込んで有名なネズミ講のあの組織を想起させたりするので、トマス・ピンチョンという人はなんかもう本当にビョーキっぽい世界を描いている作家として私は認識しています。
しかしそのなかでも、今回映画化された『LAヴァイス』は、比較的ライトな部類の作品にあたるよう。なので映画も、そういうパラノイア的な世界観を示しつつけっこうコメディタッチだったので笑えたんですけど、それにしたって予告編に出てくる「この事件の先に”愛”はあるのか?」というコピーはちょっと能天気すぎるだろ、と思っちゃいました。この予告編、映画を観終わった後に始めて家で流したのですが、愛がテーマだなんて一瞬も考えませんでしたよ……。
「内在する欠陥」
で、ようやく話の中身に入りますが、この物語の主人公であるドック・スポーテッロという男は、ヒッピーの生き残りみたいなやつで、私立探偵をしています。だけどヤクにハマっているので、彼が追いかけている事件が本物なのかどうかわからない。しかもまわりの人間もやっぱりヤクにハマっているので、ドックの見ているものも幻想かもしれないし、まわりの人間の見ているものも幻想かもしれないし、でも本当に彼の追いかけている陰謀めいた誘拐事件もあるのかもしれないし、どうする?ーーみたいなかんじで、どこまでが現実でどこからが幻想なのか、陰謀はあるのかないのか、何がなんだかわからない、という話なんですね。
先に書いたように、ピンチョンの作品のキーワードとして「エントロピー」というやつがあります。秩序立った世界が、無秩序化していく様子のことです。今まさに我々はこの現状を目にしているところですよね、大手メディアである新聞やテレビの影響力が薄れていき、個人ブログやtwitterなどの、インターネットの力が強まっていく。これは、いってみれば映画のなかで表されているような「どこまでが現実でどこからが幻想なのかわからない」という世界観と一致します。大手メディアは信用できないけど、だからといって個人メディアなら信頼できるというわけでは決してありません。「(チェコ好き)の日記」なんてわけのわからないブログを信頼したらダメです。だれのいっていることが本当なのか。世界は本当はどうなっているのか。しかし、一度混ぜたぬるま湯をお湯と水には分離できないように、世界の秩序をもう一度構築しようとすることは不可能です。
ちなみに『インヒアレント・ヴァイス[Inherent Vice]』とは「内在する欠陥」という意味ですが、保険用語なんだそうです。これは映画のラストのほうのシーンで*2言及があります。セリフをはっきり覚えていないのですが、「内在する欠陥=避けられない危険ってこと?」みたいなことを登場人物がいっていた気がします。
世界の無秩序化という、その流れ自体はもうどうしようもないのだけど、そこには「内在する欠陥」がある。というか、世界がまだ秩序を構成していたころからずっと「内在する欠陥」はあったのだけど、秩序が崩壊することによってそれが可視化されてきた。あんまり解釈とかしたくないのですが(疲れるので)、なんかそういう話なのかなと思いました。ただし、その「欠陥=避けられない危険」とは何のことなのか? それを言葉にすることは、私にも、だれにもできない気がします。
とりあえず、ラリってて楽しい映画でした。オープニングでかかる曲がまじかっこいいので、しばらく私はこれを聴いて過ごそうかなと思います。
※原作
LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)
- 作者: トマスピンチョン,Thomas Pynchon,栩木玲子,佐藤良明
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※参考文献(帰りに衝動買いしたもの)
- 作者: 麻生享志,木原善彦
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