チェコ好きの日記

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どこにでもいる人は、どこにもいない。

先月ですが、たまに寄稿させてもらっている「ぼくらのクローゼット」の座談会というかオフ会のようなやつがあり、他の寄稿者の方々とお話させてもらいました。

私が「ぼくクロ」に寄稿したコラム
※現在は見られません

わりとクローズドな会だったのでまあ書かなくてもいいかということで流していたのですが、シロクマさんとズイショさんが書いていたのを見たら私も触発されて何か書きたくなってしまったので、書きます。

おじさんの集まるオフ会に出席した - シロクマの屑籠
「普通のおじさん」はどこにいる? - ←ズイショ→

ぼくらのおじさんとおばさんの暗い話

「ぼくらのクローゼット」、略してぼくクロは、哀愁漂うというか、どこか加齢臭のするメディアでして、若くてキラキラした将来性のある方々が作る/またはそういう方を想定読者としている他のメディアとは、一線を画する存在です(たぶん)。先月参加したオフ会は寄稿者のなかでは私が最年少だったようですが、小学生の頃から「老けてる」「落ち着いてる」といわれ続けてきた自分にとっては、おじさまやおばさまに囲まれている会というのはかえって居心地が良かったのでした。

私はシロクマさんがぼくクロに寄稿されていたエントリと、その後ご自分のブログのほうで書かれていた「四十才、夢から醒めて、逃げ場無し - シロクマの屑籠」がとても心に刺さってしまい、座談会でもそのことについて話題にしていたのですが、こういう「普通のおじさん」が年齢の変化に関する心境を語るのって、今まではそれこそ地方の居酒屋とかに行かないと聞けなかったのかなあと思います。だけど、私はコミュ障なので、地方の居酒屋でそのへんのおっちゃんと仲良くなってここまでのことを聞きだすのはちょっと無理です。厳密にいうと、精神科医でありご著書もあり古参のブロガーでもあるシロクマさんは「普通のおじさん」ではないのですが、普通でないおじさんが普通のおじさんに擬態して書く文章、というだけでも十分価値があるものだと私は思います。なぜなら、今キラキラしたメディアで話題になっている前途ある若者や第二の人生を歩んでいるアラフォー、アラフィフの方々は、人口の比率から考えたらごく一部であり、多くの人のロールモデルにはなりえないからです。そういう人たちが頑張る様子を見るのって勇気をもらえることもあるけど、私は魂が枯れているので、あんまりそういうのばっかりだとけっこう疲れてしまいます。シロクマさん以外に「普通のおじさん」的視点から加齢の心境が綴られているものとしては、私はfinalventさんの『考える生き方』という本が好きなのですが、finalventさんもまた怖ろしく教養のある方なので、こちらもやはり「普通のおじさん」ではないだろう、という話になってしまいます。

考える生き方

考える生き方

座談会で「おじさん・おばさんの明るい未来の話をするか、暗い未来の話をするか、どっちがいいだろう?」という話にもなって、これについてはいろいろな意見が出たのですが、私個人の希望としては断然、後者の話が読めるメディアの登場を待っています。人生への後悔とか、あのときああしておけばよかったとか、この先の人生どうすればいいんだとか、もっといっていいならもう介護の話が読みたいですね。介護ってかなり個人的な領域に踏み込むことになるので、なかなか現実的な話が聞けない、共有できないという問題がある気がします。だけど健康問題や介護問題をスルーできるのは若くして夭折してしまうような稀有な人だけなので、これはけっこう需要があるはずだし、それこそブルーオーシャンなのではないでしょうか。「30歳から考える親の介護・自分の老後」みたいなウェブメディアがあったら私はめっちゃ読みます。金銭面からこういうことを考えている本などは探せばありますけど、精神面に焦点を当てたメディアや本ってまじで皆無な気がします。ぼくクロ離れてしまいますけど。

どこにでもいる人は、どこにもいない。

他に考えたこととして、座談会では、けっこうな頻度で「普通のおじさん」というワードが飛び出していたんですけど、普通のおじさんてなんだという話ですよね。ずっと会社勤めをしていて、特にブログとかも書いていなくて、住まいが大都市圏じゃない人とかが普通のおじさんかな。私の父親なんかはけっこう「普通のおじさん」な気がします。

本当はこういった「普通のおじさん」の知見というのはもっと共有されるべきなんですけど、普通のおじさんはとにかく人目につかないところに生息しているので、ウェブメディアなんかには間違っても出てきません。座談会中には「『私、普通のおじさんです!』といってメディアに登場した時点でもう普通のおじさんじゃない、変なおじさんだ」みたいな話も飛び出しましたが、本当にそう。かくして今日も普通のおじさんの生態は秘匿されてしまうわけです。文章を書ける人、メディアに出る人っていうのはその時点でもう、ちょっと変な人だからです。

では、メディアに出るという条件を除けば、「普通のおじさん」というのはどこにでもいるのか、たくさんいるのかという話になるんですけど、よく考えてみるとそうでもないのかもしれません。新橋で飲んだくれているサラリーマンに話を聞いても、よく取材してみるときっと全然「普通じゃない」エピソードが飛び出てきたりすることは、容易に想像できます。うちの父親も、普通の人ですけど普通じゃないエピソードはわりと持っている気がします。そう考えると、「普通のおじさん」というのはいわば仮想の概念で、実態はどこにもないんじゃないかなんて私は思ったりするのです。

これと似た話で、たとえば私が以前から気になっていた「量産型女子」っていう言葉があるんですけど、これってつまり「よくいるタイプの女の子」ってことですよね。だけど、みなさんはこの「量産型女子」に該当するような、身近にいる具体的な知人の名前をあげることができますか? 私はこれ、大学生のときに「よくいる女の子」ってどんな女の子だろう? と思って、ノートに彼女の具体的なプロフィールを書きだしてみたことがあったんですけど(好きな芸能人とか、好きなマンガとか、スタバによく行くとか、バイト先とか、そういうの)、「よくいる」はずなのに私の実際の知人にそのプロフィールがそっくりそのまま当てはまる女の子は1人もいなくて、「よくいる女の子」というのは実はどこにもいないんだと実感したのです。「普通のおじさん」「量産型女子」、他にも「いるいる~!」と思わずいってしまいそうな人物のプロファイルってありますが、実はそういうのって概念上の存在でしかないケースが大半なんじゃないかと思います。

それをふまえた上で「普通のおじさん」とは何かというと、どこに出しても恥ずかしくないような「普通のおじさん」に該当する人物は探してもたぶんどこにもいません。ただ、1人1人の特殊なおじさんのなかの、「普通の部分」を抽出することならできます。シロクマさんのなかの普通の部分、ズイショさんのなかの普通の部分。私のなかの、「よくいるタイプの」普通の部分。そういう、おじさん・おばさんたちの普通の部分を抽出した暗い話をする(でもそのなかに僅かな希望もある)メディアに「ぼくらのクローゼット」がなってくれたら、なんだかわくわくすることが起こりそうな予感がします。

というわけで、楽しい会合へのお誘いありがとうございました。寄稿者のみなさま、編集のみなさま、読者のみなさま、今後もよろしくお願いいたしします。